「気候関連財務ディスクロージャー」の課題(2)


国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)

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「気候関連財務ディスクロージャー」の課題(1)

2.座礁資産の定義は前提次第で流動的
 パリ協定が合意され、そこで「今世紀後半までにGHGの排出と吸収をバランスさせるべく、急速な削減を行う」ことが明記されたこと受け、長期的に化石燃料の使用、特に最もCO2排出の大きな石炭の使用を禁止することが必要、といった論調が環境NGOを中心に世界的に高まっている。この主張に従えば、石炭は将来世界的に何らかの形で使用が禁止されることになり、燃料として使えなくなるので、石炭資源に関連する事業資産は価値が毀損し、そうした資産を持つ企業や融資を行った金融機関は座礁資産を抱えるリスクを負うことになるとされている。
 この考え方の裏には、今後石炭には、温暖化対策のための炭素価格が賦課されることでコストアップが不可避である一方で、太陽光や風力といったクリーンな再エネがコスト競争力を上げてきており、結果として石炭資産の価値が毀損することになっていくはず、という認識(仮説)がある。
 一方で現実社会を見ると、風力、太陽光といった再エネのコスト低下は進んでいるものの、依然として石炭などの化石エネルギーと比べて相対的にコストが高く、固定価格買い取り制度(FIT)のような補助金政策が恒常化している注6)。このFITによる再エネの普及補助策を推進してきた欧州でも、普及拡大に伴い賦課金が拡大して電力料金が急上昇し、消費者負担の増加に耐えかねなくなった政府が、補助金政策の縮小、撤廃を余儀なくされるケースが発生している注7)。その結果再エネ関連資産(発電事業、太陽光パネル事業)の価値が突然毀損し、倒産に追い込まれる=「座礁資産化」するケースが発生している。実際太陽光や風力といった新型の再エネビジネスの経営は、長期的な成長期待が高いものの、こうした政府による政策変更や需要の急変に翻弄されており、太陽光や風力発電分野でかつて世界トップクラスの座をしめたQセルズ社、サンテックパワー、サン・エジソン、ヴェスタスといった企業が次々と経営破たんし、こうした企業に対する投融資資金が毀損する事態は発生している。
 一方で石炭火力に関して言うと、パリのCOP21会場で行われたインド商工会議所と経団連の懇談の場で、筆者からインドの産業界の代表に対して、石炭火力発電にむけられている海外からの圧力に対して問うたところ、「インドには未だ電力にアクセスの無い何億という貧しい国民がいて、こうした人々に安価で安定的な電力を供給することは国の最優先課題だ。我々には国産の豊富な石炭資源を使わないというオプションはない。またインドがこれから工業化を進めていく上で必要なエネルギーを、密度の薄い再エネだけで賄うことは不可能。我々に「石炭を使うな」という話は受け入れられない。「賢く効率的に使え」というのであれば受け入れられる。日本とは高効率火力発電技術の移転など是非協力関係を持ちたい。」ということであった。これについては、最近別な機会に面談したインド政府の関係者からも同様のコメントをいただき、インドの官民の立場を確認している。
 ここで考えるべきは、再エネや石炭のような特定技術・資源が「座礁資産化」するかどうかには、通常の経済活動の下での市場競争の結果ではなく、その事業が行われる国、地域の政策(補助金や使用規制)に依っているということである。政策変更によってある日突然、健全なはずの事業資産が「座礁資産化」したり、その逆の転換がおきる可能性がある、ということである。特に化石燃料に対して人為的に炭素価格を課すことで、他のエネルギーに対する市場競争力を喪失させ、人為的に「座礁資産化」させるという政策は、エネルギーコストの上昇という形で短期的に社会に対して痛みをもたらすものであり、一方、再エネに対する補助金支出の拡大によってその競争力をテコ入れする政策もまた、社会全体のエネルギーコスト上昇をもたらすものであり、自由経済市場の環境下でいつまでも続けられるサステイナブルな政策とは言えない。
 一方、石炭資源が「座礁資産化」するとの主張への関心を高めた実例である、米世界最大の石炭資源会社の経営破たんケース(米ピーボディ社が4月13日に会社更生手続きを申請)では、経営悪化の原因とされているのは、温暖化対策による石炭ビジネスへの制限ではなく、中国の経済成長鈍化に伴う鉄鋼生産の落ち込みがもたらした原料炭需要急減という、短期的な市場要因に加えて、シェールガス革命という技術革新により、米国でガス火力発電のコスト競争力が石炭火力を上回ったことで、構造的な石炭需要減が発生したことによるとされている。少なくともこのケースでは、気候変動問題で石炭資産が座礁したのではない。
 こうした技術革新(シェール革命)による旧来技術(石炭火力)が競争力を喪失することによる「座礁資産化」は、いわば不可避な現象であるが、一方で新技術のもたらす価値(従来より低コストのエネルギー供給)が、社会全体の厚生を向上させるものであるため、石炭資産所有者に不利益が発生したとしても、社会全体では容認されやすい。技術革新により、化石燃料よりも低コストのエネルギー安定供給技術が実用化したときこそが、化石資源の座礁化が現実となるのである注8)

