福島で見る風評被害(4)

払拭の芽は自分の中に


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師


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※ 福島で見る風評被害()、()、(

 前稿では、風評被害の「固定化」の一因が科学情報の特性そのものにあると述べました。では、何故福島の中ではこのような固定化が生じないのでしょうか?それは福島の人々にとっては福島が他人事ではないからです。当たり前のように聞こえると思いますが、風評被害を固定化している一番の原因は人々の「他人事感」にあると、風評被害対策に携わっている人の多くが感じていると思います。
 現在福島県外の人々は、少し昔に固定化した福島のイメージを変える必要性を感じていません。このような無関心は無意識に進みます。積極的な差別や偏見以上に分かり難いため払拭も難しいものです。
 福島への無関心を改善するためには「福島を自分事と考えることが大切だ」ということは既によく言われています。しかし、ではたとえば東京の人間が福島を自分事と考えなくてはいけない理由はなんでしょうか?単に福島への同情だけで風評被害は自分事にはなりません。そこには「福島を知らないことは自分自身の損失になるかもしれない」という新しい認識が必要なのではないかと思います。

風評被害は害になるのか

 あるニュースに他人事感を持つこと自体は、悪いことではないと思います。日々の生活に追われ、自分に利害の及ばないことにまで関心を持つ余裕はない。そういう時には、自分事でない情報のイメージを速やかに固定化して頭の奥にしまうことは、情報過多を避ける一種の自己防衛反応になるからです。
 実際、東京に住む多くの方にとって、福島のイメージが変わらなくても日常生活に支障はありません。もし福島県産の野菜を避けてジャンクフードを食べたり、水道水を避けて糖分の高い飲み物を飲んだりするのであれば健康に良くないからやめたほうが良い、と言えます。しかし福島県産以外の野菜を食べたり、ペットボトルの水を飲んだりしているのであれば、特に生活を改める理由はないでしょう。
 私自身、相馬で買い物をする時に
「福島産は美味しくて値段が安いから、ラッキーだな」
と思ってしまうこともあります。つまり、風評被害によって食べ物の値段が下がることは、私自身の損にはならないのです。
 東京の人が目先の損得だけを考えれば、福島の風評被害を払拭する必要性は感じない。それが、無関心の根底にある理屈だと思います。しかし、これをより大きな社会問題としてとらえた場合にはどうでしょうか。

「他人事の風評被害」対策の危うさ

 私は現在東京と福島を往復しながら風評被害と事件の風化による無関心層の増加の様を眺めていますが、東京におけるこの「他人事感」に非常な危うさを感じています。他人事のまま福島の風評被害対策を行ったところで、その根底に流れる社会の問題が解決しないのでは、と感じるからです。このままでは福島の風評被害がなくなっても、全く別の風評被害が次々と現れ、新たな被害者が出る状況には何の変化も起きないでしょう。福島の風評被害だけがなくなればよい。私にはそうは思えません。
 風評被害の根は常に私たちの中にあります。これを自覚して断とうとしない限り、風評被害そのものはなくなりません。福島の偏見がなくなっても、残った根から形を変えて、別の偏見が生まれ、私たちは同じ過ちをただ繰り返すことになるのではないでしょうか。

