「気候関連財務ディスクロージャー」の課題(2)


国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)

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 製鉄所の工場敷地内からのCO2排出が多いということだけに注目して、これを気候変動リスクとして鉄鋼製造にかかわる事業活動に何らかの制約や追加的な負担を課せば、バリューチェーンの下流で社会全体に環境貢献することになる高機能部材としての鋼材生産に制限がかかることになり、長期的に地球全体の排出増を招くことになりかねない。またそうした制約が企業収益を圧迫すれば、使用段階で環境貢献が期待される高機能鋼材の研究開発に向けた経営資源を奪う結果となり、かえって社会全体の気候変動リスクの増大をもらたすことになりかねない。
 TCFDによるあたらしい企業評価の手法が、企業の事業活動がもたらす環境影響という「外部不経済」を評価するというのであれば、同時にこうしたライフサイクル的評価による、バリューチェーン全体の中で企業の製品が地球環境にもたらすプラスの貢献(外部経済)についてもきちんと定量的に評価して、プラスマイナスを合わせた「ネットの環境影響」について評価していかないと、気候変動リスクにかかわる包括的な評価を行うことはできない。
 特にバリューチェーンの中間段階で事業を行う素材や部品といった産業セクターについては、その事業活動だけを切り離して、単に工場からの炭素排出や自然資本の消費といった点のみに着目した報告求め、評価を行うと、バリューチェーン全体での環境貢献という視点が抜け落ちてしまい、偏った評価が行われることになりかねず、ひいては社会システム全体に想定しないマイナスの結果を招きかねないことに留意すべきである。企業の事業活動に関する気候変動リスク関連の報告・開示にあたっては、事業・生産活動による直接的な環境影響評価といった視点に加えて、個別企業の事業バウンダリを超えた、バリューチェーン全体における当該企業の環境影響評価という、ライフサイクル評価の視点も加えていくことが必要である。

4.環境影響の国際比較は困難
 先に示したように、TCFDの7つの基本原則の中では、「企業同士の比較可能性を担保すること」が求められているが、この実際の運用にはかなりの困難が伴う。
 企業の事業活動の実績については、GHGの排出量などの気候変動に関連するデータを含めて、事業活動を行っている国や地域、自治体の法制やルールに従った報告、開示が既に行われている。日本でも、温室効果ガス排出量やエネルギー消費量については、温暖化対策法、省エネ法等に基づく、詳細な実績データの定期的な報告が義務付けられている。こうした法的な実績報告システムでは、実績データの算出にあたり、どのような計算方法を用いるか、計算に必要となる様々な係数にどのような数字を使うか、といった細則がきちんと規定されており、日本企業がCSR報告書等で開示している実績データも、原則としてこうした公的な報告ルールに基づいて算定されており、従って国内の同一セクターの企業間での実績比較を行うことは可能である。
 しかし、日本と同様に温室効果ガス排出実績データの定期報告を企業に求めている国や地域は、EUをはじめとして多数あるが、算定にあたっての計算手法や、使用されている係数等はバラバラであり、従って全く同等の事業を行う事業所の実績でも、報告する国や地域によって結果の数字に差が出てくるため、国や地域をまたいだ比較は、厳密にルールを統一しない限り、できないというのが実態なのである。
 例えば鉄鋼業の場合、排出権取引制度を導入しているEU域内における、EU-TESベースの排出量算定方法では、製鉄所が外部から購入する電力については、所外の発電所における発電時のCO2をカウントしないことになっている。排出権取引ではあくまで工場の敷地境界から排出されるCO2を規制しているからである。一方、日本の温対法による計算方法では、製鉄所外部から購入電力するについても、所定の排出係数を掛けて発電時のCO2排出量を算出し、それを製鉄所のCO2排出量に加算するという、異なる思想に基づく計算方式が採用されており、従ってEUと日本では、全く同じ製鉄所でもCO2の排出量の計算結果は異なってくる。
 さらに言えば、日本やEUでは、企業に対して精緻なCO2排出量の報告が法的に義務付けられているが、そうした公的な報告制度のない国や地域では、企業がCSR報告書等で開示している温室効果ガスの算出方法の詳細は必ずしも明らかではなく、同じCO2排出量と言っても、等価のデータとして比較することはできない。あるいは今後TCFDの勧告に基づいて、企業に対して国際的にデータ開示が求められ、公的な報告義務を課されていない国や地域の企業も新たに開示を始めるといった場合でも、どのような計算手法、係数を用いるかについての共通の規定がなければ、自社に都合の良い恣意的な計算手法に基づいた報告が行われる、といった懸念もぬぐえない。
 事業活動がもたらす環境影響について、企業同士の比較可能性を担保する、という事に関しては、経済活動がグローバル化している中、鉄鋼業のように製品の過半が国境をまたいで国際間取引されているようなセクターでは、特定の国や地域内で限られた事業者間の比較だけ行うことは無意味となっている。日本の製鉄所から排出されるCO2も、中国の製鉄所から排出されるCO2も、地球温暖化にもたらすインパクトは同じである。世界共通の精緻な計算手法、係数を決めた上で、世界全体をカバーするような実績報告システムを構築しない限り、企業間で正しい比較を行うことはできないが、異なる地域、国で既にそれぞれ異なる計算手法、係数による報告システムが運営されているという実態の中で、これを世界的に統一化していくことは、現実的に容易なことではない。
 従って、今後TCFD勧告に基づく新たなディスクロージャー制度が導入、奨励されることになるとしても、当面は個々の企業やセクターの排出実績に関する国際的な定量比較については、現実的にではないということについて、その利用者の間で共通認識とされるべきである。その上で、実際に企業から開示された情報についても、先に指摘したバリューチェーンの中での位置づけや、ライフサイクル的なネットの環境価値を含めて、どのような意味を持っていて、「何に使えて何に使えないか」といった、実態に即した利用のためのガイドラインをきちんと整理し、恣意的な評価や数字の独り歩きによって、報告・開示した企業が不当に圧力を受けたり、不利益にさらされるといった事態が発生すること防ぐための慎重な対策を講じるべきである。

 以上、今FSBの下で「気候変動財務ディスクロージャー」タスクフォース(TCFD)として進められている新たな財務情報開示に関する検討について、その懸念点、課題について筆者の思いつく範囲ではあるが紹介させていただいた。更に詳しく検討すれば、他にも様々な論点があろうことは想像に難くない。
 TCFDの答申は、いずれ金融規制当局によって国際的なイニシアチブとして採用されていることが想定され、たとえ「任意的な」開示制度となるにしても、企業経営にもたらす影響は小さくない。しかし残念ながらその検討過程には、日本はおろか世界的に見ても、産業界からのインプットはごく限られているように見受けられ、欧米の金融や会計監査の関係者を中心に進められていて、上記のような視点からの検討が十分に行われていくようには思いにくい。本稿をお読みいただいた企業関係者、特にその情報開示の対象として想定されていると思われる産業界の関係者は、是非本件について今後ともフォローいただき、産業界のさまざまな実態や現実を反映したとりまとめがおこなわれていくように関与していただくことを望むものである。

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