続:GX戦略は経済成長をもたらすか(その2)
排出権取引制度(ETS)は機能しているのか?


国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)

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2005年から運用が始まり、既に20年余り運用されてきたEUの排出権取引制度(EU-ETS)であるが、前稿(その1)で示したように、欧州産業界から懸念と不満の声が高まり、その軌道修正を迫られている。それではEU-ETSは、気候変動対策として当初期待されていたような成果上げてきたのかどうか、本稿では先ずこの点について検証してみたい。

EU-ETSは成果をあげているのか

前稿で紹介した、欧州鉄鋼産業の代表的企業3社による共同声明書でも、ETSの成果について「EU-ETSは、欧州の電力部門の49%排出削減(2005~2023年)には貢献したものの、エネルギー多消費である鉄鋼のような産業に対しては、実行可能な排出削減の道筋を提供できていないとされており、電力部門では所定の成果を上げていると見られている。EU-ETSでは2005年の運用開始当初は、生産活動に必要となる排出枠を、プロセスごとのベンチマークと、過去の排出実績に基づき100%無償で事業者に配賦し、その排出枠上限(Cap)を段階的に縮小していく中で、不足分を有償で購入して充当・償却するという漸進的な「Cap&Trade方式」でスタートした。その後、電力部門については2013年~20年のフェーズ3から、EU内の一部の低所得国の事業者を除き各事業者が必要な排出枠を全量オークションで有償調達することが求められるようになった。2013年以降、CO2排出を伴う化石燃料による発電に、本格的な炭素価格が課されていくことになったわけである。その結果、排出権を必要としない再エネ等の非化石発電や、化石燃料の中でも相対的にCO2排出の少ない天然ガス火力発電が、排出の多い石炭火力よりコスト的に有利となり、電力部門の燃料転換による排出削減が促され、上述のように23年までの18年間で49%の削減実績を達成している。しかしその裏で、炭素価格が課された化石燃料による発電コストが上昇し、EU域内の電力価格は同期間に結果的に約1.8倍=80%も上昇しているのである*1。2013年時点のEUの電源構成をみると、約46%が化石燃料であり*2、その発電時のCO2排出に必要な排出権を全量オークションで購入することがETSの下で義務付けられれば、排出権コストが炭素価格として転嫁される電力価格が大きく上昇するのは当然の帰結である。

電力はEU域内の各国間での輸出入取引はあるものの、発電・送配電システムの構成や、エネルギー安全保障の観点から、EU域外からの大規模な輸入は考えにくく、従って域外電源との価格競争が存在しないため、ETSによる域内発電コスト上昇分(=炭素価格)は、基本的にEU域内電力価格にそのままほぼ転嫁されているものと考えられる。しかしETSの成功例として挙げられているこの電力部門における排出削減と、域内電力への炭素価格転嫁こそが、鉄鋼など域内エネルギー多消費産業の国際競争力を奪う一因となっているのである。一方EU域内のエネルギー多消費産業は、ETS制度の下での無償配賦制度により、自身の生産活動に伴う直接的なCO2排出に課される炭素価格負担は回避してきたものの、ETSの下で炭素価格が転嫁された購入電力を通した、間接的な炭素価格負担によって、域内エネルギー多消費産業の国際競争力が損なわれてきているのである。

炭素価格転嫁の仕組みを欠いたETS

そもそもEU-ETSにおいて、2013年以降に電力部門だけが排出権を100%オークションで調達する制度が導入された理由が、電力部門は国際競争に晒されていないため、ETSで課される炭素価格の電力価格への転嫁が可能であるということだったわけであるから、電気代の上昇は当然予想された結果である。しかし、鉄鋼・化学などの素材部門や、そうした素材を使って製造される自動車・機械などの川下産業部門は、生産された財が国境をまたいで広く輸出入され、国際流通に基づく価格相場が形成される、まさに「国際競争に晒された」産業である。素材部門のエネルギー多消費型産業部門では、安価に実現できる排出削減対策は限られているため、直ちに大幅な排出削減を実施するのは難しく、仮にできるとしても大幅な生産コストアップを招くことになる。しかし国際相場に左右される製品価格にそのコストアップ分を転嫁することは難しい。つまり、そうした国際貿易財を生産する産業では、ETSによって生産活動に排出枠制限が課されると、自主的な削減努力によって影響を回避するための経済的な対策手段がない中で、ETSで負担を強いられる炭素価格を、製品価格に転嫁して回収することもままならず、結果的に利益だけが失われることになってしまう。要するにETSという炭素価格制度は、その制度自体に「炭素価格を製品に転嫁して削減投資の回収を担保する仕組み」が備わっていないという、本質的な欠点を抱えた炭素価格制度なのである。

