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最終話「IAEA事務局長」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使


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皇帝(カイザー)の都、ウィーン

 ウィーンは長きにわたり、皇帝(カイザー “Kaiser”)の都であった。
 神聖ローマ帝国、オーストリア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と名を変えながらも、数百年にわたり、歴代皇帝を輩出したハプスブルク家のおひざ元として繁栄してきた。
 今から約100年前、1918年の第一次世界大戦の敗戦とともにハプスブルク帝国は終焉を迎えたが、その遺産は街のあちこちに残る。昨年は実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の没後100周年、今年は「女帝」マリア・テレジア生誕300周年にあたり、ウィーンは今でも皇帝の都としての面影を色濃く残している。

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写真上:ウィーン旧市街の王宮
写真下:王宮内博物館に所蔵される神聖ローマ皇帝(左)とオーストリア皇帝(右)の帝冠
(筆者撮影)

 現代のウィーンにはもちろん、本来の意味でのカイザーはもはやいない。
 しかしながら、原子力外交の都ウィーンには、この世界における「カイザー」とも呼ぶべき人物がいる。国際原子力機関(IAEA)事務局のトップ、IAEA事務局長である。
 3月6日の週に開かれたIAEA理事会では、本年12月からの次の4年の任期の事務局長を選出するため「事務局長の任命(Appointment of Director General)」が議題となった。昨年10月に始まった立候補受付は既に昨年末に締め切られており、現職の天野之弥事務局長以外に候補者は現れなかった。このため理事会は3月8日、全会一致で天野事務局長の再任を決定した。9月のIAEA総会での承認を経る必要があるものの、この理事会決定は天野事務局長の三選をほぼ確定的にするものである。天野事務局長はIAEA設立60周年を締めくくり、次の10年を切り開く最初の事務局長となる。再任決定直後の記者会見で天野事務局長は、IAEAが過去60年にわたり世界の繁栄と安全に多大な貢献をしてきたとしつつ、IAEAの果たす役割は世界の多くの人々の生活にとって極めて重要であり、様々な課題はあるものの、前向きの精神(positive spirit)で取り組んでいくとの決意を述べた。

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写真左:理事会で再任が決定された後、理事会議長に伴われて会議場に入る天野事務局長。(出典:IAEA)
写真右:再任決定後の理事会で最初の挨拶を行う天野事務局長。(出典:IAEA)

 最終話となる今回は、このIAEA事務局長に焦点を当てつつ、過去60年のIAEAの歴史を振り返ることとしたい。

原子力外交の「皇帝(カイザー)」:IAEA事務局長

 あらゆる国際機関は、加盟する主権国家の合意によって設立、運営され、意思決定の主体はあくまで加盟国である。国際機関の事務局はそれを補佐する存在にすぎない。この点はIAEAも例外ではなく、IAEA憲章では、総会(General Conference)、理事会(Board of Governors)がIAEAの意思決定機関として規定されており、事務局長はそれを補佐する事務局(Secretariat) の長との位置付けである。
 もっとも、国際機関事務局の長は、その分野における自らの長年の経験と、専門知識を持つ多数の有能なスタッフに支えられた組織力を背景として、また主要国の利害、思惑の微妙なバランスの上に立ちながら、時として国際社会で重要な影響力を行使し得る。国連事務総長がその最たる例であるが、IAEA事務局長もまた、核・原子力を巡る諸問題において重要な役割を果たしてきた。
 その背景の一つには、IAEAが有する各国原子力施設への査察という強力な権限がある。過去に核開発が問題となったイラク、イラン、北朝鮮について、いずれもIAEAによる査察で軍事転用の懸念が指摘され、それが国連安保理に報告されて、これらの国々に対する国際的な制裁につながった。もとより、IAEA自身が制裁を決定、実施するわけではなく、それは国連安保理や各国が行うものである。しかしながら、各国の原子力関連活動を監視・検証(monitor and verify)し、報告(report)するIAEAの活動は、国際社会による制裁のトリガー(引き金)となる点で、各国に対して強いインパクトを持つ。このため、「核の番人」のトップであるIAEA事務局長は、他の国際機関の長にはない影響力を行使し得る立場にあると言える。
 また、チェルノブイリ原発事故や福島第一原発事故などを契機に原子力安全に対する国際社会の懸念が高まった際にも、IAEA事務局長のイニシアティブは、事故後における関係国への支援や、国際的なルールメイキングにおいて重要な役割を果たしてきた。

