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日本文明とエネルギー(5)

鎌倉での閉じこもり ―エネルギー枯渇への恐怖―  


NPO法人 日本水フォーラム 代表理事


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鉄壁な防御都市・鎌倉

 1185年、平家は壇ノ浦で壊滅した。平家は海の底に沈み、源氏は圧倒的な強者となった。1192年、頼朝は鎌倉幕府を開いた。しかし、その頼朝は何かを恐れているかのように、鎌倉に閉じこもってしまった。 
 鎌倉は第一級の防御都市であった。背後の山々の常緑樹は一年中濃く、その密集した森は人々の侵入を阻んでいる。切通しを防備するだけで、山からの進入を確実に防ぐことができた。
 鎌倉の前面にある遠浅の由比ヶ浜も防御上鉄壁であった。遠浅の砂浜は船団の不意の急襲を防ぐ。船団が進入してきても、水深が1mになれば船は砂浜で座礁してしまう。船から兵士が海に飛び込み、陸へ向えば弓矢で射抜き放題にされる。()は、緑の山と海岸に囲まれた鎌倉の鳥観図である。
 鎌倉は防御に優れていたが、天下を制覇する土地ではなかった。もし、天下を制覇したかったら、京都から遠く離れ、箱根も越えた鎌倉に構えるわけがなかった。なぜ、頼朝はこのような辺鄙な鎌倉に閉じこもってしまったのか。
 頼朝は14歳から34歳までの20年間、伊豆半島で過ごした。青春時代の20年間、頼朝は三浦半島や房総半島を船で行き来した。肌は真っ黒に日焼けし、新鮮な海の幸、山の幸を食し、温泉に浸かり、恋愛をくりかえしていた。
 明るい清潔な湘南育ちの頼朝は、京都の劣悪な不衛生とエネルギーの枯渇に恐怖して鎌倉に閉じこもったのだ。


鎌倉の地形の鳥観図

エネルギーを失った荒廃の京

 鎌倉幕府開府から遡ること400年前の、794年、桓武天皇は平安京に遷都した。唐の長安を模した東西4.5km、南北5.2kmの人工都市であった。この都には公家、僧侶、武士、商人、職人、農民が住んでいたが、それ以上にこの都には数知れない多くの流人がいた。
 世界中の都という都には共通した現象がある。それは、都には流人が入り込んでくることである。都に行けばどうにかなると餓えた人々が止めどもなく流れ込んでいく。
 平安京の人口は約20万人以上になっていた。建材、舟、工具そして燃料として年間1人当たり20本の立木が必要だった仮定すると、20万人が生きていくためには、年間最低400万本以上の立木の伐採が必要となる。400本ではない、400万本である。
 桓武天皇が平安京へ遷都してから400年間、京都周辺の木々は無差別に伐採しつくされ、山は荒れ放題となっていた。(写真)は昭和初期の比叡山の様子である。人々が生活をするということは木々を伐採することである。この写真は昭和初期であるが、平安末期も同様な状態であったことが推定できる。
 森林エネルギーを失った京はスラム化し、疫病が蔓延していた。京は死臭溢れる都市となっていた。
 頼朝は、平家の残党を恐れたのではない。流人があふれ、無差別に森林エネルギーが食い尽くされことを恐れた。頼朝は鉄壁の防災都市・鎌倉に閉じこもった。防ぐべき敵は、エネルギーを食いつぶす流人であった。