企業倫理のあり方・PFASとグリホサートを例として(その1)


東京大学名誉教授

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有機フッ素化合物PFASと除草剤グリホサートを題材として、企業倫理をリスク管理の観点から分析した。PFASについては、企業は大規模な環境汚染を引き起こした。その健康影響はまだ明らかではないが、企業は汚染という事実と誠実に向き合うことなく、倫理を破った。グリホサートについては、科学は安全を確認したのだが、企業はやはり倫理を破ってしまった。製品の有害性という科学の問いと、企業の行為という倫理の問いを分けて、企業倫理にあり方について考える。

~ 総論 企業倫理とリスク管理 ~

信頼と「逃げず・隠さず・嘘つかず」

「倫理の目的は信頼を得ること」である。そしてその手段は、「逃げず、隠さず、嘘つかず」に尽きる。企業倫理とは、倫理の主体を個人から企業へ移したものにほかならない。企業に固有の特別な道徳があるのではなく、一人の人間に求められる誠実さを、企業という主体に対して求めているだけである。

肝心なことは、「信頼を得る」ということは、信頼を「勝ち取る」ことであって、信頼を「作り出す」ことではない点である。勝ち取るとは、「逃げず・隠さず・嘘つかず」という行いによって、現実を信頼が、結果として、形成する。作り出すとは、認識を操作して信頼を演出すること、すなわち欺瞞的な評判管理であり、信頼を現実から切り離すことである。

「隠さず」は、知り得た不利益情報を伏せないこと、すなわち開示義務であり、第1部の主題である。「嘘つかず」は、真実を偽らず、知る手段を壊さないこと、すなわち認識的誠実性であり、第2部の主題である。そして「逃げず」は、露見したときに責任から逃げないことであり、第1部にも第2部にもその例が現れる。

主体が個人から企業へ移るとき、企業が握る情報の非対称は個人のそれをはるかに超え、その帰結はより多くの人に及ぶ。しかも主体が集団であるがゆえに責任は拡散し、「逃げず」の実行がとりわけ難しくなる。認識を操作する方法も、個人とは比較にならない規模で使える。だからこそ、「逃げず・隠さず・嘘つかず」の原則は、個人よりむしろ企業において重要になる。

企業倫理とは何か

企業倫理とは、企業がその活動を通じて他者、すなわち従業員、供給業者、消費者、地域社会、環境、そして将来世代に及ぼす影響について負う、法を超えた責任の体系である。それは隣接する3つの概念と区別される。法令遵守は当然の最低ラインであって、倫理そのものではない。評判管理は結果の管理であって、行為の正しさの規範ではない。社会貢献は付加的な善行であって、中核的な義務ではない。倫理はそのいずれとも異なり、企業がその立場ゆえに握る力、とりわけ情報の非対称を、他者に対してどう用いるかを問う。その核心は、知り得た不利益情報を隠さない開示義務と、真実を偽らず知る手段を壊さない認識的誠実性である。

企業倫理の目的は、第1に、企業活動の影響を受ける側を保護することにある。消費者、労働者、地域住民、そして同意も補償もできない将来世代がそれだ。第2に、市場・規制・公衆衛生が依拠する、信頼と正しい情報という条件そのものを保つことにある。第3に、企業が生み出した害を、企業自身が引き受けることにある。要するに企業倫理は、企業のためというより、企業の力の及ぶ範囲にいる他者と、社会が共有する情報の健全さのためにある。

その効果は2面に及ぶ。企業にとっては、持続的な信頼と正統性、事業を営むための社会的な許可を得ることになる。ただし、『倫理は割に合う』という利益だけを根拠にすると、不正のほうが儲かる局面で崩れてしまう。社会にとっての効果はより本質的で、情報の生態系、証拠の総合の過程という公共財を保ち、健康と安全を守り、規制や市場が機能するための信頼を支える。

リスク管理と倫理

企業のリスク管理には、性質の異なる2つがある。製品のリスク管理は、製品が健康・安全・環境に及ぼす現実の危害を扱うものであり、評判・社会的評価のリスク管理は、企業の評判・ブランド・法的曝露・株価・社会的事業免許への脅威を扱うものである。倫理との関係は、両者が一致するとき、すなわち製品リスクを正直に扱うことで、評判が守られているときには、緊張はない。

