企業倫理のあり方・PFASとグリホサートを例として(その2)


東京大学名誉教授

印刷用ページ

~ 第1部 PFAS問題にみる企業倫理 ~

2つの問いを分ける

PFASの歴史を企業倫理の題材とするとき、しばしば「PFASの使用が始まった半世紀前には毒性や環境汚染という概念が薄く、反応性の低い物質ゆえ有害とは考えられなかった。汚染は世界規模で広がったが誰も気づかず、牛の大量死ではじめて表面化した」という筋書きが前提とされる。このうち、揺籃期の概念的未成熟、いまなお個人レベルの因果が未確定であること、規制をめぐる綱引きは事実に即している。しかし「誰も気づかなかった」「毒性はないと考えられていた」という部分は、訴訟で明らかになった記録と食い違う。気づいていたのは、ほかならぬ製造企業だった。

同時に、逆方向の誇張にも注意が要る。この事件を告発する側は、しばしば3つの劇的な健康被害の逸話、すなわち1979年に単回投与で死んだ犬、1980–81年の女性従業員の子の先天異常、1998年のテナント牧場の牛の大量死を中心に据える。だがこれらはいずれも因果的な裏づけを欠く。したがって、ここではこれらの逸話に依拠せず、争いの余地のない事実を判断の軸とする。

そのうえで、2つの問いを分ける。第1は、PFASの有害性に関する科学の問いである。第2は、各時点で企業が握っていた知見に照らして、その対応は正当だったかという倫理の問いである。因果関係の解決を待たなくても、倫理的評価は可能だからである。

第1期・揺籃期(1940–50年代)

この時代は、残留性・生体蓄積という概念そのものが未成熟で(『沈黙の春』は1962年)、炭素フッ素結合が不活性であることから「反応しない=安全」という直感が働いた。pptレベルの汚染を検出する分析化学も存在しなかった。この時期の「知らなかったこと」自体を責めるのは、後付けの誹りを免れない。

第2期・知見蓄積期(1960–90年代)

この期の倫理的問題は、事実の隠蔽にある。3Mは1970年代半ばまでに、PFOA(別名C8)・PFOSが環境中で分解しないという事実、そしてヒトの血中に蓄積すること、一般集団の血中に広く存在することを把握していた。

これに、動物での実験結果が重なる。1961–62年のラット試験は肝・腎・膵の変化を示し、3Mは1978年に内部でPFOS・PFOAを「毒性物質とみなすべき」と結論し、1993年のラット試験は精巣・膵・肝の腫瘍と関連づけ、1999年のサル試験では低用量で数か月内に死亡・安楽殺が生じた。にもかかわらず3Mは、毒性を示す社内研究を20年以上環境保護庁(EPA)に提出しなかった。

さらに、血中蓄積を把握しながら、従業員にはPFOA(C8)を「食塩のように毒性が低い」と説明し(1980年)、地下水汚染に関しては「C8に既知の毒性はない」と広報した(1991年)。ここでの倫理的失敗は、不利な情報を、開示義務のある相手に開示せず、むしろ反対の内容を積極的に表示したことにある。

1980–81年、DuPontワシントン・ワークス工場で、C8に曝露した女性従業員8人のうち2人の子どもに先天異常が認められた。81年3月に3MからC8曝露ラットの胎児に眼の異常が生じたとの情報を受け、DuPontは同月末、C8曝露の可能性がある職場から女性従業員50人を製造ラインから配置転換した。しかし、その後ラットの実験は再現性がないことが分かり、従業員の配置は元に戻された。また、その後のC8科学委員会は先天異常に「関連の可能性」を認めず、約1万件の出生を扱ったSteinら(2014)も関連を見いださなかった。にもかかわらず、この挿話が倫理から消えないのは、女性従業員の配置転換という予防的行動をとりながら、対外的には「証拠なし」と否定し、当事者である本人にも伝えなかったことだ。

第3期・顕在化(1998年~)

1998年、ウェストバージニア州パーカーズバーグの酪農家ウィルバー・テナントの牛が150頭以上死んだ。農場周辺はDuPontのテフロン製造由来の多成分汚泥の埋め立て地だった。だが死因はPFOAとの因果が立証されず、2001年の和解も責任を認めない形だった。倫理的な問題点は、ここでも因果とは別のところにある。まずDuPontは、この土地を「非有害物」用の埋立地と称して取得しながら、実際には大量のPFOA含有汚泥を投棄した。しかも、埋立地から小川へ漏出するPFOAが最大1600 ppbという高い濃度に達していたのに、公表しなかった。そして1999年にDuPontとEPAが選んだ6名の獣医師による調査が始まった。その結果は、牛の死を牧場管理の不備に帰するものだった。しかし、この地域の重大な化学物質汚染という事実は、「飼育の失敗」ではない可能性を示している。