(「選帝侯」:IAEA理事国)
 上述のIAEA事務局長の役割は、もちろん無制限ではなく、IAEAの意思決定機関(総会/理事会)が与えるマンデートの下で行われる。
 とりわけ、IAEAの場合は、他の国際機関と比べて、理事会が非常に強い権限を持っている。その権限の一つがIAEA事務局長の任命(appointment)であり、総会は理事会決定を承認(approve)するいわば受け身の位置付けである(憲章第7条A)。また、事務局長は理事会の権威と統制に服し、理事会が採択する規則に従って任務を遂行することとされている(憲章第7条B)。
 IAEA事務局長が原子力外交における「カイザー」だとすれば、理事国はさしずめ「選帝侯」とも呼ぶべき存在といえよう。
 IAEA理事国は35カ国で構成され、現在の会期(2016年10月~2017年9月)の理事国は下記の表の通りである。この中でも、理事会に常に議席を維持する13カ国(日、米、加、英、仏、独、露、中、豪、印、南アフリカ、ブラジル、アルゼンチン)が事実上の常任理事国として、IAEAの運営に強い影響力を有している。

図

 35カ国の理事国は、IAEA独自のユニークな方式で選出される。このうち13カ国が「理事会指定理事国」(毎年9月の理事会で次の会期の理事国を指定)、22カ国が「総会選出理事国」(毎年9月のIAEA総会で選出)である。

次のページ:武器なき継承戦争

 「理事会指定理事国」は原子力分野における最先進国10カ国(日、米、加、英、仏、独、露、中、豪、西欧1カ国(ローテーション))と地域先進国3カ国(印、南ア、ブラジル又はアルゼンチン)からなる(ブラジルとアルゼンチンは理事会指定理事国と総会選出理事国を交互に務めることで、常に議席を維持)。また、「総会選出理事国」22カ国の枠は、8地域グループ(極東、北米、西欧、東欧、東南アジア・大洋州、中東・南アジア、アフリカ、ラテン・アメリカ)に一定数が割り振られている(内2枠は一部地域グループ間のローテーション)。
 このユニークな理事国選出の方式は、IAEA憲章策定時の経緯に由来する。1953年のアイゼンハワー大統領の「平和のための原子力(Atoms for Peace)」演説後に始まったIAEA憲章策定作業は、当初、西側原子力先進国とウラン産出国8カ国(米、英、仏、加、豪、南アフリカ、ベルギー、ポルトガル)により始められ、後に東側と第3世界の4カ国(ソ連、チェコスロバキア、ブラジル、インド)が加わって進められた。理事国選出方式として、世界を8地域グループに分け、原子力最先進国、地域先進国(最先進国のいない地域グループから選出)を理事会が指定するアイデアはインドが提案したとされる。
 IAEA発足時点では、原子力最先進国5カ国(米、英、仏、加、ソ連)、地域先進国5カ国(ブラジル、インド、南アフリカ、豪、日本)の計10カ国が事実上の常任理事国として、加えて3グループ(西欧(ベルギー、ポルトガル)、東欧(チェコスロバキア、ポーランド)、北欧4カ国)から各1カ国の計13カ国が理事会で指定されることとなった。更に8地域グループから10カ国が総会で選出され、合計23カ国で理事会が発足した。憲章策定に関与していなかった国で当初から事実上の常任理事国になったのは日本のみである。理事国数はその後、1973年に34カ国(理事会指定理事国12カ国、総会選出理事国22カ国)に拡大され、1984年の中国のIAEA加盟の際に理事会指定理事国を1枠増やして35カ国となり、現在に至っている。
 理事会がIAEA事務局長の任命を決定するにあたっては、予算など他の重要事項と同様、35理事国の3の2多数決によるとされている(理事会暫定規則36条(b))。すなわち、IAEA事務局長のポストを獲得するには、35カ国の3の2当たる24カ国以上の支持が必要になるのである。

