電力自由化論の致命的な欠陥


国際環境経済研究所前所長

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 そもそも「電力の自由化=電力料金が下がる」という図式は、発電設備が余っていて、それが有効活用されていない場合の話である。いまの日本のように、原子力発電が再稼働せず、設備余剰が少ない場合、自由化によって電気料金は上昇するはずだ。当然、そのように考えなければならない。
 しかし、国民にはこうしたことがほとんど理解されていない。2012年4月から、東京電力が大口企業向けの料金を値上げしたときも、大いに批判を浴びた。もちろん東京電力の物事の進め方に問題があったことは事実だ。しかし、もともと大口企業の電気料金は「自由化」が導入されており、その意味を考えれば、電気が足りない時点で値上げに踏み切るのは妥当である。しかし、それでも批判を浴びたということを考えると、国民全体が自由化による「成果」を受け入れる心持ちになっているかどうかは疑わしい。
 一方で、家庭の電気料金がそれほど上がっていないのはなぜか。それは料金が自由化されておらず、総括原価方式で価格が決まっているからだ。これは、電力を供給するコスト(原価)を行政が査定し、その結果を反映して固定価格が設定されるということだ。価格を変更するには、その妥当性と影響が査定され、行政府の許可を経てからでないとできない(短期的な燃料価格の上下で価格改定が行われる燃料費調整制度は除く)。
 この方式が「電力会社に競争意識がない原因になっている」と指摘されるが、自由化すれば企業向け料金のようにすぐ値上げされてしまう可能性もある。自由化されている欧州では、CO2の排出権取引が導入された後、その排出権価格は即座にユーザーに転嫁され、電気事業者に棚ぼた利益が転がりこんだと批判されるほどだった。国が規制を残すことで、電力不足でもなかなか値上げされずに済んでいたといえる。
 電気料金のあり方は、他の財・サービスと異なり、単に市場に任せればそれで済むというわけにはいかない。なぜなら電気料金は、「逆進性」が高いからだ。お金持ちが払う電気代とそうでない人が払う電気代の単価が違うかといえば、違わない。つまり、所得の低い人ほど、負担のインパクトは大きくなる。電力の自由化論者は、電気料金が上がれば需要が減って需給は一致し、資源配分は最も効率的になるという。しかし、それで国民全員が満足するかといったら、大間違いである。
 値段が上がれば需要は減り、値段が下がれば需要は増えることになるのが一般の商品だ。しかし、電気はそうではない。生活にとって最低限必要な電力量に差し掛かると、それ以上需要を減らすことはできなくなる。すでに電気代を切り詰めるために、無駄な電気は使わないように心がけているというのが、多くの国民の実感であろう。低所得者層ならなおさらそうだ。電気料金が上昇した場合、さらに耐乏生活を強いられることになる。
 繰り返すが、「電力の自由化=電力料金が下がる」という図式は、いまの日本の場合、原子力発電所の再稼働が前提になっている。先ほどもいったように、それにもかかわらず、その時期も決まらないうちに、自由化の論議だけを進めるのは危険だというほかない。
 このように、政府が進める電力改革にはさまざまな疑問が生じるのだが、一方で既存の電力会社にも従来の殻に閉じこもっていることなく、大いに変革を促したい。  
 たとえば、現在の比較的狭い供給エリアをまたいで大規模化した電力会社が、共通インフラとしての卸電力を供給する主体となるといった経営構想があってもおかしくない。系統の最適な規模や周波数の差異問題なども勘案すると、全国に2~4社程度になるだろうか。
 あるいは都市部ではガス会社と一体になり、まとまった需要を強みに、燃料調達で購買パワーを発揮し、電源種の多様化によるリスク分散を推進するといった方法もある。また、小売り部門では他業種の企業と連携して、電気以外のサービスと組み合わせた新たなパッケージを開発することも考えればよい。
 原子力を含む日本の発送配電技術を、電力需要が急増している途上国にシステム輸出することは、電力会社を国際競争環境に置くことにもなり、コスト意識の徹底やファイナンスの重要性を認識させる契機にもなる。
 電力会社自身が、こうした経営改革ビジョンを示さずに、「これまでどおりやらしてくれ」といっても、国民は納得しないだろう。むしろ、電力会社の側から、自らの事業展開を縛っている電気事業法を廃止して、民間エネルギー事業者のダイナミックな経営をサポートするような規制環境を新たに構築する「総合エネルギー事業環境整備法」といった法体系に移行するよう、政府に向かって要望すべき時が来ているのではないか。

※Voice 1月号より転載。

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