放射線と放射性物質(その6) 現代文明と放射線


国際環境経済研究所主席研究員

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前回の解説は、「放射線と放射性物質(その5) 放射線の利用と被ばくの管理」をご覧ください)

12.放射線との私的関わり

 成長期に1950~65年(昭和25年~40年)を過ごした世代は、内部被ばくでみると、福島県内の帰還困難区域や居住制限区域を除く浜通りおよび中通り、会津地方や国内の他の全ての地域の今の被ばく量よりも、以下に述べるように桁違いに大きい被ばくをしており、私もその世代である。

1) 大気圏内核実験と食事からの内部被ばく
 ビキニ環礁での第五福竜丸の被ばく事件が記憶に生々しい小学生のころ、核実験による放射能汚染がマスメディアで話題になっていた。ストロンチウム90やセシウム137という単語が新聞に出て、今考えると単位と数字の関係が混乱しているが、どこそこに降った雨からウン百万マイクロマイクロキュリーの放射能が検出された、というような報道があった。意味はほとんど分からなかったが、なにか恐ろしいものが降っているらしいということだけはわかった。また、母親から雨に濡れると髪が抜けるからちゃんと傘をさしなさいと言われた記憶もある。

 しかしながら、いわゆる“原爆マグロ”問題は別にして、当時はコメや魚、水などの飲食物の汚染が話題になることはほとんどなかった。そもそも当時はマグロなど庶民が口にできる時代ではなかった。

 ある意味で鷹揚な時代ではあったが、それで健康に悪影響があったとも思えない。図はホールボディカウンターによる59~94年の日本人成年男子の体内の137Csの量の測定値の推移を示している。最近は20~30Bqで推移しているようであるが、東京オリンピックがあった64年には500Bqを超えている。筆者は当時大学一年なので、体内に同程度の137Csを持っていたわけである。70~73年、86~87年の小さな山は、それぞれ中国の大気圏内核実験、チェルノブイリの事故の影響である。

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 事の良し悪しの議論は他に譲るとして、昨今は大豆や小麦、トウモロコシなどの輸入依存率が高い。60年当時の食糧自給率は穀物で82%、カロリーベースでは79%であった。三度の食事もご飯とみそ汁と漬物、おかずはいわゆる大衆魚が主でたまに細切れ豚肉の入った手作りのカレーと卵焼き。秋には稲刈りの終わった田圃でイナゴ(これも137Csが多いはず)をたくさん取って佃煮にして食べたこともあり、パンも玄米で作ったものが売られていた時代である。輸入小麦を使ったパンや麺類は学校給食か御馳走に近い扱いで、兄弟が多く貧しかった我が家では普段はほとんど食べなかった。

 今は食生活が豊かになり多種類の肉や乳製品、パンや麺類など様々な料理が食べられるようになって輸入も多くなった。ファストフードなど、一部を除きほとんどが輸入食材である。生鮮野菜ですら中国などから輸入され、魚介類も輸入品が50%を超える。農林水産省の発表によると、近年の食糧自給率は穀物が27~28%、カロリーベースで39%となっており60年当時の半分以下である注1)

 このような時代であるから国産の食料品に多少の汚染があったとしても、放射性物質の体内への取り込みは当時よりはるかに少ないはずである。食材の放射能汚染に関しては(その2)で触れたように、基準を超える放射性物質に汚染された食品を流通させない厳しい検査体制が敷かれている。

 12年に八戸港に水揚げされたマダラから基準値の100Bq/kgを超える116~133Bq/kgの137Csが検出され出荷停止となった。11年の暫定基準500Bq/kgであれば出荷制限ではなかった。この魚を晩ごはんのおかずで100gほど食べたとして12~13Bq程度の137Csを摂取することになるが、毎晩食べるわけではないし健康に悪影響が及ぶことは考えられない。それでも出荷停止措置が取られる。このように、食の放射能汚染管理は冷戦当時と較べて格段に高いレベルにある。

2) 恐怖のノヴァヤゼムリャ
 話変わって高校生時代、クラブ活動は地学部で毎日9時30分の気象観測が日課になっており、百葉箱で観測の後、地学教官室にあるフォルタン型水銀気圧計で気圧を測り、自記アネロイド気圧計の記録紙を土日含めて毎日更新する担当だった。秋のある日の記録紙の深夜2時のところに、1ミリバール(ヘクトパスカル)程度の微細な一瞬の気圧変動を見つけた。なんだ?これは・・。

 金目のものはないが水銀気圧計があることから鍵を掛けている、深夜の高等学校の地学教官室である。鍵は教諭から部員が借りて開け閉めしている。泥棒が入って気圧計室の扉を乱暴に開け、記録計のペン先に衝撃を与えたかとも考えたが、事件だったら鍵が借りられなくなり部活に支障が出る。気象観測は毎日定時にやってこそ価値がある。

