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廃炉とコミュニケーション


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師


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 福島第一原子力発電所(原発)の廃炉作業が始まってからおよそ10年が経ちました。被災地が牛の歩みとはいえ少しずつ回復している一方で、廃炉は10年経った今、ようやく先行きの端緒が見えたに過ぎません。
 さらに、その先行きにはこれまで以上に広範囲・広職域の方々とのコミュニケーションが必要になります。廃炉の過程で生じるALPS処理水、高レベル放射性廃棄物などはオンサイトに限局した問題ではないからです。その処分方法や場所の決定などについては、なし崩し的と言われぬよう住民の方々を含めた対話を長く続けていく必要があります。
「これまで10年間の経験の蓄積があるから、大丈夫」
 そう思われる人もいるかもしれません。しかし廃炉における対話は、これまでの原発事故後のコミュニケーションとは全く性質を異にする、という点には注意が必要です。


福島第一原子力発電所(浪江市沿岸部から撮影)
ArtwayPics/Ⓒ iStock

買い手市場の廃炉コミュニケーション

 事故と廃炉で最も異なる点は、情報を求める人の数です。
 災害直後には世間の不安が急速に高まるため、皆が情報を求めて関連サイトに群がります。このため、情報はどこかに掲載さえすれば必ず誰かが拡散してくれる、圧倒的な「売り手市場」となります。「専門家」や関連しそうな機関の肩書がつけば、情報拡散のスピードは更に速まります。つまり発信者や発信媒体に肩書さえつければ、発信方法にそれほど苦労は要らないということになります。
 一方廃炉の情報を広めるために、同じ手法は使えません。なぜなら、今日本国中のほとんどの人間が廃炉について興味がないからです。どんなに分かりやすい情報でも一般の方に読んでもらうことは困難ですし、専門家という肩書を出せば、むしろ「専門的な難しいな意見」として聞き流されてしまうかもしれません。つまり廃炉についての情報は「買い手市場」だという事です。
 しかし、ときおり一過性に人々の耳目が集中的に集まることがあります。それは先般のALPS処理水の海洋放出のように何らかの政策決定がなされたり、現場でエラーや事故が起きた時などです。こういう時には人々の危機感が惹起されるため、急速に情報が拡散します。つまり、廃炉現場は原発以上に「怖い」という情報ばかりが拡散しやすいという事になります。

発信と検索

 なぜこのような現象が起こるかと言えば、このインターネット時代、情報は検索されて初めて発信されたことになるという背景が大きいでしょう。学術論文ですら、雑誌の知名度ではなく個々の論文が何回引用されたか(h-index)で評価される時代です。たとえ有名なサイトに有名人が情報を出したとしても、その後検索されなければ情報は急速に廃れてしまいます。人々がFacebookで「いいね!」の数を増やし、Twitterでリツイート数を上げるため、あらゆる手段を使うのはそのためです。
 検索されるように仕向ける一番安直な方法は、汚い言葉を使ったり、事実の一部だけを切り抜いたりして極端な情報・扇動的な情報を流す「炎上ビジネス」の手法です。このコロナ禍でも品のない情報、知性のない情報が拡散することに辟易されている方もいるのではないでしょうか。しかしこの現象は国の民度とは何の関係もありません。また、人々の理性や倫理観に訴えることでこれを止めることは、不可能だと思います。以前も書かせていただいたことですが注1)注2)、リツイートや炎上は便利な情報共有システムの副作用であり、無思想な自動運動だからです。そこに対面での会話と同じ倫理感や知性を期待しても徒労に終わる、というのが私の感想です。