3.ライフサイクルアセスメントの視点が必要
 いうまでもなく企業活動は、広範囲のサプライチェーン、バリューチェーンの中で行われている。個々の企業の事業活動は、その最上流(原材料資源採掘)から最下流(商品流通・販売、リサイクル)のごく一部を担っているものであり、その活動への評価は、限定された事業バウンダリ―の中で評価されている。
 TCFDでは、温室効果ガス排出のように企業の事業活動の結果、地球環境という事業バウンダリ―の外で発生する外部不経済問題について、事業者の事業活動、ないしは資産の評価にきちんと反映していくべきという考え方の下で検討されているものと認識しているが、一方で事業活動の結果、バリューチェーンの下工程に提供した製品やサービスが、最終的に社会にもたらす正の外部性、つまりライフサイクル的にみた「外部経済」が存在していることについては、必ずしも明確に認識されていないように思われる。
 例えば筆者がかかわる鉄鋼産業では、エネルギー多消費産業として多くのCO2を排出しながら鉄鋼製品を製造、販売しているが、製鉄所で作られた高機能の高張力鋼板は、最終製品としての自動車や船舶の軽量化による燃費改善(省エネ)に大きく貢献しており、そうした最終商品が社会で使用される段階でのCO2排出削減に貢献している。同様に日本の製鉄所で生産された高効率の電磁鋼板は、送配電システムにおける送電ロスの低減やモーターの省エネ化にも大きく貢献しており、環境面での「外部経済」をもたらしている。これを代表的な日本の高機能鋼材5品種について、ライフサイクルアセスメントの手法を用いて試算した結果、2014年度に日本国内の製鉄所で生産された計730万トンの鋼材について、これが社会で使用される段階で年間2660万トンものCO2削減に貢献しているとの結果が得られている注9)。鋼材生産1トンあたり約2トン前後のCO2排出を伴うとしれば、この730万トンの高機能鋼材を生産する際に1500万トン前後のCO2が排出されたことになるが、同じ鋼材がその量を大きく超える2500万トン以上の排出削減を、毎年バリューチェーンの下流、つまり消費者にもたらしているのである。

