IPCCシナリオの失敗は根が深い
テッド・ノードハウス
Executive Director of Breakthrough Institute/ キヤノングローバル戦略研究所 International Research Fellow
邦訳 キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 杉山大志
テッド・ノードハウス
Rich World, Poor World: RCP 8.5, IPAT, and Climate Impacts Reconsidered
https://thebreakthrough.org/issues/food-agriculture-environment/rich-world-poor-world
を許可を得て邦訳。
現実味が無いとして強く批判されていた排出シナリオであるIPCCの「RCP 8.5」がようやく廃止されたことで、科学者、政策立案者、ジャーナリスト、活動家らによって気候モデルや排出シナリオがどのように構築され利用されているのかが、当然のことながら浮き彫りになった。シナリオという「ソーセージ」の製造過程は、実は怪しげなものであり、個々のシナリオ内だけでなくシナリオ相互の関係においても、検証されていないあらゆる種類の仮定が横行していることが判明した。その結果、政治的な立場が異なるあらゆる関係者が、自らの先入観を裏付けるために選択できる、極めて機会主義的かつ幅広い結果が生み出されることになる。
RCP 8.5の放棄が、その変更に先立つ数年間続いてきたおなじみの激しい議論に目立った影響を与えていないことは、驚くべきことではないだろう。RCP 8.5は当初から非現実的なシナリオだったのか、それとも気候政策や再生可能エネルギーコストの低下によって非現実的なものとなったのか?科学者たちは本当にこれを「現状維持」シナリオと捉え、そう表現していたのか、それとも常に最悪のケースを想定した思考実験として理解していたのか?もし前者であるなら、それは誠実な誤解だったのか、それともRCP 8.5をそのように表現する強い逆説的なインセンティブが存在したのか?RCP 8.5の放棄は、気候変動がそれほど深刻ではない可能性を示唆しているのか、それとも2度や3度の温暖化でもやはり破滅的な事態が訪れるのか?そして、5度の温暖化はもはやあり得ないのか、それとも、RCP 8.5の想定する温暖化経路自体は非現実的であっても、世界がRCP 8.5が示唆するような極端な温暖化レベルに達する他の現実的な道筋がまだ存在するのか?
私の見解では、特定の立場に固執していない人であれば、これらの質問への答えはかなり明白である。そう、RCP 8.5は最初からあり得ないシナリオだった。確かに、多くの科学者や専門家は、それを「現状維持」シナリオとして扱って来た。確かに、RCP 8.5を用いていた多くの科学者の間には、多くの混乱や真の誤解があった。しかし同時に、それについてあまり深く問い詰めないよう促す、ある種の不適切なインセンティブも存在していたのである。確かに、気温が3℃上昇したからといって大惨事が確実になるわけでは決してない。しかし、気候感度の最大値を想定し、二酸化硫黄の排出量を大幅に削減し、かつ温暖化に同方向の増幅させるような気候フィードバックが存在すると仮定すれば、今世紀末までにさらなる温暖化が生じる可能性は依然としてあり得る。
しかし、こうした議論のほとんどすべてが見落としているのは、気候シナリオという取り組み全体がいかに推測に満ち、根拠に乏しいかという点である。
ここからそこへは行けない
IPCCのシナリオやモデル化における問題は、RCP 8.5に限ったことではない。想定される結果の全範囲にわたって、多くのシナリオは単純に筋が通っていない。たとえば低排出シナリオではしばしば、低い人口増加、遅い経済成長、そして速い技術変化を前提としている。こうした要因の組み合わせは、RCP 8.5 を生み出すために必要な「高い人口増加率、高い経済成長率、そして緩やかな技術革新」という組み合わせと同様に、まったくもって現実味に欠けるものである。それは単に、世界がどちらの軌道にも乗っていないように見えるからではない。むしろ、どちらの場合も、こうした未来を生み出すために必要な構成要素が互いに相容れないからである。
