執筆者:有馬 純

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国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院 教授

  • 2013/10/10

    私的京都議定書始末記(その19)
    -COP14(ポズナン)-

    AWG-KPの首席交渉官に

     アクラのAWGが終わると、12月1-12日にポーランドのポズナンで開催されるCOP14まであとわずかであった。ある日、岡本地球環境対策室補佐が「相談がある」と私の部屋にやってきた。COP13以後、AWG-LCA、AWG-KPの2トラックで交渉が行われてきたことは既に書いたとおりであり、私はそれまでAWG-LCAを担当してきたが、COP14からAWG-KPを担当してもらえないかという。AWG-LCAは米国、中国も含む全ての主要排出国が参加する枠組みを交渉する新たな場であり、否が応でも関心が高かった。 続きを読む

  • 2013/10/01

    私的京都議定書始末記(その18)
    -アクラ気候変動交渉に再登板-

    気候変動交渉チーム

     2008年7月、洞爺湖サミット直後の人事異動で産業技術環境局審議官に就任した。このポストは地球温暖化国際交渉のみならず、国内の温暖化対策、リサイクル問題、環境アセスメント等を含む広義の環境問題もカバーする。事実、私の前任のポートフォリオの中で国際交渉の占める位置づけは2-3割だったと思う。しかし、私が就任した際のミッションは「主に国際交渉に専念せよ」ということであった。 続きを読む

  • 2013/09/26

    私的京都議定書始末記(その17)
    -北海道洞爺湖サミット-

    エネルギー戦線と気候変動戦線

     一連のG8関連エネルギー大臣会合が無事終了し、2007年初めから取り組んできた「気候変動問題に対するエネルギー面からの取り組み」も、それなりの成果をあげることができた。7月の北海道洞爺湖サミットのG8首脳声明の中にもエネルギー大臣会合の声明のエッセンスを盛り込むことができた。 続きを読む

  • 2013/09/18

    私的京都議定書始末記(その16)
    -G8+3エネルギー大臣会合(2)-

    ドラフティング会合で悪戦苦闘

     第三次準備会合は、共同声明スクリーン上にドラフト案を映し、line by line でセットするドラフティング会合の形となる。スクリーン上にドラフトが映し出されると、色々ものを言いたくなってくるのがマルチ交渉官の習い性である。各国がいろいろな修正案を出すたびに、それを瞬時に聞き取って、スクリーン上のドラフトにブラケット(括弧)付きテキストとして反映させていくことは、日本人の手に余る。 続きを読む

  • 2013/09/11

    私的京都議定書始末記(その15)
    -G8+3エネルギー大臣会合(1)-

    青森でG8エネルギー大臣会合

     バリのCOP13から戻って休む間もなく取り組んだのがG8エネルギー大臣会合の準備だった。2008年に日本はサミット議長国となっており、7月に洞爺湖で首脳会合が開催されることが決まっていたが、G8プロセスでは首脳会合に先立って、外相会合、蔵相会合等、テーマ別の大臣会合が開かれるのが通例である。その一環としてエネルギー大臣会合も開催されることになったわけである。 続きを読む

  • 2013/09/04

    私的京都議定書始末記(その14)
    -COP13とバリ行動計画(3)-

    デボア事務局長の涙

     さて、長い夜が空けて15日の朝、全体会合を前にバリ行動計画(案)が配布されたが、ここでアクシデントが起こった。複数の途上国代表が「バリ行動計画に関する途上国内のコーディネーションが終わっていない」とクレームをつけたのだ。 途上国は「G77+中国」で総称されるが、その中にはアフリカグループ、中南米グループ、島嶼国グループ等、多くのサブグループがある。 続きを読む

  • 2013/08/21

    私的京都議定書始末記(その13)
    -COP13とバリ行動計画(2)-

    同床異夢のバリ行動計画

     前回、バリ行動計画は原文に即して読む必要があると述べた。またまた長い原文引用で恐縮だが、12月14日深夜の閣僚折衝を踏まえて、紙になったバリ行動計画の重要部分とポイントを以下に示す。(○数字は筆者注) 続きを読む

  • 2013/08/05

    私的京都議定書始末記(その12)
    -COP13とバリ行動計画-

     2007年12月、私はCOP13経産省代表団の一員としてバリ島のヌサドウア・ビーチにいた。その年の6月に資源エネルギー庁内で新設ポストの国際エネルギー交渉担当参事官に異動し、このポストのミッションの一つが気候変動問題だったからだ。2001年のCOP7以来、6年ぶりのCOPになる。久しぶりではあるが、交渉の雰囲気についてはMEMやAPEC、東アジアサミットの気候変動に関する議論から大体の想像はついていた。 続きを読む

  • 2013/07/26

    私的京都議定書始末記(その11)
    -APEC、東アジアサミットでの議論-

     ハイリゲンダムサミットでは首脳声明の策定プロセスを直に見ることはできなかったが、2007年9月のAPECサミットと11月の東アジアサミットについては、首脳声明策定プロセスを体験することができた。 続きを読む

  • 2013/07/12

    私的京都議定書始末記(その10)
    -気候変動戦線波高し-

     2007年前半、私がエネルギーマルチで「気候変動問題に関するエネルギー面からの取り組み」であくせくしている頃、本家本元の気候変動フロントでも色々な動きが生じていた。これには理由がある。京都議定書は2005年に発効し、2008年に第一約束期間が始まることが確定したが、第一約束期間は2012年末で切れる。 続きを読む