(「武器なき継承戦争」:IAEA事務局長選挙)
 ヨーロッパの外交史を紐解くと、「継承戦争」という言葉にしばしば出くわす。各国君主の地位の継承問題は、欧州各国の利害関係、パワーバランスに大きな影響を与え、時として大規模な紛争を引き起こしてきた。
 なかでもよく知られているのが、1740年に勃発した「オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession(英)/Österreichischer Erbfolgekrieg(独))」であろう。神聖ローマ皇帝(ハプスブルク当主)カール6世の死後、娘マリア・テレジアのハプスブルク家相続は諸外国の介入を招き、プロイセン王(選帝候)フリードリッヒ2世がシュレジエン地方に侵攻、また、神聖ローマ皇帝の地位を長年独占してきたハプスブルク家に替わり、一時バイエルン王(選帝候)が帝位に就く事態となった。数年に及ぶ戦争を経て、プロイセンへのシュレジエン割譲と引き換えにハプスブルク家が帝位を回復し、マリア・テレジアの夫君が神聖ローマ皇帝に就いたのは、5年後の1745年のことである。
 現代の国際機関のトップを巡る選挙は、候補者の擁立から始まり、支持獲得を巡って各国の間で様々な外交的な駆け引きが展開される。とりわけ、核・原子力の問題において強い影響力を持つIAEA事務局長ポストを巡っては、新たな事務局長が選出されるたびごとに、その時々の国際情勢を反映して、「武器なき継承戦争」ともいうべき熾烈な外交が展開されてきた。

歴代の「皇帝」たち

 過去60年のIAEAの歴史において、事務局長は現職の天野事務局長を含めて5人しかいない。初代のコール事務局長を除けば、いずれも3期~5期の任期を務めている。核・原子力の問題を扱う国際機関としての特殊性故に、長期政権が好まれる一方で、現職の退任後、新事務局長が選出される際には、極めて激しい選挙戦が行われてきた。
 以下では、歴代IAEA事務局長とIAEAの主な歩みを紹介することとしたい。過去の事務局長選挙の経緯については、IAEA設立40周年を記念して出版された、“History of the International Atomic Energy Agency: the First Forty Years”(David Fischer)、及びIAEA総会議事録、プレス・リリース等の関連公開資料に拠っている。また、IAEAの歩みについては、これまでの本連載でも、第1話(IAEAの誕生)第2話(原子力の平和的利用)第3話(原子力安全)第4話(保障措置)第9話(IAEA福島報告書)第13話(核セキュリティ)で触れてきたところである。

(「草創期の議会人事務局長」:スターリング・コール(初代)1957-1961)

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写真出典:IAEA

 IAEA発足に際し、初代事務局長は中立国出身の科学者から選ばれるであろうというのが、事前の大方の予想であった。
 しかしながら、これを覆してIAEA発足直前に米国(アイゼンハワー政権)が推薦したのは、共和党、ニューヨーク州出身の米国下院議員、スターリング・コール(Sterling Cole)であった。米議会で原子力合同委員会委員長を務めたコールはIAEA憲章策定過程に通じており、背景には、米国のIAEA加盟を円滑にするための米議会対策の考慮があったとされる。反発が予想されたソ連の反応は意外にも穏当で、バランスをとって初代理事会議長を東側からのチェコスロバキア代表が務めることで決着がついた。

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ウィーンのコンツェルトハウスで開催された第1回IAEA総会(出典:IAEA)

 しかしながら、コール事務局長のIAEA運営は平坦ではなかった。生粋の米議会人であるコール事務局長と、各国外交団との折り合いは決して円滑なものではなかったとされる。また、米政府との関係も微妙であった。各国原子力施設への保障措置(査察)に関する米国の立場が、二国間協定やユーラトムを通じた方式に重点を置いてIAEAの役割を縮小する方向に傾いたため、コール事務局長はハシゴを外される形となったためである。
 コール事務局長にとって不運だったのは、冷戦のまっただ中という、時代背景も挙げられる。1953年の朝鮮戦争休戦、スターリン死去後の数年間、IAEA憲章策定が進んでいた頃は比較的静かな時期であったが、IAEA憲章が採択された1956年秋の直後にスエズ危機、ハンガリー動乱が勃発し、緊張が再び高まる状況となった。1957年の第1回IAEA総会の期間中にはいわゆるスプートニク・ショックがあり、その後もベルリンの壁構築(1961年)に代表される冷戦状況は、IAEAの運営にも影響を与えないわけにはいかなかった。1960年に共和党アイゼンハワー政権から民主党ケネディ政権に交代し、米本国政府の再任支持も見込まれない中で、コール事務局長は1期で退任することとなった。
 多難な草創期のIAEA事務局を率いたコール事務局長だが、ウィーン郊外のサイバースドルフにおけるIAEAの研究所設立に尽力するなど、残した足跡も大きい。

