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日本文明を支えるダム(その1)

―近世から近代そして未来へ-


NPO法人 日本水フォーラム 代表理事


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 日本の近代文明の誕生と発展を支えたインフラはいくつかある。その中で、特に重要なインフラとしてダムがある。ダムは山奥にあり人々の目につきにくい。そのため客観的評価がなされていない。
 ここでは、日本の近代文明を支えたのはダムであり、未来の日本文明においてもダムは不可欠であることを述べていく。
 日本の近代は明治期に開始された。しかし、日本の近代化の萌芽は、江戸時代にあった。ダムは時空を超えた普遍的なインフラであることを知るために、この記述も江戸時代から始め、対象地域は関東としていく。

人々へ水を供給するダム

 1590年、徳川家康は秀吉の命令で、江戸へ移封された。この江戸は、重大な欠陥を持っていた。江戸には「水」がなかったのだ。
 当時の江戸は、住家がぽつんぽつんと点在する寂しい寒村であった。江戸城の台地には、わずかな湧水はあった。しかし、大軍を擁する徳川勢の飲料水としては、絶対的に不足していた。
 江戸城の高台の下を、利根川や荒川が江戸湾へ向かって流れ込んでいた。しかし、その低平地は限りなく平坦で、江戸湾の海水は河口から逆流して、奥深くまで差し込んでいた。そのため、川の水の塩分濃度は高く、さらに、低平地の地下水も塩分で汚染されていて、飲料水として使用できなかった。
 家康が長期政権を樹立する地として、江戸は最も基本的なインフラである「水」がない土地であった。
 家康が江戸入りして、最初にやるべきことは、清浄な飲料水を確保することであった。

江戸の都市ダム

 1590年の江戸入を前に、家康は上水の確保を命じた。小石川上水、後の神田上水によって当面の飲み水は確保された。
 10年後の1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1603年に征夷大将軍に任命されると、京都から江戸へ戻った。江戸幕府が開府され、いよいよ、江戸の首都都市の建設が本格化していった。
 そのなか最も重要なインフラ工事が、ダム建設であった。それが、虎ノ門のダムであった。
 1606年、家康は和歌山藩の浅野家に堰堤、すなわちダム建設を命じた。
 神田上水に頼っていた江戸の水は、目に見えて不足していった。そのため、堰堤を建設し、その貯水池で水を確保しようというものであった。
 赤坂から溜池にかけては低湿地で、清水谷公園あたりから清浄な水が湧き出ていた。さらに、虎ノ門付近は地形的に狭窄部となっていた。この地形に目をつけた家康が、浅野家に堰堤建設を命じたのだ。
 この虎ノ門の狭窄部に堰堤を建設すれば、飲料水の貯水池が誕生する。さらにその水面は、江戸城を防御する堀にも兼用できる。
 この虎ノ門の堰堤は、日本最初の都市のためのダムとなった。
 その堰堤は(図-1)の広重の「虎ノ門外あふい坂」に見事に描かれている。裸の兄弟弟子が願掛けで向かうのは、今もある虎ノ門の金比羅さんである。二匹の猫が座っている坂は、アメリカ大使館へ行く坂だ。対岸の丘の火が灯る屋敷は、首相官邸である。
 虎ノ門という江戸のど真ん中に、このようなダムがあったのだ。


図-1 広重 名所江戸百景 虎ノ門おうい坂

人々を洪水から守るダム:日本堤と墨田堤

 1620年、江戸を洪水から守る日本堤が建設された。日本堤は、浅草の中州の小丘から日暮里方面の高台へ向かう、高さ3m、堤の道幅8mという大きな堤であった。
 この工事には日本全国の大名が参加したので、日本堤と呼ばれた。この堤防の威容は広重の「よし原日本堤」でも伝わってくる。(図-2)


図-2 広重 よし原日本堤(1620年)

 この日本堤は、江戸を襲う洪水を、隅田川左岸へ誘導し、洪水を左岸一帯で溢れさせ、右岸の江戸市街地を守ろうとするものであった。
 明暦3年(1657年)、江戸は明暦の大火に見舞われ、その災害復興で隅田川に初めて橋が架けられた。それが両国橋であった。両国橋の架橋以前は、隅田川の右岸だけが江戸市街であった。しかし、両国橋が架橋されて以降、江戸市街は左岸にも広がっていった。
 江戸市街が隅田川左岸に拡大していけば、洪水を左岸一帯で溢れさせられない。江戸幕府は左岸を守るため、今度は左岸沿いに堤防を築いた。
 もともと隅田川左岸には、熊谷に続く微高の洲があった。その洲を連続させて、墨田堤、荒川堤、熊谷堤を建設した。この結果、浅草を基点にして、右岸には日本堤、左岸には墨田堤、荒川堤、熊谷堤が完成し、洪水を貯める大きな空間ができたのだ。その図を(図-3)に示す。
 次々と江戸を襲ってくる荒川の洪水は、この河川空間で貯留され、江戸市街地を守っていった。日本で初めての大都市を守る治水ダムの誕生であった。


図-3 江戸時代:洪水を溢れさせた荒川(隅田川) 

近代化と都市の急激な拡大

 1853年、ペリー提督率いる黒船が来航した。日本は欧米列国に囲まれ、自身が列国になるか、植民地になるかの瀬戸際に立たされた。日本は富国強兵を掲げ、列国になる道を選択した。富国強兵の柱として近代産業が興され、水産加工業、製糸紡績の軽工業から、鉄鋼業の重工業へと急速に成長していった。
 明治の近代化において、日本の陸上交通インフラは極めて貧弱であった。そのため、産業の物流はもっぱら船に頼った。その結果、工場は港湾に面した低平地に立地され、工場従事者の居住地も低平地からスプロール的に広がっていった。
 沖積平野の低平地は水はけが悪い。その低平地に工場が立地され、人々が住みつけば、水害が頻発するのは必然であった。この国土利用の形態は、大正、昭和、平成と一貫して継続され、日本国土の水害の危険性は増大し続けた。
 第二次大戦後、荒廃した国土に次々と巨大台風や豪雨が襲った。1947年(昭和22年)のカスリーン台風をはじめ、アイオン台風、キティー台風、28年西日本水害、諫早水害、狩野川台風、そして日本史上最悪の1959年(昭和34年)の伊勢湾台風が発生した。戦後、毎年のように何百人、何千人の命が奪われ続けていった。
 日本人の命と財産を守る治水事業は急務となった。しかし、戦後復興と経済発展に伴い、低平地の沖積平野の都市化は、ますます加速していた。
 江戸時代、ダム機能を果たした日本堤と墨田堤に挟まれたあの広大な河川空間も、いつの間にか人々が住み着き、首都圏のベッドタウンと変貌していった。
 (図-4)は東京都の100年間の土地利用の変遷図である。田畑がつぶされ、市街地が急速に広がっていく様子を示している。


図-4 東京都の宅地及び田畑面積の推移(明治37年~平成9年)
出展:国土交通省(旧建設省、河川局)

※ 日本文明を支えるダム(その2)へ続く