経済的に実現可能な削減対策を持たない産業部門に対して、ETSの下で排出削減義務と炭素価格を課す場合、事業者が負担することになる炭素価格を「自動的に」製品価格に転嫁して、その消費者に負担を転嫁していくような仕組みをETS制度の外側で導入しなければ、対象事業者は結局漸減されていく無償枠の範囲内に生産活動を縮小させていかざるを得ない(結果として域外からの輸入品への生産代替が進む)。それゆえに、ベンチマークに基づき排出枠の無償配賦を受けることで、炭素価格の賦課を回避(ないしは極小化)してきた鉄鋼・化学などのエネルギー多消費産業部門に、いよいよ今年から、段階的に無償配賦を縮減して炭素価格を課していくという現行のEU-ETS規定には、抜本的な改革が必要だという悲痛な声が、産業界から上がっているわけである(その詳細は本稿シリーズの(その1)に紹介した)。

そうした問題もあって、域外からの輸入品にEU域内産業と同等の炭素価格を課すことで、域内産業の国際競争力への影響を緩和するために設計・施行されたCBAMについても、加工品を介した間接輸入への対策がないなどの抜け穴が大きく、加えて炭素価格のない域外国への輸出競争力を維持するための対策(=輸出品への炭素価格リベートの仕組み)を欠いており*3、さらには炭素価格が転嫁されるそうした素材を使って域内で製造される自動車・機械などの下流部門も、共連れで国際競争力を失っていく懸念も生じていて、産業界から不信と不安の声が高まっている*4。

排出のリーケージを誘発したEU-TES

現実問題としてEU域内、特に製造業・重工業が盛んだったドイツでは、このETSが運用されてきた20年間、鉄鋼・化学・アルミなどのエネルギー多消費産業の生産活動が大きく縮小するという事態が顕在化している*5。その一因が、ETS制度における将来の無償排出枠の縮小(=炭素価格負担)圧力であり、加えて、前述した電力部門の全量オークション導入により炭素価格が転嫁された国内電力(エネルギー)価格上昇もエネルギー多消費産業の競争力を毀損し*6、企業の事業継続に影を落としている。

「(電力以外の)製品」に炭素価格=排出削減コストを転嫁して、事業者の削減投資を回収するというメカニズムが内包されていないEU-ETSという炭素価格政策手法の下で、価格転嫁が可能だった電力にいち早く炭素価格が課されることで、EU域内のエネルギー多消費産業が高い電力コストに直面する事態を招いた。そしてそれは、大幅なコストアップを伴う削減対策しか持たないエネルギー多消費産業から、投資回収の予見性を奪い、結局は生産縮小ないしは生産のEU域外移転のインセンティブになってしまったと見ることができる。

このEU-ETSという制度が、欧州企業のEU域外への生産移転を促し、対策の緩い地域での代替生産が進むことで、かえって世界レベルで見た排出拡大を招いているとの批判もある*7。EU-ETS導入とほぼ同時期に、国をあげた産業政策を進めて工業生産を急拡大させてきた中国に、EU域内の生産活動が移転しているというわけである。現状で炭素価格が実質的にかかっておらず、電力供給のおよそ6割が高排出の石炭火力で供給されている中国*8での代替生産品は、EU域内生産よりCO2排出が大きく、長距離輸送を伴ってEUに輸入されることに伴う排出も加えれば、結局世界全体の排出量は増えることになる。つまり生産の域外移転を誘発したEU-ETSは、EU域内排出を下げる効果はあげているとしても(ただし生産縮小による)、地球規模の排出削減につながらず、むしろ排出増(=リーケージ)を招いているというわけである。