経済成長と出生率の低下との間には、近代化に関する研究において最も確固たる相関関係の一つがあると指摘されてきた。社会が都市化し、農業中心の経済関係から製造業やサービス業へと移行するにつれ、女性と家族には、子どもの数を減らし、より多くの家計資源を子どもの教育に向ける強いインセンティブが生じる。
技術変化の速度と経済成長の関係も同様に、頑健であるだけでなく、新古典派経済学の文献において基礎的な位置を占めている。長期的な経済成長の大部分は、技術革新によってもたらされていると言える。高く持続的な経済成長率は、それに伴って技術革新の速度を加速させ、その逆もまた然りである。
これら2つの関係を総合すると、起こりうる気候の将来像に対して非常に重要な示唆を与えてくれる。今世紀末の豊かな世界は、貧しい世界に比べて人口が少なく、必然的に技術的に進んだものになることはほぼ間違いない。それは、世界が見つけられる限りの石炭を掘り起こして燃やし尽くすような未来ではない。そしてその逆もまた真実である。貧しい世界は、ほぼ間違いなく人口が多く、技術的に遅れた世界となるだろう。それは、小さく縮小していく人口が地球に軽い負荷をかけながら暮らし、クリーンエネルギーへ急速に移行している世界ではない。
気候システムにおけるフィードバックについてはあれほど議論されているにもかかわらず、社会経済システムにおけるフィードバックについて、私たちはあまりうまく考えられていないし、ましてやそれをモデル化することについてはさらに不得手である。この問題は、今世紀を通じた排出量と放射強制力を、投機的で時には空想的な社会経済の軌道に基づいて推計する排出シナリオを用いて、社会に対する気候影響をモデル化しようとすると、いっそう顕著になる。そうするためには、数十もの社会経済的仮定を立てなければならない。それは、変化する社会経済状況がどのように地球規模の排出量、ひいては温暖化につながるかを推定し、さらに、その同じ変化する状況が、気候変動に対する脆弱性、レジリエンス、適応をどのように形作るかを推定するためである。
IPATではなくPATPAT
IPAT(Impact = Population × Affluence × Technology)は、環境科学者たちにとって、人間の活動が環境にどのような影響を与えるかを理解するための長年にわたる枠組みとなってきた。これは、環境への影響に寄与する要因を分解するための有用な概念的枠組みを提供する。しかし、この枠組みには深く関連し合う二つの重大な欠陥がある。
第一の欠陥は、人口、豊かさ、技術が方程式の両側で作用するという点である。それらは環境影響を引き起こすだけでなく、その環境影響がもたらす帰結にも同じくらい影響を与える。したがって、IPATはPATPAT(人口×豊かさ×技術=人口×豊かさ×技術)と表現することも同様に可能である。
第二の欠陥は、この分解を、概念的にも実務的にも、時間を通じた変化を理解するために使おうとすると破綻するという点である。ある時点における環境影響についてなら、それに寄与する要因へ分解することはできる。しかし時間が経過するにつれて、それらの要因は同じ方向には動かず、互いにフィードバックし合うことで、その境界線が曖昧になってしまう。たとえば世界全体の排出量について言えば、人口増加と経済成長は排出量を増やす一方、技術変化はそれらの要因を弱め、排出量との結びつきを切り離していく。経済成長と人口増加は、それぞれ独立して排出量を増加させる。しかし、経済成長率が高まると、人口増加率は鈍化する。技術革新は経済成長を加速させ、それがひいては人口増加を鈍化させるのである。
気候変動が人間や経済に与える影響を検討する際にも、同様の相互作用が働く。経済成長は、気候の極端な現象に伴う経済的被害を拡大させる一方で、人々がそうした現象に対してより強靭になるよう促すのである。経済成長は全体としての人口増加を鈍化させ、また、より多くの人口を経済的機会のある沿岸地域や氾濫原へと引き寄せる。そこでは人々は気候リスクによりさらされることになる。技術変化は経済成長を加速させ、より多くの富を危険にさらす一方で、社会の適応能力を高め、より豊かな社会を生み出す。そして豊かな社会は、気候の極端な現象に対してもより強靭である。