注6)
「シーメンスや米ゼネラル・エレクトリック(GE)、欧州の電力大手など11社は6月6日、2025年までに欧州の洋上風力発電の発電コストが、従来型の火力発電並みに低下なるとの見通しを発表した。欧州は遠浅の好適地が多く、世界の洋上風力の9割以上が集まっている。各社は欧州の各国政府に当座の補助の必要性を訴えながら、欧州発の二酸化炭素(CO2)排出削減の切り札として競争力を高めたい考えだ。」とコメントしている(2016年6月7日付 日本経済新聞新聞)つまり、風力発電のコストが下がってきたとはいえ、依然として補助金なしの普及は困難であることを認めている。
注7)
FITの先行事例としてよく紹介されてきたドイツは、去る6月8日に、2017年にFIT制度を廃止する方針を発表した。
注8)
従来の化石燃料よりも安価で安定的なクリーンエネルギー供給を可能とする革新技術の開発こそが、気候変動問題に真に意味で解決をもたらすということは、ロンドン経済大学マッキンダープログラムが2013年に発表した「The Vital Spark ; Innovating Clean and Affordable Energy for All」に詳述されている。
注9)
日本鉄鋼連盟低炭素社会実行計画2014年実績報告
http://www.jisf.or.jp/business/ondanka/kouken/keikaku/documents/keikaku_gaiyou.pdf)p28参照

 製鉄所の工場敷地内からのCO2排出が多いということだけに注目して、これを気候変動リスクとして鉄鋼製造にかかわる事業活動に何らかの制約や追加的な負担を課せば、バリューチェーンの下流で社会全体に環境貢献することになる高機能部材としての鋼材生産に制限がかかることになり、長期的に地球全体の排出増を招くことになりかねない。またそうした制約が企業収益を圧迫すれば、使用段階で環境貢献が期待される高機能鋼材の研究開発に向けた経営資源を奪う結果となり、かえって社会全体の気候変動リスクの増大をもらたすことになりかねない。
 TCFDによるあたらしい企業評価の手法が、企業の事業活動がもたらす環境影響という「外部不経済」を評価するというのであれば、同時にこうしたライフサイクル的評価による、バリューチェーン全体の中で企業の製品が地球環境にもたらすプラスの貢献(外部経済)についてもきちんと定量的に評価して、プラスマイナスを合わせた「ネットの環境影響」について評価していかないと、気候変動リスクにかかわる包括的な評価を行うことはできない。
 特にバリューチェーンの中間段階で事業を行う素材や部品といった産業セクターについては、その事業活動だけを切り離して、単に工場からの炭素排出や自然資本の消費といった点のみに着目した報告求め、評価を行うと、バリューチェーン全体での環境貢献という視点が抜け落ちてしまい、偏った評価が行われることになりかねず、ひいては社会システム全体に想定しないマイナスの結果を招きかねないことに留意すべきである。企業の事業活動に関する気候変動リスク関連の報告・開示にあたっては、事業・生産活動による直接的な環境影響評価といった視点に加えて、個別企業の事業バウンダリを超えた、バリューチェーン全体における当該企業の環境影響評価という、ライフサイクル評価の視点も加えていくことが必要である。