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写真左:ウィーンにIAEA本部を設置するためのIAEAとオーストリア政府の協定に署名するコール事務局長(左)。
右はオーストリア外相。(出典:IAEA)
写真右:サイバースドルフ研究所の建設にあたり、最初のコンクリートを流し込むコール事務局長。(出典:IAEA)

(「長期政権の科学者事務局長」:シグヴァード・エクルンド(第2代)1961-1981)

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写真出典:IAEA

 第2代の事務局長に就いたのはスウェーデン出身の科学者シグヴァード・エクルンド(Sigvard Elkund)である。
 エクルンド事務局長選出のプロセスは困難を極めた。1961年6月の理事会では、4年前と打って変わってソ連が2代続けて西側から事務局長が選出されることに猛反発し、相当数の途上国がこれに同調した。エクルンドを推す西側諸国と、インドネシアの候補を推す東側諸国・途上国との間で激論が続き、理事会で投票に付された結果、一部途上国が立場を変更したことでエクルンドの事務局長任命が辛うじて決定された。しかしながら、対立の構図は総会に持ち込まれ、理事会決定を承認する総会決議案に対抗して、理事会に再検討を求める別個の決議案が一部途上国から提出され、ソ連に至っては、反対工作の一環として総会にエクルンド候補を招致する決議案を出す始末であった。総会本会議で丸一日、本件をめぐって各国間の議論の応酬が延々と続いたあと、再び投票となり、賛成46、反対16、棄権5でエクルンド事務局長任命がようやく承認された。再三にわたり口を極めて西側諸国やエクルンド個人への批判を繰り返してきたソ連代表は議場から退出し、新事務局長とは今後接触しないと公言する有り様であった。
 多難な船出となったエクルンド事務局長であったが、興味深いことに、ソ連の敵意はその後徐々に解消し、結果的には、2期目以降は理事会・総会において全会一致で再任され続け、長期政権を築くこととなった。
 1961年から1981年の5期20年にわたるエクルンド事務局長時代は、現在まで続くIAEAの様々な分野における機能が確立した時期である。キューバ危機(1962年)とフランス、中国の核実験(1960年、1964年)を経て、核不拡散における共通の利害を見出した米ソの後押しにより、保障措置(査察)におけるIAEAの役割が強化された。さらに、1970年に発効した核兵器不拡散条約(NPT)において核不拡散におけるIAEAの役割が位置付けられることで、「NPT・IAEA体制」が成立することになる。
 また、科学者出身らしく、原子力の平和的利用でのイニシアティブに積極的で、食糧農業機関(FAO)との連携や、モナコにおける海洋研究所の設置、サイバースドルフ研究所の拡充などが進められた。

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写真左:害虫対策の検証のため、ガンマ線照射で不妊化したハエをコスタリカのコーヒー農園で放出。(出典:国連)
写真右:同位体を使った水質調査のため地中海でサンプリングを行うモナコIAEA海洋研究所の研究者。(出典:IAEA)

 任期の終わり近くに起きたスリーマイル原発事故(1979年)は、その後の原子力安全分野におけるIAEAの役割拡大の契機となった。また、この年は、IAEAが発足以来、事務局を置いていたウィーン旧市街のホテルから、ドナウ川の対岸に建設されたウィーン国際センター(VIC: Vienna International Center)に居を移した年でもある。

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写真左:1957年から1979年まで旧市街のグランド・ホテルにあったIAEA事務局(出典:IAEA)
写真右:1979年に完成したウィーン国際センター(出典:IAEA)。IAEAをはじめとする国際機関が拠点を置いている。

 退任に際してエクルンド事務局長は、長年の功績により、総会決議によってIAEA名誉事務局長(Director General Emeritus of the IAEA)の称号を贈られた。これは、その後の退任事務局長に対してなされる慣例となっている。

