電力自由化論の致命的な欠陥


国際環境経済研究所前所長

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原子力事業抜きの議論はありえない

 総選挙一色となった感がある日本。政治の行方はまさに混沌としているが、その陰で国家のエネルギー戦略の進路を決める重大な政策が進められようとしている。
 2012年9月14日、政府は「2030年代に原子力発電所稼働ゼロ」を柱とする革新的エネルギー・環境戦略を定めた。この「原子力発電所ゼロシナリオ」は、実現性や具体性に乏しいと国内外から激しい批判を浴び、閣議決定に至らず、参考文書の扱いに留まった。一方、同戦略では発送電分離などを含む電力システム改革を12年末までに断行するとしていた。これを受けて11月7日、経済産業省の「電力システム改革専門委員会」が再開。電力自由化の方針を進めていくことが再確認された。
 しかし、いまの電力自由化論議には抜け落ちている論点が少なくとも3つある。いずれも今後の電力供給体制の全体像を描くうえで、致命的な欠陥になると考える。

 第一の論点は、今後国は原子力事業にどう関与していくか、ということだ。それを明確にすることなくして、電力のシステム改革を進めることなどありえないはずだが、改革議論の射程からは完全に外されてしまっている。
 本誌(Voice)2012年11月号(「原発は嫌だ。でも値上げも嫌だ」論の愚昧)でも記したが、東日本大震災で明らかになったのは、国の基準を守っていたからといって、原子力発電所事故を起こした電力会社は、その損害賠償責任を免れないということだ。
 電力会社のみが無限責任を負う現行制度のもとでは、電力会社が原子力事業を継続することは、もはや難しくなっていくだろう。福島第一原子力発電所事故が東京電力に与えた影響を見れば、それは一目瞭然である。それほど大規模な事故でなくても、賠償金額が数千億円を超えるような事故が起きれば、電力会社の経営にはそうとうの痛みがともなうだろう。
 電力改革の当事者となる電力会社にとってみれば、日本が国家として原子力を維持するのか、維持しないのか、確固たる政策的な決断なかりせば、発送電分離はもとより、そもそも自由化に向けての企業戦略をどう考えていくかや自らの事業範囲をどう拡張していくかなど、基本的な経営方針を立てることができなくなってしまう。あるいは、今後も原子力を維持するというのなら、官民のリスクや負担の分担をどうするのか、その関連で原子力損害賠償法をどのような仕組みにするのかなど、国として答えを出すべき問題は山積しているが、いっこうに議論が進んでいる様子がない。このような問題を放置しておいて、自由化の話を先んじて進めていこうとすること自体が誤りである。検討の順番がまったく違うはずだ。
 仮に自由化が進めば、電力会社は競争にさらされコストダウンが要求される。それが安全性の確保にどこまで影響するかという問題が生じる。電力システム改革専門委員会がいっているように、経済性を度外視してでも、安全性を重視すべきというなら、自由化による競争と原子力発電の維持を両立させることは非常に難しくなってくる。10年前の自由化論議でもこの問題は焦点の一つになったが、それが今回の原子力発電所事故に何らかの関係がなかったのか、真摯な検証が必要である。

 このように、結局、現在政府で進められている自由化論議は、原子力発電の取り扱いやエネルギーミックスに関する選択肢など、本来であれば総合的に検討されるべき課題との関連づけが不明なまま、進められているというほかない。
 その意味では、いま政府が進めている自由化論は単なる「火力自由化論」というべきものになっている。原子力発電所や再生可能エネルギーを市場に将来組み込んでいく予定なのか、それとも永遠に組み込まないのか、その点がどうなるかによって、卸電力市場の制度設計が大きく異なってしまうのに、その点についての確たる見通しが示されていないからだ。例えば、原子力発電所から生まれた電気が卸電力取引市場に投入されることになれば、今後の事故リスクやバックエンドのコストについて、その電気の受益者によって何らかの分担がなされなければならないだろう。その場合、リスクやコストの分担制度がどのように設計されるかによって、新電力側の規制緩和への対応や経営判断が大きく影響を受ける。
 また、今回はこれまでの自由化議論で必ず取り上げられてきたストランディド・コスト(自由化等政策変更に伴って、それまで行われてきた巨額の投資が回収できなく費用)についての議論が行われていない。2030年代稼働ゼロを目指すとされた原子力発電について、これ以上ない大きな政策変更がなされたと言ってよい。もしこの政策変更が確定するようであれば、原子力発電及びバックエンドへのこれまでの投資について、どのような補償がなされるのかが大きな問題となる(脱原発を決めたドイツでは既に問題化している)。また、供給義務が法的に課されているがゆえに維持してきていたとみなされる火力発電などの設備についても、同様の論点が存在する。
 今後競争市場において公平な競争を実現しようとすれば、スタートポイントであるこの時点で、これまでの設備形成の結果生じている各競争主体間のコスト構造の差を、何らかの公正な基準で解消しておく必要があるということだ。

