環境省「長期低炭素ビジョン」解題(3)
手塚 宏之
国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)
「長期低炭素ビジョン(素案)」に関する論点
そして本年2月に入り、いよいよこれまでの議論を集約した61ページに及ぶ「長期低炭素ビジョン」の素案注1)が事務局より提示された。これに基づき2月3日の第12回小委員会、3月1日の第13回小委員会の場で、各委員からの意見聴取が行われ、環境省事務局による最終的なとりまとめのプロセスが行われた。
2月3日の小委員会では、提示された素案の中で強調されていた「カーボンバジェット」、「約束された市場」、「カーボンプライス」、「気候変動対策による経済成長」という4点について、筆者としての意見を述べさせていただいた。
まず「カーボンバジェット」であるが、素案では、2℃目標を達成するためには、地球全体で今後排出できる温室効果ガスの総量に科学的に見て1兆トンという上限があることを認識し、それを踏まえて我が国も、今後の排出量を「応分の上限内に抑えることが必要となる」といった主旨の記述が随所に書き込まれていた。世界の温室効果ガスの総排出量に上限を設定し、それを各国で配分してトップダウンで削減対策を迫るという手法は、「京都議定書」で経験した失敗の本質であり、「パリ協定」はその失敗を教訓にして、各国が(削減)貢献を自主的に掲げるプレッジ・アンド・レビュー方式に合意したのである。(というか、様々な立場を掲げる国がある中で、そうした枠組みにしか合意できなかったというのが実態である。)そうした中で、我が国として、わざわざトップダウンで排出上限の「応分な上限」を自主的に設定し、それに見合った強度の政策を取っていくというのであるから、これは京都議定書への反省を顧みない「失敗へのレシピ―」以外の何物でもない。まずはこの点についてコメントさせていただいた。
「これは素案全体に何度も出てくることなのですが、まずカーボンバジェットです。これは、この素案の中で12回も言及されています。IPCCの第5次報告書を踏まえて、このカーボンバジェットというコンセプトが提示されているのかと思いますが、実は、カーボンバジェットは、2015年の12月12日に合意された「パリ協定」の最終合意文書には入っていません。交渉途中の12月5日の時点で出された『Draft Paris Outcome』という交渉文書の中で、オプションとして世界全体のカーボンバジェットの公平な配分、あるいは地球全体の削減目標といった項目が含まれていました。この項目は、交渉過程で12月9日の議長提案バージョン1というドラフトまでは残っていたのですが、その日の夜に出てきたバージョン2の段階で全部落ちております。つまり、「パリ協定」の交渉の段階で、カーボンバジェットや全球の削減目標という概念には、国際的に合意できなかったというのが事実でございます。
つまり、このカーボンバジェットというものを前提として、究極のトップダウンアプローチのような形の対策をとっていくということは、少なくとも今の時点で世界の合意が得られていないということでございます。「パリ協定」の交渉の中では、先進国からの働きかけがいろいろあったようですけれども、途上国は、全球削減目標ということは受け入れられないというスタンスを貫きまして、こういう状況になっております。
従いましてこの素案の中で、「カーボンバジェットが前提となる世界」ということを何度も引用されているのですけれども、国際的な合意があるかのような引用をするのは、ちょっと事実の誤認ではないかということになります。まして日本が自ら、このカーボンバジェットの配分量というのを自発的に決め、特に他国の対策の進捗状況、努力といったものを勘案せずに、一方的に自己規定するということは、日本国民の利益にならないだけではなくて、他国の努力を軽減するということにもつながりかねず、地球全体の温暖化対策にも逆行する懸念があるのではないかと思います。したがいまして、カーボンバジェットを根拠に、長期対策の定量的な目標を規定するということは不適切でありまして、削除していただきたいと思います。
我が国が「地球温暖化対策計画」で掲げています2050年80%目標というのは、目指すべき方向を示すものと考えるべきだと思います。事実、既に長期目標を掲げている他国の場合も、80%削減はターゲットとして掲げているわけではなくて、ビジョンないしは「目指すべき方向」として掲げられているというふうに理解しております。今申し上げましたように(絶対量に関する)国際的な合意がない中で、目指すべき目標を掲げていくということですので、取り組んでいく際の対策については、国際情勢の変化とか、あるいは気候科学の知見の進捗に合わせて、臨機応変に対応していけるような柔軟なものとすべきと考えるところでございます。」
こうして削除を求めたカーボンバジェット論であるが、残念ながら事務局から示される「ビジョン」最終案においても引き続き記載されることになり、再びコメントをさせていただくことになっていくのだが、それについては後述させていただく。
約束された市場?