4.環境影響の国際比較は困難
 先に示したように、TCFDの7つの基本原則の中では、「企業同士の比較可能性を担保すること」が求められているが、この実際の運用にはかなりの困難が伴う。
 企業の事業活動の実績については、GHGの排出量などの気候変動に関連するデータを含めて、事業活動を行っている国や地域、自治体の法制やルールに従った報告、開示が既に行われている。日本でも、温室効果ガス排出量やエネルギー消費量については、温暖化対策法、省エネ法等に基づく、詳細な実績データの定期的な報告が義務付けられている。こうした法的な実績報告システムでは、実績データの算出にあたり、どのような計算方法を用いるか、計算に必要となる様々な係数にどのような数字を使うか、といった細則がきちんと規定されており、日本企業がCSR報告書等で開示している実績データも、原則としてこうした公的な報告ルールに基づいて算定されており、従って国内の同一セクターの企業間での実績比較を行うことは可能である。
 しかし、日本と同様に温室効果ガス排出実績データの定期報告を企業に求めている国や地域は、EUをはじめとして多数あるが、算定にあたっての計算手法や、使用されている係数等はバラバラであり、従って全く同等の事業を行う事業所の実績でも、報告する国や地域によって結果の数字に差が出てくるため、国や地域をまたいだ比較は、厳密にルールを統一しない限り、できないというのが実態なのである。
 例えば鉄鋼業の場合、排出権取引制度を導入しているEU域内における、EU-TESベースの排出量算定方法では、製鉄所が外部から購入する電力については、所外の発電所における発電時のCO2をカウントしないことになっている。排出権取引ではあくまで工場の敷地境界から排出されるCO2を規制しているからである。一方、日本の温対法による計算方法では、製鉄所外部から購入電力するについても、所定の排出係数を掛けて発電時のCO2排出量を算出し、それを製鉄所のCO2排出量に加算するという、異なる思想に基づく計算方式が採用されており、従ってEUと日本では、全く同じ製鉄所でもCO2の排出量の計算結果は異なってくる。
 さらに言えば、日本やEUでは、企業に対して精緻なCO2排出量の報告が法的に義務付けられているが、そうした公的な報告制度のない国や地域では、企業がCSR報告書等で開示している温室効果ガスの算出方法の詳細は必ずしも明らかではなく、同じCO2排出量と言っても、等価のデータとして比較することはできない。あるいは今後TCFDの勧告に基づいて、企業に対して国際的にデータ開示が求められ、公的な報告義務を課されていない国や地域の企業も新たに開示を始めるといった場合でも、どのような計算手法、係数を用いるかについての共通の規定がなければ、自社に都合の良い恣意的な計算手法に基づいた報告が行われる、といった懸念もぬぐえない。
 事業活動がもたらす環境影響について、企業同士の比較可能性を担保する、という事に関しては、経済活動がグローバル化している中、鉄鋼業のように製品の過半が国境をまたいで国際間取引されているようなセクターでは、特定の国や地域内で限られた事業者間の比較だけ行うことは無意味となっている。日本の製鉄所から排出されるCO2も、中国の製鉄所から排出されるCO2も、地球温暖化にもたらすインパクトは同じである。世界共通の精緻な計算手法、係数を決めた上で、世界全体をカバーするような実績報告システムを構築しない限り、企業間で正しい比較を行うことはできないが、異なる地域、国で既にそれぞれ異なる計算手法、係数による報告システムが運営されているという実態の中で、これを世界的に統一化していくことは、現実的に容易なことではない。
 従って、今後TCFD勧告に基づく新たなディスクロージャー制度が導入、奨励されることになるとしても、当面は個々の企業やセクターの排出実績に関する国際的な定量比較については、現実的にではないということについて、その利用者の間で共通認識とされるべきである。その上で、実際に企業から開示された情報についても、先に指摘したバリューチェーンの中での位置づけや、ライフサイクル的なネットの環境価値を含めて、どのような意味を持っていて、「何に使えて何に使えないか」といった、実態に即した利用のためのガイドラインをきちんと整理し、恣意的な評価や数字の独り歩きによって、報告・開示した企業が不当に圧力を受けたり、不利益にさらされるといった事態が発生すること防ぐための慎重な対策を講じるべきである。

 以上、今FSBの下で「気候変動財務ディスクロージャー」タスクフォース(TCFD)として進められている新たな財務情報開示に関する検討について、その懸念点、課題について筆者の思いつく範囲ではあるが紹介させていただいた。更に詳しく検討すれば、他にも様々な論点があろうことは想像に難くない。
 TCFDの答申は、いずれ金融規制当局によって国際的なイニシアチブとして採用されていることが想定され、たとえ「任意的な」開示制度となるにしても、企業経営にもたらす影響は小さくない。しかし残念ながらその検討過程には、日本はおろか世界的に見ても、産業界からのインプットはごく限られているように見受けられ、欧米の金融や会計監査の関係者を中心に進められていて、上記のような視点からの検討が十分に行われていくようには思いにくい。本稿をお読みいただいた企業関係者、特にその情報開示の対象として想定されていると思われる産業界の関係者は、是非本件について今後ともフォローいただき、産業界のさまざまな実態や現実を反映したとりまとめがおこなわれていくように関与していただくことを望むものである。

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