証拠の総合

PFAS史の企業倫理的な失敗は「予見できたか」にはなく、また告発の情感的中心をなす劇的な逸話にもない。それは、各時点で企業が握っていた情報、血中への蓄積と残留性、動物試験の警告、自社で計測した飲用水源の高濃度汚染に、どう振る舞ったかにある。これらを20年以上当局に提出せず、確実な根拠と説明なしに「食塩並み」「既知の毒性なし」と反対の表示を行い、テナント牧場には測定値を伝えず、露見すると被害者を責めた。逸話を退けてなお残るこの骨格こそが、責任の所在である。因果の科学と行為の倫理を分け、単一の結果ではなく証拠の総合に拠って論じれば、後付け批判にも情感的誇張にも陥らず、各時点の責任を筋道立てて評価できるはずである。

~ 第2部 グリホサート問題にみる企業倫理 ~

なぜ標的になったのか

グリホサートは除草剤ラウンドアップの主成分で、有効かつ安価な除草剤として世界に普及した。世界の主要な規制機関はいずれも、グリホサート系除草剤は安全に使用できると結論している。その運命が一変したのは、ラウンドアップ耐性遺伝子組換え作物(GMO)の登場である。市場のGMOの多くがグリホサート耐性であるため、グリホサートを使用禁止にすればGMOをほぼ排除できる。こうしてグリホサートは、反GMO運動の格好の標的になった。

その典型がセラリーニ論文(2012年)である。微量のラウンドアップをラットに投与すると腫瘍が生じるという主張だったが、腫瘍を生じやすいラット系統の使用・わずかな匹数・不適切な統計を理由に世界の研究者から批判され、2013年に撤回、2014年に別誌へ再掲載された。そして今なお反ラウンドアップのバイブルとして使われている。

次の動きが、国際がん研究機関IARCによる2015年のグループ2A(ヒトに対しておそらく発がん性がある)という分類だった。だがこれは「ハザード(有害性の有無)」の分類であって「リスク(現実の曝露での危険)」ではなく、EPAやEFSAなど主要な規制機関はいずれも発がん性は考えにくいと結論して、この分類を厳しく批判した。さらに、IARCワーキンググループの助言者が、分類発表の直後に原告側法律事務所の有償顧問となっていた利益相反も問題視された。そしてIARC判定の後、米国の法律事務所が集団訴訟を開始し、販売元のMonsanto(後にBayerが買収)は巨額の懲罰的賠償を課されていくことになる。

「知る過程」の汚染

通称Monsanto文書(ラウンドアップ訴訟の証拠開示および仏ルモンドの調査)が暴いたのは、「危険な製品を隠した」ことではない。製品そのものの安全性は科学的に確立していたのだが、問題は、社会がその製品の安全性を知るための過程そのものを汚染したことである。中身は3つに整理できる。

① 論文のゴーストライティング。 規制機関が数十年にわたり安全性の根拠として依拠してきた論文(Williams, Kroes & Munro 2000)は、実際にはMonsantoの科学者が実質的に起草し、外部の学者が主著者として名を連ね、企業の関与は伏せられていた。この論文は700本超の学術論文やEPA提出資料に引用され、「グリホサートは安全」という合意の支柱になっていたが、2026年1月にゴーストライティングを理由に撤回された。独立性こそが科学の権威の源泉である以上、その偽造は、結論の正当性とは無関係に不正である。

②審判の抱き込み。 中立であるべき規制機関が企業と一体化していた疑いが文書化されている。中心人物はEPAの高官で、彼はグリホサートの発がん性を評価するEPAの発がん性評価委員会の委員長だった。2015年3月にIARCが2Aの判定を下すと、MonsantoはATSDR(毒性物質・疾病登録庁)が同様の結論を発表することを強く恐れた。同年4月、Monsanto社員が社内に送ったメールは、EPA高官が「ATSDR審査を潰せたら勲章ものだ」と電話で語ったと伝えている。留意すべきは、EPAの「発がん性は低い」という結論自体は科学的に正しい。違反は結論の正当性ではなく、発がん評価を行う規制機関の主審が規制対象企業と裏チャネルでやり取りし、その利益に沿って別機関の独立審査まで抑えにかかった点にある。

③独立機関への攻撃。 Monsantoは IARCの2A判定に異議を唱えたのだが、それ自体は、ハザードとリスクの混同や、利益相反のある科学者のIARCへの関与などを根拠とする正当な権利である。違反は批判の方法にある。すなわち、出所を秘して「企業から独立を装った」批判、反論を超えて、機関そのものを弱体化させようと画策したこと、さらにジャーナリストや活動家を追跡する監視部門を運用したことである。正当な批判権は、これらの手段を免罪しない。

認識的誠実性の違反

PFASの違反が開示義務の違反だとすれば、グリホサートの違反は認識的誠実性の違反である。前者は悪い知らせを隠し、後者は都合のよい証拠を独立の科学に偽装した。前者は秘匿による沈黙、後者は偽の独立的合意の製造であり、方向は正反対だ。

公平のために、決定的な違いを置いておく。グリホサート事件の認識的腐敗は、片側だけの話ではない。反対側にも、撤回されてなお使われ続けるセラリーニ論文があり、利益相反を抱えた科学者によるIARC判定があり、訴訟を主導する法律事務所の資金で動く科学がある。共有された証拠基盤が、複数の方向から劣化させられた。これが腐敗がほぼ製造者側だったPFASとの決定的な違いであり、単純な「加害企業 対 被害者」の道徳劇にならない理由である。ここでは、企業は科学については正しく、倫理については間違っている、というねじれた同時成立が起きている。