次に2月3日の素案においては、「温暖化対策」の強化や「低炭素社会への移行」は、もはや自明かつ不可逆な世界的トレンドであり、そこには巨大な新市場、ビジネスチャンスが現出することになるため、巨大なビジネスチャンス=「約束された市場」が生まれるとの記述がなされており、日本の産業としてこの事業機会を追求しない手はない、経済成長の源泉となりうるとの説明がなされた。「本当か?」というのが筆者の率直な印象であり、これについても下記のようなコメントさせていただいた。
「次に、「約束された市場」という言葉、これも、本文に11回も引用されていますが、これは誰が誰に何を約束しているかということが非常に不明確な言葉で、ある種のキャッチフレーズのようなものではないかと思います。IEA等が今後の脱炭素化のために(世界で)9兆ドルの追加投資が必要だということを言っているのはそのとおりですが、民間企業が投資回収ができないような投資を行うことはないわけですから、こうした投資が必要だからと言って全て実現するということを前提に議論をするのは不適切であり、単にそういう大きなチャレンジが目の前にあるということを言っているのだと解釈すべきだと思います。
気候変動対策が「約束された市場」であるとして、「使い道がないといった消極的に理由によって現預金を積み増ししている企業にとっても、見通しを持って積極的に投資が行える有望な分野の一つである」と記載されていますけれども注2)、そうした市場機会が確実にあるのならば、企業はいずれにせよ投資をするわけですね。ただそれを、定義が曖昧な「約束された市場」という言葉を使って、温暖化対策への企業の投資は、当然行われるべきであって、行われないのは経営判断が間違っているというようなことを含意しているのであるとすると、これは不適切な表現ではないかと思います。ビジネスチャンスが温暖化対策の中にあるということは、そのとおりだと思いますので、「期待される市場」といったような一般的な表現にしていただいたほうが誤解を招かないのではないかと思います。」
こうした筆者のクレームを申し上げたにもかかわらず、最終的に公表された「長期低炭素ビジョン」でもこの「約束された市場」については7回も言及されており、「ビジョン」のP36においても「潜在需要の喚起と外需の獲得-いわゆる「約束された市場」」と、一節を使ってそうした市場機会の存在とその追求について記載されている。ただ上記の筆者の発言もあってか、そうした市場が必ずしも企業に利益を保証するものではないということについては、「ビジョン」の脚注の中で以下のような注記をいただいている。
「気候変動対策は、科学に基づき必要とされる取組であり、長期にわたり継続的かつ大規模な投資が必要であることが予見され、世界中で既に取組が加速している。対策には現時点では未知のものも含め多様な可能性があり、市場の活力が最大限に活用されることによりイノベーションや成長の余地が大きい。既存ストック対策も含め、低炭素化・脱炭素化に向けた取組には将来にわたって継続的に大きな需要があり、結果として市場規模が拡大していく可能性が極めて高いと考えられる。これらのことから、本稿では、気候変動対策に関する市場を「約束された市場」と呼称する。このように、「約束された」とは市場規模を指し、当該市場に参入すれば確実に収益を上げられることを意味するものではない。」(「長期低炭素ビジョン」P20 脚注22)
- 注1)
- http://www.env.go.jp/council/06earth/y0618-12/mat02.pdf
- 注2)
- 「長期低炭素ビジョン」素案P23 「潜在需要の喚起と外需の獲得~約束された市場」より