小売り自由化はどうなるのか

 政府の自由化論議で抜け落ちている第二の論点は、小売りの自由化をどうするのか、である。
 これまでの改革論は、いかに電力会社の既得権を剥奪するかということに重きが置かれており(電力システム改革委員会では、そのような旨の発言が散見される)、発送電分離や卸電力取引市場という供給サイドの話しかされていない。ところが、原子力発電所事故を契機に電力システムについて関心を持ち始めたユーザーは、家庭を中心とする小口ユーザーだ。彼らは、たんなる安さだけではなく、むしろ料金メニューや購入する電源、購入先の電力会社について「多様な選択肢が提供されること」を望んでいるというのが筆者の実感である。
 ひと言でいえば、今後は発電分野の競争に重点を置くよりも、ユーザーへのサービスを巡る競争を促進する政策に焦点を当てていくべきなのである。その際、たとえば新規参入業者に与えるライセンスはどのような条件の下で認められるのか、それとも完全自由化されてライセンスそのものが不要となるのか。既存の大手電力会社の小売部門と配電部門はどのように再構成されるのか。どんな事業体や企業が、どんなサービスを提供できるようになるのかといった論点や、その際の競争ルールはどうなるのかなど、小売り分野での政策が全く具体的に議論されていないのは、正直、異様な感すら覚える。
 本来、電力改革でもっとも便益を享受すべきなのは、供給事業者ではなく、末端のユーザーであるべきだからだ。現在の改革が進行した場合に料金がどうなるのかという基本的なデータさえ開示されていないのはどうしたことだろうか。このままでは、新規参入主体と従来の電力会社との間の利益調整の場に成り下がってしまいかねない。

災害時の対応に不安

 第三の論点は、発送電分離を含む自由化を進めた場合、災害が起こったときの対応について、かなりの不安が残ることだ。自由化によってこれまでの事業者の法的な供給義務が外された場合、市場メカニズムによって需給調整を行なっていくことになるため、安定供給が確保されるかどうか、綱渡り的な状態に陥る危険がある。
 自由化されて競争が激しくなると、どの電力会社も余分な発電設備を持たなくなる。いざどこかの発電所でトラブルが起こったり、自然災害に見舞われたりして、供給力が大きく失われた場合や、気温が上昇して電力需要が急増した場合、最後の「バックアップ役」を引き受けてくれる存在がいなくなる、ということである。
 ちなみに、電気と同じように必需品であった石油には、かつて石油業法があった。供給計画を国と石油会社が一緒になって決めていた。また価格面でも、高騰しすぎたら、国が勧告する権限があった。さらに石油備蓄法があり、石油会社には備蓄の義務が課せられていた。経済活動や国民生活にとっての石油の公益的重要性を考慮した制度だったが、その後需給調整は市場に委ねるべきだとの考えが強くなり、前者の法律は廃止された。しかし、備蓄に関しては依然として民間備蓄が行われているうえに、ラストリゾートとしての国家備蓄も税金で維持されている。
 しかし、電気の場合、日本の全電力消費量の何日分もの電気を貯められる蓄電池は、いまのところ開発されていない。結局、電力会社に余分な発電設備をもたせることで、「バックアップ」の役割を担ってもらっていたのである。そのような過剰設備(不良在庫)の形成と維持のために必要な資金が集められるよう、地域独占で総括原価方式が認められてきた、というのがこれまでの制度の考え方であり、歴史である。
 自由化を進めれば、こうしたラストリゾートとしてのバックアップの役割を誰が担うのか、またそのためのコストは誰が払うのかが大きな問題になる。市場に任せた場合、こうした問題がほんとうに解決できるのか。
 折しもアメリカの東海岸を襲ったハリケーン「サンディ」によって、ニューヨークでは半数近くの企業が停電の影響を受けた。米ニューヨーク州では電力の自由化が進んでおり、日本政府の電力改革もそれを見習うべきモデルの一つとしていた。それだけに、今回のニューヨークでの大規模停電の原因とは何だったのか、復旧にあたって障害となったものなどについて、詳しい調査を実施すべきであろう。
 私見を申せば、日本の電力会社の高い技術力は、発送配電一体でインフラ設備を形成・維持してくるなかで醸成してきた有機的連帯とチームワークがあったからこそである。こうした現場における情報流通機能や従業員のモチベーションが自由化後にどうなるかは極めて重要な問題なのだ。ところが、企業組織を単なる「点」としてしか認識しない経済学のモデルでは、その影響を十分に分析できるとは到底思えない。モデルで分析できないからといって、そうした「現場力」への影響は無視するということなら、取り返しのつかない改革を進めていることになる。