筆者は以前、この欧州の脱工業化の状況について具体的に紹介する記事を「アゴラ言論プラットフォーム」に「ドイツの30年気候目標達成は喜ぶべきことか?エネルギー政策の他山の石」(2024年3月29日)として寄稿した*9。そこでは、欧州産業界をリードしてきた工業国ドイツが、ETSとEnergiewende(エネルギー転換政策)という2つの気候変動・炭素価格政策によって、順調な(?)排出削減の実績をあげているものの、その背景で産業競争力の喪失と生産設備の海外移転を招き、深刻な経済危機に陥りつつあることを、日本への警笛として紹介した。ドイツの排出削減は、生産プロセスの高度化やグリーントランスフォーメーション投資ではなく、もっぱら鉄鋼や化学といった大量排出産業の生産縮小によって実現しているというわけである。そしてその続編記事として昨年、ドイツの産業がもはや国内生産体制を持ちこたえられないとして、断末魔の悲鳴を上げ始めているということを、同じアゴラに「ドイツ産業は手術台の上の瀕死の患者」(2025年7月21日)*10として紹介している。こうしたドイツ国内産業の苦境は、最近報道されているとおり、ドイツの地方選挙において「極右」とされる政党AfDが躍進を続けている背景にもなっていると見られ、国の政情不安にもつながりかねない。

日本のGX-ETSはどうするのか?

以上本稿では、ETSという炭素価格制度には、排出枠順守のための排出削減コストを製品価格に転嫁する仕組みが欠けていること。そしてそれが、削減対策を持たない企業にとって、コスト負担か生産縮小かの選択を迫ることになり、削減投資を後押しするのではなく、結果的に脱工業化・産業の衰退を招いていることをEU-ETSを例として指摘してきた。要するにEU-ETSが産業競争力や経済成長をもたらしているという証拠はなく、むしろ域内産業の衰退と脱工業化による排出量の他国への付け替えを促進し、かえって地球規模での排出量増加により、気候変動対策にも負の効果をもたらしている可能性すらあるというわけである。

日本では、GX戦略とその中核を担うGX-ETSを「成長に資するカーボンプライシング制度」と位置付け、カーボンニュートラルの実現と経済成長の両立(GX)を目指すことを政策目標に掲げて、今年からその本格施行に入っている。しかし、EU-ETSを中核に据えて気候変動対策を率先垂範してきたEUが、期待通りの成果を上げているわけではない。既に2024年9月に公表されたドラギレポート*11においては、むしろ急進的な環境政策によって、欧州産業の競争力を毀損しているという懸念が指摘されている。果たして日本のGX-ETSは、欧州の二の舞を避けて、GX戦略の掲げる「気候変動対策と経済成長」を両立させることができることができるのだろうか?

その点を論ずる前に、次回、本稿シリーズの(その3)では、このETSという炭素価格制度が抱えるもう一つ本質的な欠陥の存在について、紹介していくことにしたい。そこでは、「京都議定書」時代には適合していたはずのこのETSという政策ツールが、実は2020年以降の「パリ協定」の時代においては不適合な制度となっているという不都合な真実について、詳しく論じていく。

脚注

*1
https://ec.europa.eu/eurostat/statistics-explained/index.php?+title=Electricity_price_statistics
*2
Souece: IEA World Energy Outlook 2015
*3
輸出品に対して炭素価格をリベートする制度は、WTOが禁ずる輸出補助金とみなされるリスクが高く、EUは導入をためらっている。
*4
https://agora-web.jp/archives/260327005156.html
*5
https://ieei.or.jp/2024/07/nomura_20240730/
*6
ドイツの場合、ETSと共に導入されたエネルギー転換(Energiewende)政策により安価な国内石炭火力発電(と原子力)が休止され、供給が不安定でバックアップコストの高い再エネ導入を進めてきた結果、さらに電気料金の高騰の追い打ちがかかっている。
*7
https://ieei.or.jp/2024/07/nomura_20240730/
なお中国の電源構成は再エネ、原子力などの非化石電源容量を急拡大している一方で、依然として発電電力量の6割超が、最も安価でかつCO2排出量の多い石炭火力に拠っており(2023年実績)、中国における電力多消費型産業の国際競争力の源泉の一つとなっている。
*8
中国でも既に排出権取引制度が導入されているが、現状では排出量の制限ではなく原単位に上限を設ける方式でEUのような排出絶対量枠の設定になっていない上に、一定の無償配賦も行われていて事業者の実質的な炭素価格負担は高くない。
*9
https://agora-web.jp/archives/240328003513.html
*10
https://agora-web.jp/archives/250720104915.html
*11
https://commission.europa.eu/topics/competitiveness/draghi-report_en

※(その1)はこちら