  • 2013/07/02

    私的京都議定書始末記(その9)
    -<エネルギーマルチ>転戦記-

     各種のエネルギーマルチ(エネルギー分野の多国間会合)で省エネ、セクター別アプローチ、革新的技術開発のメッセージを盛り込むというミッションの皮切りは、2007年5月のIEA閣僚理事会だった。先進国26ヶ国で構成されるIEAは、先進国、途上国を問わず省エネを進めるべしというメッセージを打ち込む上で、最も合意を得やすい場であった。 続きを読む

  • 2013/06/25

    私的京都議定書始末記(その8)
    -エネルギー面からの取り組み-

     2002年6月に国際エネルギー機関(IEA)に出向し、温暖化交渉とは縁が切れたが、温暖化問題との付き合いは続いた。私がIEAで担当した国別エネルギー政策審査の中では、各国が京都議定書の目標達成に向けてどのような施策を講じているかが大きな比重を占めていた。 続きを読む

  • 2013/06/20

    私的京都議定書始末記(その7)
    -COP7とマラケシュアコード-

     COP6再開会合から3ヵ月後の10月29日~11月9日、モロッコのマラケシュでCOP7が開催された。ボンで京都議定書の細目に関する政治合意が成立し、残された作業は、政治合意をCOP決定の形にすることであった。COP7の会場となったマラケシュの国際会議場はイスラム建築の香りの漂うエキゾチックな建物だった。 続きを読む

  • 2013/06/12

    私的京都議定書始末記(その6)
    -COP6再開会合-

     2001年7月16-27日にボンで開催されたCOP6再開会合は色々な面で日本にとって分かれ道となる会議であった。日本はCOP6再開会合までの間、京都議定書不支持を表明した米国とあくまで京都議定書の早期発効を主張するEUの間の架け橋になろうとしていたが、米国から具体的な代案もなく、この日を迎えることとなった。 続きを読む

  • 2013/06/10

    私的京都議定書始末記(その5)
    -米国の京都議定書離脱と日本の苦悩-

     2001年1月、私は資源エネルギー庁の応接セットで、谷みどり地球環境対策室長の後任に着任したばかりの関総一郎室長と向かい合っていた。関室長は私が資源エネルギー庁国際資源課補佐の頃、企画調査課補佐として机を並べ、気の置けない関係であった。二人の話題は米国のブッシュ新政権の動きである。「米国はそのうち、京都議定書離脱と言いだすのではないか。 続きを読む

  • 2013/06/05

    私的京都議定書始末記(その4)
    -COP6の決裂-

     ボンで初陣を果たしてから5ヶ月後の2000年11月11日、私はハーグのベルエア―ホテルの前に立っていた。これから2週間の長丁場となるCOP6の会場である。前半1週間が補助機関会合における事務方交渉、後半が閣僚レベルの交渉である。その1ヶ月前、リヨンで臨時の補助機関会合が開かれたが、ハーグに場所を移しても、私の担当するメカニズムを含め、各イシューをめぐる対立の溝は埋まる気配を見せなかった。 続きを読む

  • 2013/06/04

    私的京都議定書始末記(その3)
    -交渉デビュー-

     週末に代表団内、アンブレラグループ内デビューを果たし、週明けに初めて交渉会合に参加した。「何とも独特な雰囲気の会合だな」というのが第一印象であった。

     第一に参加者の多様性である。私がこれまで参加したIEA、OECD、APEC等の会合は政府担当官間の会合であり、男性の場合、ネクタイにスーツというのが通常であった。 続きを読む

  • 2013/05/30

    私的京都議定書始末記(その2)
    -初めてのボン、アンブレラ会合-

     初めて交渉官として参加したのは2000年6月にボンで開催された補助機関会合であった。補助機関会合は2週間にわたる長丁場の会合だが、確か、その時は資源エネルギー庁で別途の用務があり、1週目の週末から参加したと記憶している。会場はマリティムホテル。気候変動枠組み条約事務局がボンに置かれていることもあり、閣僚レベルのCOP会合以外、交渉会合の大部分はこのホテルで行われる。 続きを読む

  • 2013/05/28

    私的京都議定書始末記(その1)
    -プロローグ-

     2013年1月、日本は京都議定書第1約束期間を終え、京都議定書上の削減約束を持たない状態に入った。この時を迎えて個人的にいささか感慨を覚える。私は2000年~2002年、2008年~現在まで気候変動交渉に参加し、これまで19回のCOP(気候変動枠組み条約締約国会合)のほぼ半分の9回に交渉官として参加してきた(昨年12月に開催されたのがCOP18なのに、19回というのは、2001年にCOP6再開会合が開催されたからだ)。 続きを読む

  • 2013/05/24

    サッチャー元首相と気候変動

     4月8日、マーガレット・サッチャー元首相が亡くなった。それから4月17日の葬儀まで英国の新聞、テレビ、ラジオは彼女の生涯、業績についての報道であふれかえった。評者の立場によって彼女の評価は大きく異なるが、ウィンストン・チャーチルと並ぶ、英国の大宰相であったことは誰も異存のないところだろう。 続きを読む