第1話「原子力外交の都、ウィーン」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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 アイゼンハワー大統領演説を契機に、新たな国際機関を設置することが、翌1954 年の国連総会決議で決定された。その後、約2年にわたる憲章起草作業を経て1956 年10 月にニューヨークでIAEA 憲章が採択され、翌1957 年7 月に発効、IAEA が正式に発足した。1956 年末に国連加盟が認められるなど、国際社会に復帰して間もない日本はこの憲章起草過程には関与しなかったが、IAEAに原加盟国として参加し、憲章採択後は、主要国からなるIAEA 発足に向けた準備委員会に加わっている。
 IAEA 事務局の本拠地として選ばれたのがウィーンである。ナチスドイツに併合され枢軸国側にいたオーストリアは、戦後、1955 年まで連合国4 カ国(米英仏ソ)の占領下に置かれた。戦火を免れたニューヨークやジュネーブと異なり、ウィーンは旧市街の聖シュテファン大聖堂や国立オペラ座も被害を受けるなど戦禍の跡は生々しく、インフラ面で決して十分とはいえなかった。他方で、冷戦下において東西両陣営の狭間に位置し、占領後は中立国となった事情もあって、米ソ双方に受け入れ可能な場所として選ばれたのである。IAEA 事務局の建物には、国立オペラ座からほど近い、占領中ソ連軍に接収されていたグランドホテルが暫定オフィスとして選ばれた。(結局、1979 年に現在のウィーン国際センターが出来るまでの間、20 年以上にわたり、IAEA はここに居を構える事になる。なお、このグランドホテルは一時期日本の航空会社により経営されていた名残から、現在も「雲海」という和食レストランが入っている。)1957 年の発足後初めてのIAEA総会は、楽友協会と並ぶ歴史的な音楽ホールである、コンツェルトハウス(Konzerthaus)で開催されている。

グランドホテル

1979年までIAEA事務局の「暫定」オフィスとして使用されていた当時のグランドホテル(写真左、出典:IAEA)。
IAEA移転後は一時銀行になったが、その後再び高級ホテルとなっている(写真右:筆者撮影)。

コンツェルトハウス

1957 年10 月1 日~23 日の第1 回IAEA 総会が開催されたコンツェルトハウス(写真は筆者撮影)。
1956 年のIAEA憲章採択後、米国ワシントンDC で作業を行ってきた準備委員会スタッフは、1957 年夏にウィーンに
移動し、ウィーン国立音楽大学の一角にオフィスを構え、学生の演奏を聴きながら総会準備に当たったという。
その後、1980 年代にオーストリア政府が新たな国際会議場をウィーン国際センターに建設するまで、
毎年のIAEA 総会はホーフブルク宮殿で行われた。

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