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日本文明とエネルギー(9)

禿山の関ケ原 ―エネルギー枯渇の戦場ー  


NPO法人 日本水フォーラム 代表理事


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関ケ原の不思議

 前回、徳川家康が関ケ原で勝利したと述べた。しかし、関ケ原の戦いの物語は不思議な物語である。関ケ原の戦いを少しでも体現しようと関ケ原に訪れたことがあるが、この関ケ原の不思議さにとらわれてしまった。
 関ケ原の西側には、近江平野が広がっている。東側には膨大な濃尾平野が広がっている。近江平野は石田三成の勢力範囲で、濃尾平野は家康の勢力範囲であった。関ケ原は近江でもない、濃尾でもない。
 関ケ原は、人間たちの天下分け目の場であり、日本列島の地理的な東西分け目の土地であった。
 その関ケ原は何か変であった。風景が変だった。見通せなかったのだ。西側の山道に車を走らせて、小山に登っても同じだった。建物や木々の切れ目から見通せる場所はあるが、関ケ原全体を見回せる場所などなかった。
 歴史の本で理解していた関ケ原の風景と違う。読み物では関ケ原の各陣営が手に取るように描かれている。

見通していた関ケ原

 関ケ原に集結した敵味方は全て戦場を見通していた。味方の陣のみならず、敵方の動きも見通して、その動きを見て、作戦を立てている。その最も有名な場面は、小早川陣の動きであった。
 小早川秀秋は西軍の石田三成と東軍の徳川家康双方へ加担の約束をしていた。松尾山に陣取った小早川は、戦局を見極めどちらの陣営につくかを窺っていた。朝から始まった激しい戦いは、西軍がわずかに優勢に戦いを進めていた。家康は動きのない小早川の様子を見てイライラし、その怒りを表すため、小早川陣に向かって鉄砲で威嚇射撃をしたとも伝わっている。
 鉄砲の威嚇射撃の真偽はともかく、丘の上から情勢を見詰めていた小早川秀秋は、ついに西軍を裏切り、西軍の大谷軍に攻め込んでいった。小早川の行動を見ていた他の軍団も、次々と西軍に攻撃を仕掛けていった。
 この小早川の情勢判断と行動が、東軍勝利のきっかけとなったことは間違いなかった。
 つまり、関ケ原で交戦していた東西の各陣営、そして行動を決めかね丘から戦局を見つめていた各陣営、それら全ての陣営は関ケ原を見通していたのだ。
 私にはそれが不思議で、理解できなかった。
 関ケ原の戦いは現在の10月20日ごろである。紅葉は始まっていたかもしれないが、木々の葉っぱが落ちて、関ケ原全体が見通せるような枯れ木の時期ではない。
 関ケ原の風景に釈然としないまま、関ケ原を後にした。

禿山の関ケ原

 関ケ原に立ち寄ってから何年か後、前回も紹介したが米国の歴史家コンラッド・タットマン(図-1)と出会った。
 タットマン氏は、日本全国の寺院を訪れた。それらの寺院の縁起物を丁寧に調べ上げた。この図は、全国の寺院の創建と再建において、どの地方から木材を持ち出していたかの分布図である。日本史の時代過程で、どの地方から木材が伐採されていかたが分かる図である。

 この図の紫色の部分が問題であった。この紫色の部分は、1550年までに木々が伐採されていた地方である。1550年といえば戦国時代である。その戦国時代に西は山口、南は紀伊半島、東は伊豆半島、北はなんと能登半島まで伐採されていた。
 これによれば、戦国時代、関西地方にはすでに木がなく、全国から木々を伐採して集めていたことわかる。つまり、戦国時代の関西地方の山々には、木々はなく禿山であったのだ。
 森林学の専門家によると、戦国時代だけではなく明治から昭和にかけても禿山になったと云う。明治から昭和にかけての、日本列島の禿山の写真集も探し当てた。社団法人、国土緑化推進機構が発行した「全国植樹祭60周年記念写真集」であった。その写真を見て驚いたが、日本列島北から南まで山々は、禿山であった。
 その例が京都の比叡山の写真である。あの神聖な比叡山が禿山になっている。人々はエネルギーのためには山を伐採し尽くすのだ。

 戦国時代、関西地方には木材がなかった。関西の山々は禿山であった。関ケ原も禿山だった。天下分け目の戦いは、森林エネルギーを使い果たした関ケ原で行われていた。
 禿山の戦いなら、すべてが見通せる。見通せる風景なら、関ケ原の戦いの物語がストンと胸に落ちていく。
 関ケ原の不思議さの謎が消えていった。
 この禿山の関ケ原で勝った徳川家康は、前回で述べたように、さっさと江戸に帰ってしまった。関東の森林エネルギーを求めて。