そして、この対称性はMonsanto自身の防御にも跳ね返る。セラリーニ論文やIARCの利益相反という反対側の腐敗は、Monsantoに正当な不満と、公然と論点に即して批判する権利を与える。だがそれは、腐敗した手段、すなわち偽の独立批判者の動員・機関つぶし・監視を、いささかも正当化しない。相手が腐敗していることは、こちらの腐敗の免罪符にはならない。腐敗した手段は、立場の正しさとは独立に不正である。この規律は、告発側にも擁護側にも等しく効く。

~ おわりに 企業倫理の2つの顔 ~

開示義務 と 認識的誠実さ

PFASとグリホサートの2つの事例を並べると、企業倫理の異なる2つの顔が見える。PFASの違反は開示義務の違反であり、企業は不利益な情報を伏せて、反対の表示をしたという、不作為・秘匿の側にある。グリホサートの違反は認識的誠実さの違反であり、企業は有利な証拠に「企業からの独立」の装いを与え、評価機関を抱き込むという、作為・偽装の側にある。方向は正反対だが、傷つけている対象は同じで、社会が真実に到達するための証拠基盤である。

論点は、一つに要約できる。判断は単一の結果ではなく証拠の総合性に拠るべきであり、その担保が、透明性と独立・集約された精査である。PFASの開示義務違反は、この場への情報入力を絞る行為である(データを提出せず、汚染を通知しない)。グリホサートの認識的誠実性違反は、この場を偽の入力で満たし、審判を無力化する行為である(ゴーストライティングと評価者の抱き込み)。隠すこと、偽ること、遅らせること。3つはいずれも、集団的な認識過程を妨げ、歪め、あるいは遅延させるという、同一の罪の変奏なのである。

企業倫理は、こうしてひとつに結ばれる。PFASが教えたのが「真実を隠すな」なら、グリホサートが教えるのは「真実を偽るな、知る手段を壊すな」である。どちらも情報の生態系の健全性にかかわる義務で、片や入力の秘匿、片や出所の偽装と審判の腐敗という、正反対の方向からの侵害だ。製品が安全か否かは、この義務を免除しない。むしろグリホサートでは、製品が安全だったからこそ、罪は「不要な嘘」という、より純粋な形をとった。

全体を貫く問いは、結局ひとつである。情報の非対称という企業の力を、他者の生命・健康に対してどう用いるか。知り得た不利益情報を、いつ・誰に・どう手渡したか。社会が真実を知る手段を、偽らず・壊さず保ったか。そしてその両方を貫く規律として、証拠の総合の場を、妨げず・汚さず・遅らせず、独立の精査へ開いておくこと。企業倫理の核心は、製品が安全かどうかの手前に存在する、情報の受け渡しの誠実さにこそ宿っている。

日米の制度差と自律的倫理の重み

PFASとラウンドアップで企業の倫理が米国の法廷において厳しく追及されたのは、米国に特有の4つの制度が噛み合った結果でもある。第1に、懲罰的賠償。実損害の塡補を超えて、行為の悪質さそのものを罰する制裁的な賠償である。第2に、ディスカバリー。訴訟前に相手の内部文書を強制的に開示させる手続で、これがなければ、モンサント文書も、テナント事件でデュポンが握っていた高濃度の測定値も、表には出なかった。第3に、クラスアクション(集団訴訟)と、成功報酬制の原告側弁護士。少額多数の被害者をまとめ、勝てば巨額の報酬を得られるため、法律事務所が自ら証拠を掘りにいく強い動機を持つ。第4に、陪審制。市民の陪審が「行為の非難可能性」に反応して高額の評決を出す。日本には、このどれも、米国ほど強い形では存在しない。

では日本では倫理が問われないのかといえば、そうではなく、問われ方の重心が違う。日本で企業を最も厳しく罰するのは、しばしば法廷ではなく、社会的評価である。不祥事対応を誤った企業は、行政指導、報道、消費者の不買、取引先の離反、株価下落、そして経営陣の引責辞任という形で「制裁」を受ける。四大公害訴訟は、日本でも加害企業に責任を課せることを示したが、それは補正的な賠償と、長い年月をかけた社会的・政治的な動員の産物であった。雪印・不二家、そして紅麹サプリメント事件のように、企業不祥事の帰結は、賠償額よりも、信頼の失墜と事業への打撃で測られてきた面が強い。

要するに、倫理の中身は日米で同じである。しかし、それを法が追及する度合いは、米国が強く、日本は弱い。そのぶん日本では、法廷ではなく社会的信頼が制裁の主役となり、企業の自律的な誠実さが、より重く問われる。同じ不祥事でも、米国では巨額の賠償で、日本では信頼の失墜と事業の毀損で、罰は下る。形は違えど、「逃げる・隠す・嘘をつく」ことに代償が伴うという芯は、変わらない。そして、日本でこそ、自律的な倫理、「逃げず・隠さず・嘘つかず」は、いっそう重いのである。

※(その1)はこちら