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私的京都議定書始末記(最終回)

-エピローグ-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院 教授


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 冒頭から言い訳めいた話になってしまうが、私がこれまで書き綴ってきた始末記は、決して日本の温暖化交渉の全貌を語ったものではない。温暖化交渉戦線は京都議定書第二約束期間を含む枠組み論だけではなく、先進国・途上国の緩和目標/緩和行動のレビューの方法、市場メカニズム、資金援助、技術協力、キャパシティビルディング、適応、森林保全等々、非常に広範囲にわたる。そしてそれぞれの戦線において日本政府の交渉官たちは全力で戦ってきた。全ての交渉官たちにこの場を借りて深い敬意を表したい。私の始末記は、広範囲にわたる戦線の一部分を切り取ったものに過ぎないのだ。日本の温暖化交渉の全貌ということでは加納雄大氏の「環境外交-気候変動交渉とグローバルガバナンス-」がお勧めである。彼の著書が大本営作戦参謀の手記であるとすれば、私の始末記はある戦線の旅団長手記といったところであろう。

 とはいえ、過去の交渉経験を回顧し、今後の交渉のことを思い、色々な思いが沸き起こってくる。長い始末記を終えるにあたってそのいくつかを述べてみたい。

Advocacy から Pragmatism へ

 温暖化交渉の場は良くも悪くも声高なスローガン(Advocacy)が支配する世界である。「地球が危機に瀕している」「産業革命以降の温度上昇を2度以内に抑えねばならない」「いや、2度でも足りない。1.5度だ」等々、スローガンの事例は枚挙にいとまがない。1992年の気候変動枠組み条約、1997年の京都議定書以降の世界経済の巨大な構造変化や、昨今の先進国の経済苦境等から遊離した小宇宙のような感もある。

 IPCCにおける科学的知見を踏まえた巨視的な方向性の議論には意義がある。自分たちが何のためにこの議論を行っているかを見極めることは重要だからだ。クライメート・ゲート事件のようなことはあったが、私は温暖化懐疑論に与するものではない。科学的専門知識のない私は、IPCCが鳴らしている警鐘は真摯に対応する必要が有ると確信している。

 他方、国連交渉に参加する国の多くは、民主国家である。民主国家においては、様々な政策課題、しかも往々にして相互に相反する政策的課題を、国民の理解を得ながら進めていかねばならない。それが公共政策というものである。COPの場では温暖化防止が至高の価値であるが、各国にとって、温暖化防止は様々な政策課題の一つでしかない。温暖化防止は長期の課題であり、そのための取り組みは各国において持続可能なものでなければならない。

 「持続可能」とは温暖化防止への取組みと産業競争力、更には経済成長とのバランスが必要だということだ。気候変動への取り組みと産業競争力強化は両立するのか?「両立する」というのがpolitically correct な答えであろう。事実、欧州では「炭素価格の引き上げや厳しい削減目標の導入は新たな技術開発を促し、新たな産業、雇用を生む」というグリーン成長の考え方が支配的であった。

 しかしロンドンに身を置いて、現実の政治的・経済的状況をみるとそんなに簡単なものではない。欧州経済危機の中で多くの欧州諸国では再生可能エネルギー補助制度による過度のコスト負担が政治問題化している。欧州委員会による自動車排出規制強化提案に最も強く反対したのは環境先進国とされるドイツであった。更にEU-ETSの炭素価格引き上げを企図した欧州委員会の提案は欧州議会の強い反対に遭遇した。いずれも温暖化防止の取り組みと、産業競争力や経済成長との間で相克を生じている事例である。

 グリーン成長は方向性として正しいが、その便益は10年~20年たたないと体感できない。今、目の前にある問題である経済危機、雇用不安、エネルギー供給不安への説得的な処方箋にはなっていない。何より厳しい環境規制が産業競争力強化やグリーン成長を生むのであれば、温暖化交渉がかくも厳しい対立を生んできたはずがない。温室効果ガス削減努力を強化することが、少なくとも短中期的には経済的コストを生み、成長の制約要因になり得るからに他ならない。言い古された言い回しではあるが、「衣食足りて礼節を知る」である。経済成長がなければグリーン政策は持続可能ではないという政治的・経済的現実を直視すべきではないか。

 国連交渉を支配してきたAdvocacy を現実の方向性にしていくためには、Pragmatism が必要なのだ。



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