福島で見る風評被害(2)

科学は事実を伝えるか


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師


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※ 福島で見る風評被害(1)

 前稿では、風評が様々な理由によって起こり得ることを、人という側面からお話ししました。一方で、情報という側面からみた風評はどうでしょうか。誤解を恐れず言うならば、福島について世に流れている極端なニュースは、全てが事実と反する「デマ」というわけではありません。特に科学を伝えようとする人が注意しなくてはいけないことは、暮らすという視点で社会を眺めた時の「事実」は、必ずしも科学的事実と同じではない、ということです。

統計データとニュース

 がんのリスクを例に挙げてみます。これまでの福島県における調査では、原発事故による放射能によって住民の発がんリスクが上昇した、という疫学的な証拠はありません。また、被ばく線量の推定値などからも、福島県で放射線被ばくによる発がんリスクが上昇する可能性は低い、と報告されています。ではこのような数値を理解することができれば全ての方が納得するのでしょうか。
 「先生の言うことは分かるよ。でも、自分の親戚の○○さんも、近所の××さんも震災の後にがんになったんだ。だからやっぱりがんは増えてると思う。」
 福島で放射線とがんの話をした後、住民の方にそう言われたことがあります。もちろん、○○さんや××さんが放射能によってがんになった、という根拠はありません。しかしこの方の体験に基づく不安を、「科学リテラシーが低い」と一蹴してよいものでしょうか。
 科学者は、統計データなどのより一般化された情報をより信頼性の高い事実と考える傾向にあります。一方、ニュースに載るような極端な個人的体験は「外れ値」のストーリーとも言えるため、科学の世界では軽視されがちです。しかし暮らしの視点から見れば、個人的な体験こそが血肉を持った「事実」です。ケーススタディよりも統計データの方が真実に近い、という科学者の常識は、必ずしも生活者にとっての常識とはならないのではないでしょうか。
 ストーリーを求める人々にとってもう一つ不信の元となるものは、公的文書の匿名性です。行政など公的機関から出される文書のほとんどには、文責者の名前も写真もありません。これは公的文書である以上、当然のことです。しかしこのような顔の見えない人から発信されたデータが、実名の一個人のニュースよりも信頼できる、ということを誰が住民の方に保障してくれるのでしょうか。現実にそこで生きる人々にとって、「政府」という顔の見えないリソースよりも、名前や立場を明らかにしたオンライン動画の情報が信頼されるのは、やむを得ないことなのかもしれないのです。

確率は事実か

 もう一つ、事実と混乱される数値として確率という問題があります。確率の世界では「発がんリスクが上昇する可能性は低い」とは書けますが、「発がんリスクは上がりません」とは書けません。確率はこれ以上のことを示し得ないからです。このような曖昧な表現を用いて、それがまるで「分かっていること」のように語ってしまえば、それは更なる不信の原因となるでしょう。
 確率が未来に起こり得る事象を推定している以上、99.9%の確率で起こり得る事象は、決して「現実」ではありません。くどいようですが、
 「99.9%の確率で××であるはずであった。しかし、実際には××とはならなかった」
という論理が矛盾しない限り、確率は確定的事実にはなり得ないのです。
 「『99.9%大丈夫だ』って言われても、この先何十年の中の99.9%なのかが分からない」
 「1000回に1回は外れ、って聞かされて、そこに暮らせるのか」
 実際に暮らしている方からは、そのような意見を聞くこともあります。
 私たちはたとえば99.9%、という確率を十分高いと「信じる」ことによって初めて安心を得ています。しかし情報網が発達した昨今、インターネットなどで0.1%の事象を検索することはあまりにも簡単です。このため、私たちが99.9%を高いと信じることは、益々困難になっているのではないでしょうか。論理的には全く矛盾しない「0.1%への不安」もまた、単純な科学リテラシーの欠如と呼ぶことはできないと思います。

暮らしの視点から生まれ得る風評

 このように、科学の与える情報が暮らしに寄り添うことは、時に困難を伴います。そしてその溝が新たな風評をも呼び得るのです。
 ある仮設住宅で放射能の説明会を見学していた時のことです。全ての説明が終わった後、70代くらいの女性からおもむろに質問が飛びました。
 「それで、結局私たちはいつ山菜を食べられるようになるんですか?」
 この質問は、科学者が伝えたがる情報と人々が知りたがる情報のかい離を端的に示していると思います。一人一人の暮らし方に対する問いには正解はなく、誰にとっても答えづらい質問です。しかし、もしこの質問に対しきちんと回答できなければ、
 「本当に答えてほしい質問に返答をもらえなかった」
という不信から
 「やっぱり何かを隠しているのでは」
という風評も生じ得るのです。
 暮らしの中で知りたい情報は、まず「自分」「自分の家族」「自分の住む社会」にとっての有害性(有益性)に関する情報だと思います。そのような情報は一個の数値で示すものではなく、個々人の「食べる」「遊ぶ」などの活動に対し、「あなたはこのように食べればいい」「あなたはこのように遊べばいい」というテイラーメイドの答えを持っている必要があります。
 「お年は何歳ですか。どれくらい山菜が好きですか。どれだけの量を食べたいですか。その量でそのご年齢であればこれくらい食べると○○と同じくらいのリスクになります。あなたはどうしますか?」
 そういった暮らしに寄り添うような回答ができなければ、科学は生活者にとって「何かごまかされている気がしてしまう難解なもの」以上の意味をなさなくなってしまうのではないか、と私は思います。

事実を伝える為に

 科学的知見について誠心誠意説明した後に、「でも私の体験では…」という、科学的でない質問をされることは、科学者にとってあまり愉快な経験ではないかもしれません。しかし福島で必要とされている科学は、その知識をもって未来に備えるための教養ではなく、現実社会と折り合いをつけて暮らしていくための手段としての科学です。科学的な事実に基づきつつも、現場で働き、遊び、学び、食べる人々の姿がしっかりとイメージできるような言葉で伝えること。今、福島で科学を伝えようとするためには、そのような力こそが問われているのではないでしょうか。
 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
という言葉があります。敵というと語弊はありますが、福島のリスクコミュニケーションにおいて私たちが相手にしているものは「放射能」ではなく「人々の暮らし」です。暮らしにはストーリーがあり、例外があり、一つとして同じものがない。そのことを十分認識したうえで、科学の限界(己)を知ることこそが、今ある根強い風評という「戦」に勝つために必要な戦略なのではないかと考えています。



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