私的京都議定書始末記(その44)

-カンクン以後-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 その場ではカンクンの時の苦労話等で盛り上がったのだが、私から「自分は4月にロンドンに赴任する」と挨拶したところ、茶目っ気のあるトウデラ次官は「Do you really go to London? Under any condition or circumstances?」と言って私をからかった。

 4月1日にはジェトロで辞令をもらい、私の後任には関総一郎審議官が着任した。彼は2000年代初め、地球環境対策室長として温暖化交渉に参加し、資源エネルギー庁から助っ人で交渉に参加していた私とは昵懇の間柄であった。彼が当時の澤昭裕環境政策課長と共にまとめた「地球温暖化問題の再検証」(2004年、東洋経済新報社)は、「京都議定書時代の終わり」を予見していたとも言える。後事は全て託したつもりであったが、ジェトロの辞令とは別に経産省から「地球環境問題特別調査員」という辞令ももらった。ロンドンに赴任しても、温暖化交渉を手伝うようにということである。このため、出発直前の4月のバンコクAWGにも特別調査員として参加することとなった。

 バンコクでは3月11日の東日本大震災に対する各国からのお悔やみと励ましの言葉が相次いだ。交渉の各局面では不快な思い出もあったプロセスであるが、締約国が天災等の不幸に見舞われた際は、皆心を一つにしてお見舞いの言葉を述べる。心が温まる瞬間でもあった。4月8日のAWG-KPのクロージングプレナリーでは、私から各国の励ましに感謝の意を表明すると共に、日本は必ず復興するという決意を表明した。毎度のことながら、AWG-KPでは「京都議定書第二約束期間を早く設定せよ」という途上国のコメントが相次いでおり、中国のように事実上日本を名指しで批判する国もあった。

 私からは京都議定書第二約束期間について長々と立場を表明することはせず、「第二約束期間に関する日本の立場は変わらない」とだけ述べた。ステートメントの最後に「ところで今回が自分の最後のAWG-KPであり、4月半ばにはロンドンに赴任する。ロンドンに来るときは訪ねてほしい。You would be welcome under any condition or circumstances」と言って締めくくった。会場には笑いがわき、若干の拍手もあった。「厄介払いができてよかった」という拍手もあったかもしれない。