 この議論をもう少し続けたい。政府の電力システム改革専門委員会は、「東日本大震災は、わが国の長年にわたる電力供給システムの持続可能性について大いなる疑問をもたらした」とする。だが私は、東日本大震災によって、かえって日本の電力システムの強靭さが証明されたのではないかと思う。
 事実、東北電力は、東日本大震災で停電した需要家の9割を1週間以内に、99%を2カ月で回復させた。電柱は津波に押し流されなかったのかと思わせるくらい、がれきの中に新たな電柱が次々と立てられていったのである。また東京電力も、震災直後に900万㎾分の停電があったが、茨城県を除きすべて1日で解消し、茨城県も1週間後にはすべて復旧させているのである。
 政府の電力システム改革専門委員会は東日本大震災によって、「原子力を中心とする大規模電源の限界とリスクが露呈した」という。これが発送電分離を推し進める理由の一つとなっており、地域ごとの分散型エネルギーを構築すべきだと主張する。
 しかし東京電力の電源配置は、6000万㎾の需要規模に対し、大雑把にいって、福島県から茨城県の太平洋岸に2000万㎾、新潟県に800万㎾、そして大需要地近傍の東京湾岸に3000万㎾になっている。遠隔地電源へ依存しているイメージがあるかもしれないが、じつは需要地近傍にも半分の電源が分散配置されているのだ。
 また、「遠隔地の大規模電源は災害リスクが大きい」という言い方もよくされるが、これも実態と外れている。震災で東北電力の管内の太平洋岸の火力発電所(計3カ所)は大きな被害を受けたが、日本海側にも大規模電源が立地していたことが幸いし、被災地にもかかわらず、計画停電を免れることができた。日本の国土は狭いが、電力会社は太平洋側、日本海側と電源を分散することによって、リスクの分散に努めていたわけである。
 もし政府が東日本大震災で「原子力を中心とする大規模電源の限界とリスクが露呈した」ことが電力改革の理由だというのであれば、その意味でも、やはり今回のニューヨーク停電がどのような原因で起こったのか(設備の配置や防護策の検証)、どのようなペースで、どのような組織がどのように回復作業を行ったのか、そのパフォーマンスはどうだったのかなどについて、現地調査は必須だ。今後、電力システム改革委員会の委員全員で訪米してもらいたい。

恣意的かつ強権的な介入につながる恐れ

 一部のマスコミや識者は「自由化すれば、新電力の参入が相次いで電気料金は下がる」と主張する。しかし、資金提供側のリスクをなくする総括原価主義を認めず、競争を前提とする市場になった場合、必ずしも新電力の参入が増えて電気料金が下がるとは限らない。発電設備を建設するには、計画立案から運転開始まで十年間かかり、そのためのファイナンスを確保する必要があるからだ。これまでも企業の小売り分野については、すでに全面的な自由化が進んできたが、それでも新規の参入が進まなかったのは、結局「儲からない市場」だったからである。
 そこで、現在の政府の改革案は、新しい電源をつくるというよりも、いまある電源をどう分割するか、といった流れになっている。新電力は自前の発電所だけでなく、既存の電力九社からも電気を調達できる仕組みをつくることによって、競争を促進させるというのだ。
 一方で自由競争させるといいながら、その一方で新電力は既存のガリバーに勝てないから、ガリバーの力を弱めるような規制をするという。本来であれば、このようなことは独占禁止法の範囲内で措置すべきことであろう。むしろ、本気で自由化を進めるのであれば、電気事業法の事業規制そのものを廃止することを検討してはどうか。電気事業法強化でガリバー的独占に対処するという方向では、むしろ規制機関による介入が恣意的かつ強権的になりかねず、本来の意味の自由化はより遠のいてしまう。自由化の目的は、あくまで電力ユーザーに対する低廉かつ安定的な電力供給を確保するために行われるものでなければならない自由化の看板の下に隠れて、「大事故を起こした電力会社を懲らしめなければならない」という政治的目的だけを追求するものになってはならないのである。

