MENUMENU

本当に人々は「ゼロリスク」を求めていたのか


国際環境経済研究所主席研究員


印刷用ページ

 9月18日、原子力安全委員会の最後の会合が開かれた。会合にて班目委員長が「原発を運転するのは必ずリスクが伴うと専門家は誰でも知っているが、一般の人はゼロリスクを求めるため、リスクについて議論できなかった」と反省の弁を述べたと報じられていた。(例えば9月19日付日本経済新聞

当日の原子力安全委員会速記録には、次のようにある。

なぜ、備えが足りなかったのか。安全神話の存在だと一言で片づけてしまっては真相に迫れません。人々がゼロリスクを求めているとして、リスクがあることを知らせることを避ける風潮があったことこそが、問題視されなければなりません。事故を経て、リスクがゼロでないことは誰しも認めるところとなりました。問題の根源の解決が余りにも皮肉な形でなされたことは痛恨の極みでございます。リスクの存在を大前提としての原子力安全の確保のあり方について、真剣な議論が今後行われることを心から期待するとともに、原子力安全委員長在任中にそれをリードできなかったことについては慚愧に堪えません。

出典:第37回原子力安全委員会 速記録(抜粋) 平成24年9月18日(火)(太字は筆者) http://www.nsr.go.jp/archive/nsc/anzen/shidai/genan2012/genan037/index.html より。

 速記録をみると、前委員長の認識として「一般の人がゼロリスクを求めている」と述べたのではなく「人々がゼロリスクを求めているとして、リスクがあることを知らせることを避ける風潮があった」ことが問題とされており、報道と速記録ではニュアンスが異なるようだ。

 ところで、本当に人々はゼロリスクを求めていたのだろうか。

 事故前(2008年)に、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県と茨城県の一部の方を対象として実施された意識調査がある。原子力利用に関する考え方についてたずねた結果は次のようになっていた。

出典:原子力専門用語を分かり易く言い換える検討 JAEA-Review2009-043
http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JAEA-Review-2009-043.pdf

調査時期:2008年7月28日~8月8日
有効回答数:1190名
調査方法:Webアンケート(登録制アンケートモニター対象)
調査対象:
・原子力関係者でない16歳以上の男女
・東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県及び茨城県の一部
(詳細は出典を参照されたい)

 上のデータは上記の条件でサンプリングされた回答者の単純集計であり、民意の分布を統計的に正確に表すものではないが、当時の市民の意識を大まかには示していると考えられる。
 ここで「ゼロリスクを求める」にあたるのは「100%の安全が確保できないのならば、使うべきではない」という選択肢であろうか。これに「あてはまる」と回答したのは16.1%である。無視できる数ではないが他の選択肢に比べて多くはない。むしろ人々の多くはリスクとメリットや経済性などを考慮すべきと考えており、リスクの存在を前提とした議論をする素地は十分にあったように思える。つまり、前委員長の弁にあるような「人々がゼロリスクを求めている」という根拠は薄く「リスクがあることを知らせることを避ける」というのは、当局の思い込みに基づく自主規制にすぎなかったと言えそうだ。

 ちなみに、この設問を原子力利用の賛否の別にクロス集計した結果も示されている。原子力利用に反対という意見を持つ方には「100%の安全が確保できないならば使うべきではない」と考える人が多かった。当局に直接声を届けるような方々にはゼロリスクを求める人が多いと感じられたということだろうか。

出典:原子力専門用語を分かり易く言い換える検討 JAEA-Review2009-043
http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/pdfdata/JAEA-Review-2009-043.pdf

 このデータを踏まえて、改めて前委員長の弁をみると、まず「人々がゼロリスクを求めている」という言説が検証されなかったことが気にかかる。「リスクがあることを知らせることを避ける」ための口実として利用されていたのか、どこかの誰かが「一般の人々がゼロリスクを求めている」と言ったことが検証されずに浸透し続けたか、当局に対して直接的に声を届ける方々の中にはゼロリスクを求める意見が多かったからなのか、このような言説が浸透していた理由は知る由もないが、専門家集団としての気質について不安が残る。また、仮に「ゼロリスクを求める人は、専門家集団よりも一般の人の集団で多くみられる」とか「当局に直接声を届けるような方々には、ゼロリスクを求める人が多い」としても、それは必ずしも「一般の人にはゼロリスクを求める人が多い」ことを意味しないことを念のため付言しておきたい。直接届く声だけに反応して大局を見誤ってはいけない。

 そもそも、人々の意識がどうあろうとリスクの存在は大前提である。とりわけ原子力安全委員会といった規制機関はリスクがあるからこそ存在する。仮に、人々が本当にゼロリスクを求めていると認識していたならば、むしろリスクが存在することを伝える必要性が高いと判断されるべきだろう。しかし、彼らはあえてリスクを知らせることを避けてきた。この自主規制(事なかれ主義、悪く言えば「隠蔽体質」とも)によって、安全確保の議論が制約を受けていたとすればたいへん残念なことであるし、議論の制約がアクシデントマネジメントの質を下げていたならば、残念では済まされない。

 リスクが顕在化したことは大きな不幸である。しかしリスクがゼロでないことが誰しも認めることとなった状況は、リスクの存在を前提とした議論を深め、人々に知らせるよい機会でもある。新たな規制機関など原子力の安全確保に携わる方には、リスクに対峙する自らの仕事を、臆せずに社会に伝えて欲しいと思う。
 また、「人々がゼロリスクを求めている」から「リスクがあることを知らせることを避ける」という考え方の背後には、人々はリスクを理解できないだろうという傲りと、人々への不信感の存在が感じられる。今回の事故の前にも不祥事やトラブルが続き、信頼回復は我が国の原子力のひとつの大きな課題とされてきた。しかし、人々を信頼せず、リスクを知らせず、それで信頼を回復したいというのは、いささか虫のよい話だったということだろう。
 まずは人々を信じることから始めて欲しい。

記事全文(PDF)