私的京都議定書始末記(最終回)

-エピローグ-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 またどの国際交渉でも同じであるが、交渉団内の団結、日本としてのワンボイスは極めて重要だ。カンクンの苦しい交渉を耐えることができたのは、外務省、環境省、経産省で横の連絡をよく取り合い、ワンボイスで対応できたことが大きい。杉山審議官、森谷審議官という素晴らしいパートナーに恵まれたことは有り難いことであった。「後ろから弾が飛んでくる」状況は交渉官の士気に大きく影響する。マスメディア、産業界、労働界に対する丁寧な説明も欠かせない。

 交渉官の育成も重要な課題だ。温暖化問題は長期の課題であり、局面は変わりこそすれ、温暖化交渉は今後も長期にわたって続いていくことだろう。独自の用語法、論理が飛び交う温暖化交渉は決して参入障壁の低い世界ではない。慣れるまでに一定の時間を要する。1-2年で交代していたのでは、いつまでたっても交渉団としての足腰が強くならない。何よりカウンターパートとなる他国の交渉官の中には「この道10年」のような人々がごろごろいるのである。本人にとって望ましいかどうかは別として、温暖化交渉にしたたかに対応し、日本としての発信力を強化するためには、戦略的な人材育成が必要であろう。温暖化交渉から一時離れるとしても、エネルギー問題や開発問題等、温暖化問題と密接な関連を有する分野を経験させ、交渉戦線に投入することも一案だ。甚だ不完全な事例ではあるが、私もそのようなキャリアパスを辿った。

 温暖化交渉の中で閣僚レベル交渉が重要な位置づけを占めることはしばしばある。その際、他国の閣僚はほぼ全て英語でやり取りをしており、通訳を要する中国、ロシア、日本は例外的な存在である。過去の交渉の中で英語でカウンターパートとやりあい、マルチの議論に参加したのは川口環境大臣だけであった。米国のスターン特使は閣僚ではないが、2009年以降、閣僚レベルとして米国交渉団を率いている。今後の課題だが、温暖化交渉のように高度に政治的同時に技術的な交渉においては、一定期間の長きにわたって対応する「特使」というアイデアもあるのではないだろうか。

産業界の役割

 産業界の役割についても触れたい。一言で言えば、温暖化対策と産業界を対立項でとらえたのでは何も生まれないということだ。これまでの環境NGOが展開してきた議論の中にはある種の「産業性悪論」があったように見える。かつてIEAに勤務していた時、「産業界が温暖化対策を遅らせている」と声高に叫ぶ一部のNGOを指して「彼らはスイカ(watermelon)だ」と言った人がいた。その心は「外は緑だが中は赤(green outside, but red inside)」。もちろん環境NGOには産業界と建設的に対話をしながら、ともに解決策を見出そうという方々が大勢いる。しかし90年代初めに社会主義の大義が崩壊し、行き場を失ったエネルギーが、誰も反対できない環境保護という大義、トップダウンの世界政府、管理経済的な方向に向かったという側面は確かに存在する。

 残念だがCOP交渉では、産業界の実態とかけ離れた議論が往々にして横行してきた。途上国が主張する知的財産権の強制許諾がR&Dへの最大のディスインセンティブになるということは、産業界の実態がわかっていれば余りにも明らかだ。「炭素価格を上げれば上げるほど良い」という議論は、温暖化防止という観点だけから見れば正しいが、部分最適でしかない。また厳しい温暖化対策で利益を得る産業は確かに存在する。巨額の補助金に依存する再生可能エネルギー業界などはその事例だ。しかし、コスト高の政策が他の産業部門の国際競争力を弱らせ、経済全体が左前になったのでは意味がない。国富を生む産業界を痛めつけ、経済成長の裏打ちのない温暖化対策は長続きしない。欧州において温暖化対策と国際競争力の問題がこれまでになくクローズアップされているのはその反省によるところが大きい。

 今後、国連において新たな枠組みを構築し、国連の外において日本のリーダーシップを確保するためにはとりわけ産業界との対話・協力が不可欠だ。日本の強みとなる技術を生み出すのは産業界だからだ。産業界の方々には今後の競争力の種を探す源泉として温暖化問題をとらえてほしい。また国際交渉の現場にも足を運び、政府に対して現場感覚のインプットをしてほしい。経団連の坂根地球温暖化小委員長(コマツ相談役特別顧問)はコペンハーゲン以降、ほぼ毎回COPに参加し、環境大臣はじめ政府交渉団と意見交換をしているが、非常に意味のあることだと思う。また米国主導のMEFの民間バージョンであるBizMEFでは「交渉現場の常識は産業の非常識」のような議論に接し、「目からウロコ」の思いがすることも多々ある。産業界との協力が必要なのは国内対策においてももちろん同様だ。繰り返しになるが、「スイカ」では駄目なのである。 

後進への期待

 以上、手記を終えるにあたって思うことを書き綴ってみた。これは2000年から、IEA出向と言う4年間の中抜けはあるが、2011年に至るまで何らかの形で温暖化問題に関与した私の全く個人的な意見である。当然ながら、それらは私の経験した交渉の時代背景、交渉局面の影響を受けたもので、普遍性のあるものではない。しかし京都議定書批准から京都議定書時代の終わりの始まりまでをカバーした私の経験が、後進たちにとって何がしかの示唆を与えるものであれば、これに勝る喜びはない。ロンドンに身を置いてCOP交渉に助っ人出張する度に、経産省交渉チーム、更には日本政府交渉団が立派に頑張っているのを見て嬉しく、かつ心強く思った。私の手記はほとんど「京都議定書の始末」で終始してしまった。これから新たな枠組みを作っていく中で、いつか、私の後進たちの誰かが新たな枠組みの「成立記」を書いてくれることを期待したい。最後に、自分の経験を何らかの形で書き残しておこうとぼんやり考えていた私の背中を押し、この場を与えていただいた国際環境経済研究所の澤所長にお礼をいいつつ、この長い手記を終えることにしたい。

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