日本文明とエネルギー(8)

家康の江戸帰還の謎(その2) ―大油田の発見―     


認定NPO法人 日本水フォーラム 代表理事

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不毛の関東

 1600年、徳川家康は関ケ原の戦いで西軍に勝った。
 戦国時代を勝利して、天下人となるには、朝廷を抱えることが要件だった。 ところが、家康は違った。
 1603年、征夷大将軍になった家康は、京都を離れ、箱根を超えて、田舎の江戸城に帰ってしまった。
 全国の戦国大名たちはあっけにとられたに違いない。家康は全国制覇の天下人になることなどに興味がないかのように、箱根の東に消えてしまった。
 当時の江戸は、単なる田舎ではなかった。度し難い不毛の土地であった。
 江戸はだだっ広い武蔵野台地の東端にあった。この武蔵野台地は役立たずの台地であった。何しろ大きな河川がなく、米を作るための水がなかった。この武蔵野台地には、ただただ雑木林が続いていた。
 江戸城の東には、水平線が見えないほど広大な湿地帯が広がっていた。縄文時代、海面が5m高かったころ、関東地方は海の下にあった。家康が江戸に入った時期には、海面は下がり海は後退していた。かつて海であったその跡地には、利根川、渡良瀬川そして荒川が流れ込んでいた。それらの大河川によって運ばれてきた土砂が、巨大な干潟湿地を形成していた。この湿地帯で生えているものといえば、アシ・ヨシのみであった。
家康はこの不毛の地・関東に帰還してしまった。
 
 (図―1)は、21世紀現在の東京圏の地形図である。かつての江戸城の西には武蔵野台地が続き、東側にはだだっ広い湿地帯が展開していた様子が分かる。


図-1 デジタル標高地形図(東京) 出典:国土地理院

フィールドワーカー徳川家康

 家康が最初に江戸に入ったのは、1603年から遡ること13年前の1590年であった。豊臣秀吉は、北条成敗で功をなした家康に関東を与えるといって、家康を江戸に移封させた。これは、家康にとって関東への左遷であった。いや、もっと的確な言葉は、秀吉による家康の不毛の地の関東への幽閉であった。
 家康が江戸城に入ったといっても、その城は荒れ果てた砦のようなものであったといわれている。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸の町づくりも行わなかった。
 1590年、関東に左遷させられた家康は一体何をやっていたのか?
 この時期、家康は徹底的に関東一帯を見て歩き廻っていた。この関東一帯の調査は後年の検地・知行割・町割などの政策で生かされていった。しかし、それ以上にこの現地調査は歴史的に重要な意味を持つこととなった。
 家康はこの関東の調査で「宝物」を探し当てていた!
 それを手に入れれば、間違いなく天下を確実にするとてつもない代物であった。
 そのお宝は、目に染みるような利根川、荒川流域の森林であり、武蔵野台地の雑木林であった。

日本一の緑の利根川流域

 (図―2)は米国の歴史学者、コンラッド・タットマン氏による日本の歴史的森林伐採の変遷である。彼は全国の寺社仏閣に入り、縁起書類を調べ上げた。その縁起には寺社の創建、改築時の木材搬入先が記されていた。その研究成果がこの図となった。


図-2 祈念構造物のための木材伐採圏
【コンラッド・タットマン「日本人はどのようにして森をつくってきたか」(熊崎訳、1988)より引用】

 中央の赤い色が奈良時代に寺社の建造のために伐採された範囲である。奈良時代には琵琶湖の北、南の紀伊半島まで伐採が広がっている。
 赤の周りに大きく紫色が広がっている。この紫色が戦国時代に伐採された範囲である。戦国時代、北は能登半島全域、東は伊豆半島全域、関西では紀伊半島全域、西では高知、山口まで手が付けられてしまっている。
 このことは、戦国時代には関西、中部には木々はなくなり、山々は禿山であったことを意味している。当時、木々が唯一の燃料であり、建造物や道具の材料資源であった。エネルギーがなく、資源のない土地で、自領の発展などできない。
 1590年、関東に移封された家康が、関東全域を歩いて目にしたのは、緑溢れる日本一の利根川流域であり、武蔵野台地の森林であった。(図―3)は、日本列島を河川流域で区分したもので、利根川流域は日本最大の面積をもっている。(写真)は当時の武蔵野台地の森林をイメージする富士山麓の雑木林である。


図-3

 家康は日本一の森林地帯、今でいえば大燃料地帯、大資源地帯を発見した。
 1603年、徳川家康が征夷大将軍になった。その家康が、都に背を向け、江戸に戻っていったのは、この大森林地帯のためであった。
 家康は天下を制するためには、潤沢なエネルギーが必要であることを知っていたのだ。


当時の武蔵野台地のイメージ(富士山麓原生林)