日本文明とエネルギー(4):エネルギー番外編

短命の長岡京、長命の京都


NPO法人 日本水フォーラム 代表理事


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なぜ、長岡京へ遷都したのか?

 日本文明が誕生した奈良盆地の山々は、禿山になってしまった。奈良盆地は、森林が枯渇し、水害が多発し、排水不良で疫病が蔓延し、水運の便が悪い悲惨な土地となっていた。
 桓武天皇が、劣悪な環境の奈良から脱出したのは必然であった。「鳴くよウグイス、平安京」の西暦794年の京都遷都は有名である。しかし、実はその10年前の784年、桓武天皇は奈良盆地から出て、大きな淀川流域の長岡京に遷都した。
 なぜ、桓武天皇は長岡京に遷都したのか?
 淀川流域は広い。なぜ、桓武天皇はわざわざ長岡京に遷都したのか。長岡京へ遷都するにはある理由があった。長岡京には巨椋池(おぐらいけ)があった。
 この巨椋池は、奈良盆地の中央にあった湖とそっくりだった。湖は舟運の便が良い。小舟でどこへでも行けた。巨椋池に入る河川を利用して物資を運ぶのも容易だった。桓武天皇にとってこの巨椋池の風景は、故郷の奈良盆地の湿地湖の懐かしい風景であった。(図-1)は明治時代の地図で、長岡京と巨椋池である。
 桓武天皇はこの原風景に誘われて長岡京へ遷都した。
 しかし、その巨椋池は途方もない落とし穴を持っていた。


図-1

長岡京の落し穴

 巨椋池の落とし穴とは、洪水であった。
 この巨椋池には、3本の川が流れ込んでいた。桂川、宇治川そして木津川であった。この3河川は天王山の狭窄部で絞られ、この地点で巨椋池を形成していた。つまり、この巨椋池は地形が形成した巨大な遊水池であった。
 普段は、長岡京の巨椋池は水運に便利な湖であった。しかし、ここはいかにも洪水に弱い地形を示している。長岡京へ遷都して以降、長岡京は何度も洪水に襲われた。そのため、桓武天皇はたった10年で、長岡京から平安京へ再び遷都せざるを得なかった。
 同じ天皇が二度も遷都するなど日本史上で例がない。世界史を見ても、一人の権力者が二度も都を変えたなど聞いたことがない。
 桓武天皇の長岡京から京都への二度目の遷都を、様々な人間模様で説明されている。藤原種継の暗殺、早良親王の反逆と死去と怨霊、その崇りの災害や疫病が頻発した、などなどである。
 しかし、桓武天皇の二度目の遷都の理由は明らかである。桓武天皇は長岡京で、治水上の大失敗を犯したのだ。
 長岡京の北側に、標高が30mほど高い京都盆地があった。
 桓武天皇はこの土地に再遷都することにした。長岡京遷都の10年後の794年、桓武天皇は新しい都をこの地に建設した。
 京都という都の誕生であった。桓武天皇はこの京都の遷都で大成功することとなった。

西から京都へ

 古代から七街道と呼ばれる街道があった。日本列島の地形が創った自然にできた街道である。不思議なことに、日本列島の街道は全て京都に集中していた。
 ユーラシア大陸から日本海側の海岸に漂着した人々が、東に向って歩いていくと山口から島根、鳥取、兵庫そして福知山、亀岡を通って京都にたどり着いた。山陰道である。
 九州から瀬戸内海の陸路を東に向って、下関から広島、岡山、兵庫から大坂をかすめて自然と京都にたどり着いた。山陽道である。
 瀬戸内海の海上を船で東に行くと、大坂に着き、四国の太平洋から瀬戸内海に入っていっても大坂に着いた。和歌山から北上すると大坂に着き、その大坂から淀川を遡ると、自然と京都に着いた。南海道である。
 日本列島の西から来た人々は、地形上、自然と京都に行き着いた。

京都から東へ

 京都から東へ向かう時。山科の先で逢坂を越えることとなる。この逢坂を越えると大津に出た。
 大津から琵琶湖湖岸を北に向かうと、日本海側の福井、石川、富山そして新潟へ繋がった。これが北陸道であった。
 大津から陸路を東に進み関ヶ原を越えると、山岳ルートの東山道となり岐阜、長野、群馬、栃木そして福島、宮城の東北へと繋がった。これが東山道であった。
 大津から米原を過ぎて南へ向かうと、海岸沿いルートとなり、舟で湿地を乗り越え、相模湾や東京湾を船で渡ると、房総半島の先端の上総に上陸した。上総からは陸路を北上すると茨城、栃木となり東山道と合流した。これが東海道であった。
 これら山陰道、山陽道、南海道、北陸道、東山道そして東海道の古道は、京都に朝廷が遷都してから新しくできたのではない。京都が都になるずーと以前から、日本列島を行き来する古代の人々が通る道であった。
(図-2)が京都を中心として形成されていた古道の方向を示す。


図-2

情報が集中する日本文明

 凸レンズは散漫な光を集め、焦点で一点に集めていく。京都は3,000kmの日本列島の人々を、一点に集める焦点に位置していた。
 近代明治までの一千年間、京都は日本の都であり続けた。日本の歴史は揺れ動いたが、京都の都は不動であった。なぜなら、京都は日本列島の交流軸の焦点だったからだ。
 都であるための条件を、一つだけあげる。その条件は「情報」である。都が都であり続けるためには、情報の中心でなければならない。京都はまさに日本列島の街道の集中点であり、情報の集中点であった。
 日本列島を歩く人々は京都に向い、京都で集まり、京都で情報を得た。そして、人々はその情報を持って、全国に散らばっていった。日本列島各地で生きていた人々は、その京都の情報を共有していた。
 情報を共有する人々は、同じ共同体である。山岳と海峡と河川に分断されていた日本列島の人々は、離れていても言葉を分裂させず、同じ文字を読み続けた。それは、京都で情報を共有する共同体に属していたからであった。
 日本列島の中心の京都の地形が、日本人のアイデンティティーを確立し、日本人のアイデンティティーを育んだ。京都は、日本の都となる運命を背負った土地であった。
 桓武天皇は、長岡京の遷都で治水上の失敗をした。しかし、二度目の遷都で、日本列島の人々の共同体意識を醸成する京都という都の誕生に成功した。