 泥棒は人知れず忍び込むもので、そんな乱暴な行動に出るとは思えない。その振動は、朝のニュースで聞いたソ連の50メガトン水素爆弾の実験の影響ではないかと思った。先輩部員と議論になったが、当時ソ連が核実験を繰り返していた北極海にあるノヴァヤゼムリャ島と経度の近いモスクワとの時差、および距離と音速から推定した到達時間を加味すると核実験の時刻からの経過時間とほぼ一致、明らかにそれによる振動と思われた。
 大気圏内核実験は微気圧振動計を用いて検知するが、爆心地から何千キロも離れた場所にある通常の気圧計のペンを動かすほどの凄まじい爆発であり、底知れぬ恐怖を覚えたものである。なお、この微気圧変動は地球を3周したそうである。

注1)
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/pdf/himoku.pdf

 当時は数多くの大気圏内核実験が行われており、今より桁違いの放射能汚染の記録が残っている。財団法人日本分析センターのホームページに放射性降下物の経年変化を示す図があった。63年以降の全国の137Csの月平均降下量のグラフで縦軸は対数目盛(片対数グラフ)である。

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 このグラフを普通座標(線形グラフ)の目盛にすると上下に伸びて左端はページをはみ出る。また、60年代の数億Bq/km2から最近の数百Bq/km2までの百万分の一への変化を線形グラフにすると左端からすぐの所で直線的に低下しあとは値の見えない水平の直線になってしまう。初期の数年分のデータさえも数百倍の範囲で分布しているので全く分かりにくくなる。
 左端の値は5千万~6億Bq/km2(50~600Bq/m2)に分布している。大気圏内核実験のピークが61~62年であるから、そのころはもっと多かったはずである。私の幼児期から青年期までの被ばくが、今の比ではなかったことは確実である。それが健康状態にどのように影響しているかは全く分からないが、今のところ支障なく生活できている。

 グラフからは90年代以降の放射性物質の降下量は相当減少していることが読み取れるが、左寄りに小さな山と、中央やや右寄りのところに突出がある。前者は中国の核実験で3千万Bq/km2(30Bq/m2)程度、突出はチェルノブイリの事故時の降下量であり最大で2億Bq/km2(200Bq/m2)を示している。事故当時のソ連西部や欧州ではこれより桁違いに多い放射性物質が降っている。放射性降下物の量には季節変動があり春先に増える。黄砂などによる大陸からの移流である。2011年はこのグラフにチェルノブイリの時と同様の、場所によっては数百倍の、福島の事故によるスパイク状の傷が東日本を中心に突出することになる。

13. 汚染地域の厳しい現実

 ここで気をつけてほしいのは、このグラフはあくまで日本全体の平均的な低線量被ばくが、冷戦時は今よりも桁違いに多かった、という事実を示しているに過ぎない。私は、被災地以外の人達が過剰に放射線を心配する必要はないということを言うために引用したのである。

 後述するチェルノブイリの事故の立入制限区域と同様に、今回の事故で飛散した放射性物質が大量に蓄積して帰還困難区域・居住制限区域などに指定されている、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、飯館村、葛尾村、川内村などの汚染レベルはこれよりも桁違いに大きく、体内に取り込まれると排出されにくい90Sr(ストロンチウム)による汚染の心配があることも忘れてはいけない。

 (その5)で市街地の汚染の例として郡山市の状況を紹介したように、立ち入りが制限されていない地域でも広範囲に汚染が見られる。最も面積の多い森林の汚染は、独立行政法人森林総合研究所が昨年夏に国有林で調査を実施している注2)。それによると、137Cs蓄積量で川内村が138万Bq/m2、大玉村で8~12万Bq/m2、福島原発から100km以上離れた只見町でも2万Bq/m2となっており、特に落葉層に大量に蓄積しているとのことである。
 
 日本分析センターの資料から引用した月間降下量の図と対比してみると、今回の事故で降った放射性降下物は、只見町で冷戦当時の月間降下量の5年分、大玉村で20~30年分、川内村に至っては400~500年分が堆積してしまったことが分かる。これが福島県内での空間線量率が高い原因である。

 森林の除染は主として落葉の除去などの対策が取られていくと思われるが、道路や宅地、農地の除染が優先されるので、広大な森林面積を考えると残念ながら短期間でこの汚染問題は解消できない。また、落ち葉をすべて取り除いてしまうような、栄養塩類の収奪を伴う森林の除染は軽々に行うべきではない。川内村は除染が必要であるが、森林保全を考えると只見町はもとより、大玉村もやや高いものの除染は不必要と思う。
 チェルノブイリ事故の立入制限地域(Exclusive zone)をロシア政府は137Csで55.5万Bq/m2(15μCi/m2)以上の地域、3.7万Bq/m2(1μCi/m2)以上の地域を汚染地域に指定しているが、結果的に自然放射線レベルより低い地域まで汚染地域にしてしまったと言われる。

 いずれにせよ、このような厄介な問題を引き起こす原発事故はもう二度と起こしてはならない。

14.現代文明と放射能

 学生時代に経験した、他の一般の人達とはちょっと違う放射線に関わる話をする。大学は生物化学系の学科で、卒業実験で選んだテーマは微生物の進化の研究に関係する、各種微生物によるある種の無機高分子物質の生産と代謝を調べる研究であった。半年間放射性物質を非密封状態で扱うことになったが、指導教官は「β線なので保護メガネとゴム手袋を使えば心配ない」と言う。