 そもそも「電力の自由化=電力料金が下がる」という図式は、発電設備が余っていて、それが有効活用されていない場合の話である。いまの日本のように、原子力発電が再稼働せず、設備余剰が少ない場合、自由化によって電気料金は上昇するはずだ。当然、そのように考えなければならない。
 しかし、国民にはこうしたことがほとんど理解されていない。2012年4月から、東京電力が大口企業向けの料金を値上げしたときも、大いに批判を浴びた。もちろん東京電力の物事の進め方に問題があったことは事実だ。しかし、もともと大口企業の電気料金は「自由化」が導入されており、その意味を考えれば、電気が足りない時点で値上げに踏み切るのは妥当である。しかし、それでも批判を浴びたということを考えると、国民全体が自由化による「成果」を受け入れる心持ちになっているかどうかは疑わしい。
 一方で、家庭の電気料金がそれほど上がっていないのはなぜか。それは料金が自由化されておらず、総括原価方式で価格が決まっているからだ。これは、電力を供給するコスト(原価)を行政が査定し、その結果を反映して固定価格が設定されるということだ。価格を変更するには、その妥当性と影響が査定され、行政府の許可を経てからでないとできない(短期的な燃料価格の上下で価格改定が行われる燃料費調整制度は除く)。
 この方式が「電力会社に競争意識がない原因になっている」と指摘されるが、自由化すれば企業向け料金のようにすぐ値上げされてしまう可能性もある。自由化されている欧州では、CO2の排出権取引が導入された後、その排出権価格は即座にユーザーに転嫁され、電気事業者に棚ぼた利益が転がりこんだと批判されるほどだった。国が規制を残すことで、電力不足でもなかなか値上げされずに済んでいたといえる。
 電気料金のあり方は、他の財・サービスと異なり、単に市場に任せればそれで済むというわけにはいかない。なぜなら電気料金は、「逆進性」が高いからだ。お金持ちが払う電気代とそうでない人が払う電気代の単価が違うかといえば、違わない。つまり、所得の低い人ほど、負担のインパクトは大きくなる。電力の自由化論者は、電気料金が上がれば需要が減って需給は一致し、資源配分は最も効率的になるという。しかし、それで国民全員が満足するかといったら、大間違いである。
 値段が上がれば需要は減り、値段が下がれば需要は増えることになるのが一般の商品だ。しかし、電気はそうではない。生活にとって最低限必要な電力量に差し掛かると、それ以上需要を減らすことはできなくなる。すでに電気代を切り詰めるために、無駄な電気は使わないように心がけているというのが、多くの国民の実感であろう。低所得者層ならなおさらそうだ。電気料金が上昇した場合、さらに耐乏生活を強いられることになる。
 繰り返すが、「電力の自由化=電力料金が下がる」という図式は、いまの日本の場合、原子力発電所の再稼働が前提になっている。先ほどもいったように、それにもかかわらず、その時期も決まらないうちに、自由化の論議だけを進めるのは危険だというほかない。
 このように、政府が進める電力改革にはさまざまな疑問が生じるのだが、一方で既存の電力会社にも従来の殻に閉じこもっていることなく、大いに変革を促したい。  
 たとえば、現在の比較的狭い供給エリアをまたいで大規模化した電力会社が、共通インフラとしての卸電力を供給する主体となるといった経営構想があってもおかしくない。系統の最適な規模や周波数の差異問題なども勘案すると、全国に2~4社程度になるだろうか。
 あるいは都市部ではガス会社と一体になり、まとまった需要を強みに、燃料調達で購買パワーを発揮し、電源種の多様化によるリスク分散を推進するといった方法もある。また、小売り部門では他業種の企業と連携して、電気以外のサービスと組み合わせた新たなパッケージを開発することも考えればよい。
 原子力を含む日本の発送配電技術を、電力需要が急増している途上国にシステム輸出することは、電力会社を国際競争環境に置くことにもなり、コスト意識の徹底やファイナンスの重要性を認識させる契機にもなる。
 電力会社自身が、こうした経営改革ビジョンを示さずに、「これまでどおりやらしてくれ」といっても、国民は納得しないだろう。むしろ、電力会社の側から、自らの事業展開を縛っている電気事業法を廃止して、民間エネルギー事業者のダイナミックな経営をサポートするような規制環境を新たに構築する「総合エネルギー事業環境整備法」といった法体系に移行するよう、政府に向かって要望すべき時が来ているのではないか。

※Voice 1月号より転載。

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