(「第3の男」:ハンス・ブリックス(第3代)1981-1997)

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写真出典:IAEA

 第3代のハンス・ブリックス(Hans Blix)の事務局長選出の過程も、波乱に満ちたものとなった。1981年の新事務局長選挙は、候補者が乱立する事態となり、6月の定例理事会では決着がつかず、7月、8月、9月と断続的に特別理事会が開かれ、投票手続きを巡る議論、候補者の提示、投票、更なる対応協議、というプロセスが延々と繰り返された。候補者の中で頭一つ抜け出ていたのは、西側諸国が推す西ドイツ(当時)と途上国が推すフィリピンの二人の候補だったが、いずれも理事国の3分の2の票を得ることができず、膠着状態が続いた。フィリピンの候補は後に駐日大使、外務大臣を務めた日本との縁も深いドミンゴ・シアゾン(当時は駐オーストリア大使兼IAEA理事)である。
 IAEA総会が近づいた9月に入り、新たな候補者として、スウェーデン人外交官のハンス・ブリックスが浮上する。第2次大戦後の占領下のウィーンを舞台にした映画のタイトルの如く、いわば「第3の男」としてブリックスはIAEA事務局長選挙に登場したのである。
 事務局長選出プロセスはIAEA総会が始まってからも並行して理事会で続けられ、ブリックスとシアゾンの間で理事国の3分の2の票を巡る綱引きが続いた。最終的にブリックスが3分の2の票を得たのは、総会最終日の9月26日土曜日夕刻である。撤退したシアゾンの提案により、理事会での事務局長任命は全会一致で決定された。最終的に、この理事会決定が同日の総会において全会一致で承認されたのは、日付が変わった27日日曜日未明のことである。
 1981年は、同年6月のイスラエルによるイラクの民生原子炉への空爆を巡って、紛糾した年でもあった。この原子炉はIAEAの査察下にあった施設であり、イスラエルの空爆は国連安保理の非難決議が採択されるなど、国際社会の強い批判を浴びたが、IAEA理事会、総会でも、本件をめぐって大いに紛糾した。この問題はその後も尾を引き、翌1982年のIAEA総会では、イスラエル代表団の委任状が総会で否決されるというハプニングが発生した。その際の事務局の対応の不手際もあり、憤慨した米国がIAEAの全ての活動から撤退を表明する事態となったため、就任1年目のブリックス新事務局長はその後数ヶ月にわたり収拾に追われる羽目となった。
 4期16年にわたるブリックス事務局長時代は、IAEAがその機能を更に拡充した時期である。原子力安全分野では、1986年のチェルノブイリ原発事故が契機となって、事故発生後の迅速な関連情報の共有と相互援助を促す原子力事故関連2条約が採択・発効(1986~1987年)し、さらには原子力安全条約の採択(1994年、発効は1996年)など、原子力安全に関する国際ルールの構築が進んだ。

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1988年にチェルノブイリ原発サイトを訪問したブリックス事務局長(出典:IAEA)

 また冷戦終結後の1990年代には、NPT無期限延長決定(1995年)によりNPT・IAEA体制の普遍化が進んだが、同時期にクローズアップされたイラクと北朝鮮の核問題は、IAEAの保障措置(査察)制度の限界を明らかにすることとなり、追加議定書雛形の作成(1997年)とその普遍化による強化が進められることとなった。

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写真左:湾岸戦争後のイラクでウラン濃縮施設跡の調査を行うIAEA調査団(出典:IAEA)
写真右:北朝鮮に特別査察を求めることを決定した1993年2月のIAEA理事会(出典:IAEA)。これに対し、北朝鮮は翌3月、核兵器不拡散条約(NPT)からの「脱退」を通告した。

(「途上国初の事務局長」:モハメド・エルバラダイ(第4代1997-2009)