 今もそうだと思うが、その研究室では放射性物質は鉛製の容器に入れて氷点下30℃の冷凍室で保管していた。重さが10kgほどある鉛容器を実験室に運び、その容器から32P(放射性リン酸)の水溶液が入った試薬瓶を取り出し、その小瓶のキャップのゴムの部分に注射針を刺して、一度に0.1mCi (0.1mlくらいの量)の液を取り出しガラス製のフラスコに注入する。0.1mCiといえば370万Bqである。

注2)
http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/hozen/pdf/111227_2-01.pdf

 紫外線照射により変異させて作ったある種の微生物を用いて目的の直鎖状ポリリン酸を作り、それを他種の微生物に投与して培養する。培養菌体を超遠心で濃縮して加水分解し、反応液を透析してペーパー・クロマトグラフィーで展開、代謝生産物によって異なるスポットの位置を、印画紙を重ねて放射線による感光発色で確認する。発色が悪い場合には0.3mCi (1千万Bq超) を用いて実験したこともある。14Cなど他の放射性同位元素も実験に用いたし、実験は何度も繰り返した。

 それこそ至近距離で毎日小一時間、放射性物質とのご対面である。相手は厚さ1cmこそないものの、ガラス製フラスコの中であり確かにβ線被ばくの心配は少ないが、ガイガーカウンターをフラスコに近づけていくと、始めガリガリ音がして針が動いているが、そのうちザーッという雨音のように変わり、遂にピーという警報音に変化して針が振り切れる。

 ゴム手袋で被ばくの問題がないのではなくガラス容器の中にあるから被ばくが少ないのであって、ハンフォードの事故ではないが、飛び散った液に知らずに直接触るかも知れない。そういうことのないように、ゴム手袋をして実験台の周囲をガイガーカウンターでチェックしながら実験する。

 今思うと制動X線にはしっかり被ばくしているはずである。作業量が私より多い指導教官はポケット線量計を身に着けていた。彼がどのくらい被ばくしていたかは聞いていない。既に80歳近い年齢で、震災前まで東北地方の学校で元気に研究を続けておられたが今も健康である。

 心配していては実験にならないし手元が狂ってかえって危ない。高線量の放射性物質を含む廃水や濾紙などは別の容器に入れて保管し専門業者に処理を委託した。しかし、フラスコやビーカーにわずかに残る汚れを洗った水は回収の対象ではなかった。存在が明らかできちっと管理が出来てさえいれば、たとえ百万Bq以上の放射性物質であってもまったく恐れる必要はない。全国各地の研究所や一部の病院などでこのようなことが行われ、医学や科学の発展に貢献しているのである。

 社会人2年目の秋に、仕事の関係で上司の指示で受けた放射線取扱主任者の試験にその時の経験が役立ち、今回の解説にも役立っている。そういえば翌年夏に、万博が開催されていた大阪で合格者の資格講習を受けた。受講もソコソコにソ連館のスプートニクや、大混雑のアメリカ館に展示されていたアポロ宇宙船が持ち帰った月の石を見に行ったことを思い出した。これらの成果がもたらされる過程で、米国でもソ連でも多くの人命が失われている。

 何ごとも科学技術の発展と成果は、その技術がもたらすあらゆる危険を想定し制御してこそ初めて成り立つのである。技術開発に「想定外」という言葉で逃げるような想像力の欠如や慢心があってはならない。そもそも技術開発とは未知の領域に踏み込む行動であって、想定外という言葉を使う人間に科学技術を扱う資格はないし科学技術者とは言えない。

 改めて放射線被ばくについて整理し解説のまとめとしたい。

 将来の自らの健康や子孫のために、放射性物質をなるべく体内に取り込まないようにすることはもちろん大切である。しかしながら、常に宇宙線や40Kなど自然由来の放射能や健康診断のX線に曝されていることを考えると、私たちのからだには放射線被ばくを含む様々なストレスに対する修復機能が働いているはずであり、放射線に対してだけ過敏になることなく冷静に行動するべきである。放射性物質そのものよりも、過剰な心配によるストレスがかえって健康に問題を起こすかもしれない。

 いずれにしても、政府が立ち入りを制限している地域以外では、放射性物質にあまり神経質にならずに、もうすこし大らかな気持ちで行動してよいと思う。この解説がこれからの読者諸氏の行動に参考になれば幸いである(完)。


引用文献:
連載を通して引用した図表は、単位の換算表、放射性核種の一覧表および放射線・放射性物質の利用の表、放射線被ばく防止三原則の図を除き、主として下記ホームページの資料を引用させていただいた。過去の事故についての記述は原子力安全協会の資料を要約した。また、半減期や壊変形式など放射性物質の基礎データは、国立天文台編集、丸善株式会社発行の理科年表に掲載されている値を用いた。

 表 (財)原子力安全協会:被ばく医療ポケットブック
 図 (財)高度情報科学技術研究機構:原子力百科事典ATOMICA

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