倫理が試されるのは両者が乖離するときである。典型的な失敗は、評判リスクの管理が製品リスク管理を変質させること、すなわち、リスクそのものではなく、リスクの見え方を管理してしまうことだ。本論説で取り上げる2つの事例はまさにこれであり、いずれも評判リスクの管理が製品リスクの管理を侵食した例である。

ここに、「評判」というものの2つの姿がある。健全な情報環境では、現実のリスクを正当に管理することによって、結果として良い評判が得られる。問題は、評判を第1の目的とし、それを現実から切り離して、認識を直接操作して管理しようとするときだ。欺瞞的な評判管理は、認識の腐敗の一形態である。

リスク管理は技術としては倫理的に中立である。それが倫理的か否かは、どのリスクを、どんな手段で管理するのかで決まる。優先順位として、現実のリスク(他者の安全)と評判リスクが乖離するとき、現実のリスクを優先する義務がある。判定の物差しは単純だ。そのリスク管理は安全を確保するのか、それとも、リスクが残ったまま企業を安全に見せるだけなのかである。

「安心=安全+信頼」

どれほど十分なリスク管理を行って「安全」を確保しても、リスクを管理する者への信頼がなければ、人は「安心」を得られない。安全と安心は、しばしば同じものとして扱われるが、まったく別の次元にある。安全は、リスクの評価と管理によって定まる、客観的な状態である。これに対して安心は、それを受け取る人の側の主観的な状態だ。そして「安全」という事実を、「だから安心」という心情へ橋渡しするもの、それが管理者への信頼である。「倫理の目的は信頼を得ること」と述べたが、信頼は、客観的な安全を公衆の安心へと変換する唯一の項であり、その意味で「倫理の目的は安心を得ること」と言い換えることも可能である。

安心を目的化すると2つの倒錯が生じる。一つは、安全を欠いたまま安心だけを演出する偽の安心。もう一つは、信頼を欠いた、すなわち不信感を抱いた公衆が、いかなる安全水準にも納得せず、達成不能なゼロリスクを要求することである。前者は企業の誘惑であり、後者は失われた信頼の帰結である。企業倫理が守るのは、現実の安全と、逃げず・隠さず・嘘つかずによって勝ち取られる信頼であり、安心は、その和として、おのずと現れる。

理想と実現可能性の対立

リスク管理には、避けがたい対立がある。リスクは可能な限り、あるいは念のため、ゼロへ近づけるべきだとする予防原則やALAP(As Low As Possible=実行可能な限り低く)と、実現可能な範囲で誠実に下げれば足りるとするALARA(As Low As Reasonably Achievable=合理的に達成可能な限り低く)の側だ。争点はこの「合理的に」を、倫理の要と見るか、逃げ口上と見るかに尽きる。

この対立は3つの点で解きほぐせる。第1に、答えはリスクの性質で変わる。ALAPが正当化されるのは、害が深刻・不可逆・不確実なときであり、ALARAが正当化されるのは、害が限定的・可逆的でよく分かっており、さらなる低減の費用が急勾配で上がるときだ。第2に、倫理の実質は「合理的」の中身にある。ALARAの「合理的に達成可能」は、抜け穴ではなく、正直に・透明に下すべき判断だ。倫理的な失敗は「合理的」を「我々にとって安上がり」へすり替えることにある。ALARAの倫理性は、自己都合でない誠実な計算と、残余リスクを誰が負うのかを直視することにかかっている。

第3に、これは信頼の問題でもある。ゼロリスクへの要求は、しばしば信頼の欠如の症状である。信頼があるとき、人々は「合理的に達成可能な低減」を受け入れる。「安心=安全+信頼」の式で言えば、ゼロリスクの要求は、信頼の項が負に振れたことの帰結にほかならない。だとすれば、正しい応答は、「逃げず・隠さず・嘘つかず」によって信頼を回復し、社会がALARAを受け入れられる土台を作ることである。

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