こうしたフィードバックは、方程式の「排出」側と「影響」側の双方にわたって相互に作用し合う。これはもちろん、物理的な気候、世界経済、そしてその両者が実際の何百万もの場所で交差する領域を含む、複雑で創発的なシステムにおいて当然予想されることである。排出シナリオと影響モデリングが提供できるのは、せいぜい、何が起こり得るかについての非常に大まかで粗い近似値を示すに過ぎない。少なくとも、こうした取り組みに対して、作り出しているシナリオが合理的かどうかを確認する努力を求めるべきである。2100年の豊かな世界が、120億や130億の人口を抱える世界である可能性は極めて低い。また、石炭に大きく依存している世界である可能性も、ほぼ間違いなくないだろう。
では、世界の農業について考えてみよう。気候変動が農業生産や食料安全保障に与える影響を予測するには、数十年後の世界経済の排出量レベルについて、また人口、経済発展、食の嗜好、農業技術など、その他多くの要素が今後数十年にわたってどのように変化していくかについて、数十もの仮定を置く必要がある。仮にその未来が5℃の温暖化を伴うとしても、その世界はほぼ確実に、世界の農業の規模、集約化、生産性がはるかに大きくなっている世界でもある。たとえ気候変動によって将来の収量成長に無視できない低下が生じていたとしても、である。技術革新(例えば農業生産性の向上)は、IPAT方程式の両側で作用し、農業部門からの排出量を削減すると同時に、気候変動に対する同部門のレジリエンス(回復力)を高めるのである。
SF(サイエンス・フィクション)VS 科学
もちろん、過去は序章にすぎない。少子化に直面して、各国が女性により多くの子どもを産むよう奨励したり、強制したりするようになるかもしれない。あるいは技術が人工子宮をもたらすかもしれない。あるいは人工知能が、重要なエネルギー技術のブレークスルーなしに経済的特異点をもたらし、ロボットの支配者たちがあらゆる石炭を掘り出して燃やすようになるかもしれない。あるいは、科学者という聖職者階級によって運営される世界政府が、富と資源消費を完全に再分配しつつ、低炭素経済への計画的移行を設計するかもしれない。しかし、こうした展開は現時点ではサイエンス・フィクションであって、政策立案者であれ他の誰であれ、真剣に受け止めるべきものではない。では、私たちの現在と未来の混沌を反映するシナリオはどこにあるのだろうか。つまり、少子化、長期停滞、混合経済、ゆっくりだが着実な長期的脱炭素化、そしてすべての船を浮かべるものの、一部の船をはるかに大きく浮かべる潮流を反映するシナリオ、そのようなシナリオはどこにあるのだろうか。
IPCCのシナリオの問題点は、単に「ひとつの腐ったリンゴ」のような例外的なシナリオの存在に帰するものではない。シナリオの構築は場当たり的に行われてきた。歴史的に、気候シナリオのコミュニティは、影響をモデル化するのに適した、人為的な強制力と気温上昇の結果の幅を生み出そうとしてきた。そしてその上に、シナリオ作成者たちの頭の中のモデルを重ねてきたのである。たとえば、強欲な資本主義が子どもを増やすことと石炭を燃やすことをほぼ同じ程度に進めるという想像や、さまざまな脱成長的・平等主義的な想像である。
その結果として生まれたシナリオは、おおむね、もっともらしい未来を提示することに失敗してきた。ここでいう「もっともらしい未来」とは、私たちが実際に観察している社会的・経済的関係の継続的な進化から合理的に外挿できる未来を意味する。さらに悪いことに、それは、気候影響を商売にする小規模な産業が、そうした影響を生み出し得る社会的・経済的文脈を考慮せずに、センセーショナルな気候影響の主張を作り出すことを可能にしてきたのである。
私は、気温が5℃上昇した豊かな世界の方が、気温が2℃上昇した貧しい世界よりも、気候の極端現象に対して人間社会がより強靭であるという見解を、ますます強く持つようになってきた。しかし、これらの未来のいずれも、特に起こりやすいとは言い難い。人口、経済成長、技術革新が互いにフィードバックし合う仕組みのため、起こりうる結果の範囲、ひいては気候政策の取り組みにおける設計空間は、それよりもはるかに狭い。前述のようなSF的な展開なしに、気温上昇が3℃を超えたり、2℃未満に抑えられたりすることは、どちらもほとんど有り得ない。IPCCのシナリオ作成という営みの最大の失敗は、この基本的なダイナミクスを明らかにするのではなく、かえって曖昧にしてしまったことにある。