風評被害の普遍性から学ぶこと

 今後起こり得る風評被害をもう少し根の部分から絶つには、私たちは福島が抱える問題を、一地域の特殊な問題ではなく、より普遍的な問題として考えなくてはいけないと思います。
「一切が相対化され虚無化され、風化してゆくのを避けるためには、極限的な体験の中から一つの核を持ち来って、それを平常心の軸にする智慧があれば十分なのである。」(1)これは作家であり評論家である高橋和巳が、第二次世界大戦の経験が風化していく時代に語った言葉ですが、今の福島にも全く同じことが言えると思います。
 福島を知ることがいかに自分の役に立つのか。そのような「平常心の軸」になり得る思想や哲学を見つけることこそが、福島を風化させない「一つの核」になる、と私は考えています。
 少し話題がそれますが、「筋痛性脳脊髄炎」という疾患をご存知でしょうか。レディー・ガガが昨年「線維筋痛症」のために芸能活動を停止しましたが、筋痛性脳脊髄炎はこの線維筋痛症と症状や病因が重なることも多い疾患です。医学的知見の蓄積により今では神経性・免疫性の疾患と認識されていますが、昔は『第二のエイズ』と騒がれ(エイズに対する偏見も吹き荒れた時代のことです)、社会的な偏見の目で見られることもあったようです。
「いつのまにかその熱もさめ、皆の関心がなくなりました。その後、『慢性疲労症候群』と言う病名のため疲労学会が研究に携わったこともあり、『疲れによる病気』などの誤解を生む結果となりました。」
 先日筋痛性脳脊髄炎の患者さんからお聞きした話ですが、ここには福島と共通する一つの構図が見られます。
風評被害は、多くの人が一番注目している時に起きるわけではありません。大騒ぎをする人々がいれば、必ず反論する人もそこに集まるからです。むしろ騒ぎが沈静化しつつあるときに、もう一度注目を集めようと焦った人の放った「いたちの最後っ屁」のような情報が、固定化した風評被害として後々まで残ってしまうのかもしれません。
 また、この筋痛性脳脊髄炎には、もう一つ福島の風評被害と類似している点があります。日本で偏見が解消されない理由が、単なる人々の知識不足だけではない、ということです。
 たとえばこの疾患の診断基準を改めようとすれば、最初にこの疾患を「疲労による疾患」と定めた専門家や政府に対して「過去の『過ち』を認めろ」「謝罪しろ」と口撃する人が出てくるかもしれません。過去に善意で行った活動を過ちと責められることは、とても怖いことですから、専門家や政府が慎重になるのも少し頷けます。
 また、新たな診断基準が作られれば、今まで補償を受けていた一部の患者さんが補償の対象から外されるかもしれません。たとえ疾患は異なっても辛い痛みと戦っている患者さんに、「これまで補償を受けてきたのだからあきらめろ」などと言われて納得のいくものではないでしょう。これは、以前に書かせていただいた福島の医療保障とも類似する構図だと思います。
 このような類似性について周りの方にしたところ、「海外のエボラもそうですよ」「農薬もそうでした」「ワクチンも」「移民も」…と、異なる専門家の方が、自分の専門分野で抱えるよく似た問題の話を教えてくれました。私はここに、福島を「自分事」とする大きなヒントがあるのではないか、と感じました。

自分の中にある小さな福島

「人々が福島のことをもっと知れば、風評被害が払拭されるのでは」
 いまの風評被害対策は、そういう仮説の下に行われています。しかし福島で私たちは、知識だけでは解決しない問題をくり返し目にしてきました。
 楽しくて美味しくて先進的な、今の福島のことを知ってほしい―それは福島を好きな私の個人的な願いでしかないのかもしれません。
 おそらく、風評被害を払拭するために新しい知識は何もいりません。風評被害はどこにでも転がる当たり前のことであって、その根は、無知な誰かではなく自分自身の心の中にあるからです。福島というキーワードをもとに、ただ自分自身を掘り下げていくこと。むしろそうすることによってどんな風評被害も生まれにくい未来が開けてくるのではないでしょうか。
 私は、「福島」が一つの概念となることは決して風評被害ではないと思っています。皆が自身の専門分野の中に小さな「福島」の芽を見つけ、「他人事である福島」が「自分の中にある福島」へと変わること。そうすることで、現実にある福島もまた、「知らないと損をする福島」へと成長していくこと。福島がそういう発展的復興を遂げることが、今の私のささやかな夢です。

<引用文献>

(1)
高橋和巳「極限と日常」.吉川幸次郎,埴谷雄高監修,高橋和巳全集第十二巻,河出書房新社.


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