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写真出典:IAEA

 第4代の事務局長には、エジプトの外交官出身のモハメド・エルバラダイ(Mohamed ElBaradei)が就任した。初の途上国出身の事務局長である。
 エルバラダイ事務局長の選出過程は、理事会のクローズド・セッションで行われたため、詳らかになっていない。公開記録では、1997年6月の理事会でエルバラダイ候補の任命が全会一致で決定されたこと、同決定が、同年9月の総会で同じく全会一致で承認されたことが簡潔に記されているのみである。それまでの事務局長選が、上述したように、総会での投票に持ち込まれたり、数ヶ月にわたって理事会で投票が延々と繰り返されたりして、過度に先鋭化した教訓を踏まえたものである。
 エルバラダイ事務局長の第1期目最後の年の2001年9月11日に米国で起きた同時多発テロは、9月定例理事会2日目の最中だったIAEAにも直ちに一報が伝えられたが、この事件はその後のIAEAにも大きな影響を与えた。翌2002年から始まった核セキュリティ計画の策定に代表されるように、核を用いたテロに対処するための核セキュリティ対策がIAEAの活動の大きな柱となった。

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写真左:2002年12月にイラク、イラン、北朝鮮についてブリーフィングを行うエルバラダイ事務局長(出典:IAEA)
写真右:2005年にノーベル平和賞を授与されるエルバラダイ事務局長(出典:IAEA)

 また、ブッシュ(子)米国大統領(当時)が2002年に「悪の枢軸」として名指しして批判した、イラク、イラン、北朝鮮の核問題への対応もIAEAの重要任務となった。3カ国がその後たどった道は三者三様であり、IAEAの果たした役割(とその限界)も様々である。イラクはIAEAの査察活動の半ばの2003年に戦争に突入という結果となった。イランは外交交渉とIAEAによる査察の継続の後に一昨年の包括的核合意(後述)に至り、現在はIAEAによる合意実施の監視・検証の段階にある。北朝鮮はIAEAの査察官を現地から追放し、昨年までに5度の核実験を行うに至っている。
 2005年には、IAEAの活動に対し、IAEAとエルバラダイ事務局長それぞれに対し、ノーベル平和賞が授与された。

(天野之弥(第5代)2009-現在)

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写真出典:IAEA

 第5代事務局長に就いたのは、日本外務省で長く軍縮・不拡散・原子力畑を歩み、日本の原子力外交をリードしてきた天野之弥である。2009年の事務局長選挙当時は在ウィーン国際機関日本政府代表部大使の任にあった。
 天野事務局長の選出も、エルバラダイ前事務局長選出の際に確立した手続きに則って行われ、選出過程の大部分は理事会のクローズド・セッションで行なわれている。主たるライバルは、南アフリカ出身の候補であった。2009年3月理事会から始まった理事国の3分の2の票をめぐる選挙戦は、結局7月理事会まで続いたが、最終的には、理事会での事務局長任命、9月総会での承認とも全会一致で決定された。
 天野事務局長時代において、日本との関連で特筆されるのは、2011年3月11日の福島第一原発事故であろう。この事故は、日本のみならず、世界の原子力関係者に大きな衝撃を与え、以後、原子力安全の強化が大きな課題となった。天野事務局長の下、IAEAは事故直後からの初動対応、事故当事国の日本に対する様々な協力と並行して、世界の原子力安全強化のための行動計画の策定・実施や、IAEA福島報告書作成による教訓の特定とフォローアップといった措置をとってきた。そのプロセスは事故から6年経った今も続いている。

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写真左:福島第一原発事故直後の2011年3月に訪日し、日本政府関係者と協議を行う天野事務局長(出典:IAEA)
写真右:福島第一原発事故の影響調査のため、2011年5月に派遣されたIAEAミッション(出典:IAEA)

 また、天野事務局長就任と同じ年に発足したオバマ政権により始まった核セキュリティ・サミットと並行する形で、IAEAも核セキュリティ国際会議(閣僚級)を2度(2013年、2016年)にわたって開催し、この分野での対策の強化を進めた。昨年5月の核物質防護条約の改正の発効はその成果の一つである。
 長年の懸案であったイランの核問題は、2013年のローハニ政権成立から新たな進展が見られ、2015年7月の包括的共同作業計画(JCPOA)の合意により、大きな節目を迎えた。翌2016年1月からは合意の実施段階に入っている。一連の過程においてIAEAは、イランの過去の核の軍事転用疑惑の解明や、イランによる合意の実施の監視・検証において不可欠の役割を果たしてきている。また、天野事務局長が、米国、イランを始めとする関係国政府の指導者との間で、陰に陽に協議を重ねてきたことは言うまでもない。