拡散重視と歴史の軽視

 このよう状況に引きずられ、原発や廃炉の情報発信においても時に「少しウケそうな言葉を使ってみよう」「面白おかしく伝えてみよう」と考える方も増えてきているようです。それだけでなく、注目度が下がるにつれてSNS上で敢えて暴言を吐いて炎上させようとする方すら見かけます。
 極端な発言をする方に対抗して少し偏った発信をして注目を集めたい。その発想は、注目を集めるという点だけにおいては然程誤った方法ではないのかもしれません。しかしそれは現場における10年の歴史を踏みにじる行為となり得る、という点には注意が必要です。
 古い人間からすると少し不用意では、と感じてしまう発信が増えた一つの理由は、原発事故から10年が経ち、当時を知る人が現場から退き始めたことにあるのかもしれません。新たに参加された方から見れば、そういう発信も
「10年も経ったのだからこの程度は許されるだろう」
と思える程度のものなのでしょう。
 もちろん、いつまでも「不幸語り」をすることが良いとは思いません。また、廃炉を少し気軽に話せるようになった証拠と考えれば、必ずしも悪いことばかりではないでしょう。むしろ、言葉尻の一つ一つが炎上する現状を苦々しく思っている方も多いのかも知れない、とも思います。
 しかし10年という年月は、当時を生きた人々にとって、忘れるにはあまりにも短い時間です。また今を強く明るく生きている人々の根底は、その悔しさや悲しみが支えているという事も忘れてはいけないと思います。
 それだけでなく、歴史のない発信は深みと重みがなく、面白みの薄い情報ともなり得ます。それは歴史と文化をないがしろにしてまで発信したい情報なのか。安易な客寄せに走る前に、その点を今一度振り返っていただければと思います。

拡散の落とし穴

 そういう感情的な側面だけでなく、ウケ狙いの拡散方法は自分の首を絞める結果にもなり得ます。最初に極論を述べたがために後に引けず、問い詰められると妙な論点に固執せざるを得なくなるからです。その結果少しずつ発信内容が歪んでしまった、そんな例は今般のコロナ禍などでも後を絶ちません。
 このインターネット時代には、発信した内容は分かりやすい一部の文言だけが「切り貼り」されがちです。廃炉や災害のように、人によって被る影響も視点も全く異なるような情報は、拡散した瞬間から「変性」が始まると考えて良いでしょう。曲解を100%避けることはできませんが、会社や個人の実名で出す情報は言葉の頭から尻までどこを取られても良いように入念にデザインする必要があります。
 また有名人に発信させる、アクセス数の多い場所に掲載する、等の方法にもリスクがあります。注目度が高まることでその意見を境界として人々が二極化し、「賛成派」「反対派」という卑小な議論に終始してしまう可能性が高まるからです。
 私たちは、煽動という安易な方法や短期集中的に注目を浴びる方法用いず、かつなるべく広く情報を発信する、という困難な課題に直面しているともいえるでしょう。

専門と常識

 私は廃炉にはほとんど関わっていませんから、これは原発事故後のコミュニケーションから見た感想に過ぎません。それでも言えることは、廃炉の情報発信の目標は「話題になる事」ではなく、「その知識が当たり前になる事」ではないか、ということです。
 情報を拡散する人々の中には
「権威ある人が言っている」
「有名人が言っている」
など、情報の発信主体にこだわる人がいます。それに伴い、発信する側も、情報が拡散したから自分は「権威筋」「有名人」なのだ、と誤解してしまう人が増えます。発信者側・受信者側共に「権威至上主義」の風潮が醸されることは、情報の浸透にとっては阻害要因となり得ます。
 なぜなら、自分の権威を守りたい人々が情報の囲い込みをしたり、「ライバル」の論破に躍起になることで、それを見ている一般の人々が
「自分は専門家ではないから分かりません」
「自分のような者が語ることではありません」
と、自分の意見を持つことを放棄し始めるからです。これは有名性に拘泥した結果の集団無責任、とも言えるのではないでしょうか。

空気を読まないよそ者の役割

 災害の急性期には人々の混乱を避けるため、発信はきちんとした専門家による信頼のおける情報源に集約する必要があります。廃炉においてこれから目指すべきは、廃炉の基礎的知識が皆の常識になり、多くの人が自分なりの考えを述べられるようになることではないでしょうか。「専門家だから喋れない」のであれば、世間の常識になることなど及びもつきません。つまりその段階において多様性を拒絶する専門性へのこだわりはむしろ邪魔にしかならないのではないか、というのが私の意見です。
 皆が語れる廃炉となるためには、専門家でないよそ者が恥を忍んで語りはじめる、というお手本も必要ではないか。そう考え、廃炉とは無関係の私が今回敢えて筆を執った次第です。

注1)
https://ieei.or.jp/2019/08/special201706032/
注2)
https://ieei.or.jp/2018/04/special201706017/


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