ウクライナ・クリミア半島をめぐる連想


国際環境経済研究所主席研究員、(一財)日本原子力文化財団 理事長

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 ウクライナが小麦など穀類の大きな生産国であり小麦と小麦粉を始めとしてその製品や食用油を日本もウクライナに頼っていることは広く知られている。
 クリミア半島は、残念ながら2014年にプーチン・ロシアによって一方的に軍事侵略された。
 実は、ここクリミア半島には近代史の幾つかの出来事が詰まっている。

クリミア戦争とナイチンゲール

 1854年半島で“クリミア戦争”が起こった。
 ロシア(帝政)とトルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍との間で起きた戦争だ。ロシアが敗北した。
 戦争による悲惨な負傷兵の状況を知って、英国ロンドンにいた看護婦・ナイチンゲールはトルコのイスタンブル・ボスポラス海峡の東対岸にあるウシュクダルの英軍医療施設に行き傷病兵の手当てをした。
 ナイチンゲールはその後、ロンドンに帰り英国の医療制度を変え、世界の医療に大きな貢献をした。
 相当に本題から外れるが、次の通りの興味ある出来事があるので語りたい。

慈恵医大創設者も同時代ロンドンで医療研修

 実は、時を同じくして、ロンドンの医療施設で長年の研修を受けていた日本の医者がいた。後に日清日露戦争の際、日本海軍・総監医になった高木兼寛である。二人がロンドンで顔を合わせたことがあるかどうかはわからない。
 高木は、“病気”が、細菌が影響して発症するだけではなく、食物の“栄養欠陥”によっても発症することを知っていた。英国の大航海時代以来の船乗りの健康状況をつぶさに知っていたのだ。具体的には、船乗りの脚気の原因が体外からの細菌によるものではなく栄養欠陥によるものであることを知っていたのだ。
 この高木の知見は、日清日露戦争の際に活かされる。
 日清日露戦争で、陸軍の兵士には、栄養疾患による大勢の犠牲者が出た。一説には、鉄砲の弾丸に当たって命を落とした兵士よりも脚気によって亡くなった兵士の方が多かったとも伝わる。
 一方、海軍の兵士にはそのようなことはなかった。
 海軍総監医となっていた高木の方針によって、兵士には“麦飯”(一説には玄米)が供されたのだった。
 しかし、陸軍の軍医総監・森林太郎(森鴎外)は違っていた。森は陸軍の兵士に“白米”を供した。森はドイツで医学の勉学をしたのだったが、その結果上述の通りの状況が生じていたのだった。ドイツは、英国に比べれば内陸の国だから、医師:森の知見には高木のような船乗りの知見がなかったのだろう。
 なお、高木は帰国後 東京虎の門にある“慈恵医大”を創設した。
 クリミア半島に話を戻そう。

トルストイ、セバストーポリで戦う

 クリミア戦争には、ロシアの一兵卒として、文豪トルストイが半島の南西端の軍港都市「セバストーポリ」で戦場にいた。トルストイは戦場での体験をもとに、小説「セバストーポリ」を顕わしている。(岩波文庫)

映画「ひまわり」の“ひまわりが畑一面に広がる場面”はウクライナで撮られた

 半世紀前、ヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤーニが主演をした名画:「ひまわり」を見て、涙した人も少なくなくなかろう。印象に強く残る映画の一場面:“一面のひまわり畑”の場面はウクライナで撮られた。

ソ連名監督が撮った映画“戦艦ポチョムキン”は実際に起った兵士の反乱がもとになっている

 20世紀初頭・ロシア革命の初期、ソ連は名画「戦艦ポチョムキン」をあらわした。1905年に、軍港:オデッサで実際に起こった軍艦の兵士の反乱をもとにした白黒映画だ。ソ連の名監督:セルゲイ・エイゼンシュタインが撮った。広い石段を大勢の人たちが逃げ惑う場面の印象が強烈で今も記憶に残る。

第二次世界大戦後の世界を決めたヤルタ会談

 1945年の2月、英国チャーチル首相、米国ルーズベルト大統領、ソ連スターリン首相の戦勝国三首脳がクリミア半島南東の避寒地:ヤルタで会談を持った。よく知られる“ヤルタ会談”である。第二次大戦後の世界の大勢が決められた。
 この時、スターリンが日本に宣戦をするといったと伝わる。
 大戦はヨーロッパ大陸では5月初めに終戦したのだったが、その終戦の僅か三か月後の1945年8月8日、スターリン・ソ連は日本に宣戦を布告し大陸に居た邦人に襲いかかった。ソ連軍は、日本列島の北方領土にまで攻め込んだ。原爆が広島に落とされたのはこの年の8月6日だったから、その2日後に、ロシアは対日宣戦を布告しているのだ。

京都市とキーウ、横浜市とオデッサとは姉妹都市

 ウクライナの首都:キーウと京都市は姉妹都市だ。京都市には“キエフ”という名の料理店もある。
 横浜市もクリミア半島南の港町オデッサと姉妹都市だ。横浜市中区海岸通には、オンライン・ショップだが、ウクライナ・ワインの専門店もある。
 今、この二つの市役所では、ウクライナの人々への義援金を市民から募っている。