写真16

写真左:2014年8月のイラン訪問の際、サーレヒ副大統領・原子力庁長官と記者会見に臨む天野事務局長(出典:IAEA)写真右:2015年7月、イランの過去の軍事転用疑惑解明のためのロードマップ合意に署名した天野事務局長(出典:IAEA)。同年12月のIAEA特別理事会でこのロードマップ合意の作業が区切りをつけたことを受け、翌年1月、包括的核合意の実施が始まることとなった。

 天野事務局長がとりわけ力を入れてきたのが、原子力の平和的利用である。1957年の発足当時、50数カ国だった加盟国は、168カ国(2016年2月現在)に増えた。その大半は途上国であり、様々な開発分野での原子力技術へのアクセスのためIAEAに技術支援を求めている。アイゼンハワー大統領の演説以来、「平和のための原子力(Atoms for Peace)」は長年にわたり、IAEAの標語であった。途上国支援の側面を強調するため、天野事務局長は新たな標語として「平和と開発のための原子力(Atoms for Peace and Development)」を提唱し、がん治療や感染症対策、防災支援などで具体的イニシアティブを打ち出してきている。中核的なプロジェクトが、長年IAEAの原子力技術応用の拠点であったサイバースドルフ研究所の改修計画(ReNuAL: Renovation of the Nuclear Applications Laboratories)である。老朽化が進む同研究所の改修のため、関連機材の更新の他、2つの建物を建設中であり、2018年に完成予定である。

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写真左:2016年1月にニカラグアの国立放射線医療センターを訪れた天野事務局長(出典:IAEA)
写真右:サイバースドルフ研究所改修計画を示す天野事務局長(出典:IAEA)

「夢の都」ウィーンと原子力外交

 「ウィーン、わが夢の街(“Wien, du Stadt meiner Träume”)」という歌がある。古き良き美しいウィーンを唄った曲として広く知られており、ノスタルジックなメロディーに聞き覚えがある方も多いであろう。ルドルフ・ズィーツィンスキー(Rudolf Sieczynski)による1912年頃の作である。

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ベルヴェデーレ宮殿から臨むウィーン旧市街(筆者撮影)

 もっとも、この曲が出来た後のウィーンは、第一次大戦の敗戦、ファシズムの席巻、第二次大戦での敗戦、10年に及ぶ占領という、夢とは程遠い苦難の道を歩むこととなる。映画「第3の男」に出てくる、街中にあふれる瓦礫の山は、ウィーンの歴史が光と影の両面を併せ持つことを思い起こさせる。
 光と影の二面性は、本連載で触れてきた、原子力の歴史とも重なる。広島と長崎の戦争被爆から始まった原子力の歴史は、その後のチェルノブイリや福島での原発事故、北朝鮮の核問題などと合わせ、影の面を抜きに語ることはできない。その一方で、エネルギーや保健・医療、食料・農業など民生面で原子力技術がもたらす光の面に、多くの国、人々が期待を寄せ、その恩恵を切望してきたのも事実である。

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IAEA本部のあるウィーン国際センター(出典:IAEA)

 原子力外交は、この原子力が持つ二面性に向き合い、「影」を抑え、「光」を広める営みである。原子力外交に夢があるとすれば、それは「核兵器のない世界」、「平和と開発のための原子力」の実現ということになろう。
 ウィーンが原子力外交の都となってから60年が経った。夢の実現にどこまで近づけるかは、原子力外交に関わる我々自身の取り組みにかかっている。

(※本文中意見に係る部分は執筆者の個人的見解である。)

【参考資料】

IAEA理事会における事務局長再任決定後の理事会議長ステートメント
https://www.iaea.org/newscenter/pressreleases/statement-by-chairman-of-iaea-board-of-governors-on-re-appointment-of-director-general
再任決定後の天野事務局長記者会見
https://www.iaea.org/newscenter/multimedia/videos/iaea-board-of-governors-reappoints-director-general
“History of the International Atomic Energy Agency: the First Forty Years”(David Fischer)
http://www-pub.iaea.org/MTCD/publications/PDF/Pub1032_web.pdf
IAEAウェブサイト(the Sixtieth Anniversary of the IAEA)
https://www.iaea.org/about/policy/gc/gc60/anniversary

記事全文(PDF)



ウィーン便り~原子力外交最前線からの報告~の記事一覧