循環経済における自主的取り組み【ソフトロー】の役割(その1)


東海大学副学長・政治経済学部教授

印刷用ページ

1.はじめに

 今回の新型コロナウイルス災禍に対する各国の対応を見て、社会思想・哲学的に強烈に印象付けられたことがある。それは、西欧社会(ここではアメリカも含めて)がロックダウン的な個人の権利を強く制限する方法で対処したのに対して、日本は緊急事態宣言とはいうものの、自主規制あるいは自粛というソフトな方法で対処したという、この相違である。
 別の言葉で言うと、市民社会形成の原理が根底から異なることが露わになったとも表現できる。哲学論に深く踏み込むことはできないが、人間社会を考えるのに、西欧社会では「絶対的個人」注1) や「先験的主観」注2) が出発点となる。彼らは超越論的に措定された「個」から始めて、それから社会がどう形成されるか説明しようとする。これに対し、日本人は社会集団がはじめに措定される。「絶対的個人」や「先験的主観」などという言葉は日本人にはなじまないし理解できない。ハイデガーの言葉を借用すると、日本では相互共存在注3) が社会の出発点なのであって、個人はその中に埋め込まれている。
 この相違が今回の新型コロナウイルスの対応の明確な相違となって現れたのである。個人と社会の関係性は市民社会や経済の構成原理にまで関わる。それゆえ、こうした相違は社会・経済を制御する考え方や政策そのものにも反映されて当然なのである。したがって、西欧社会と日本とでは政策形成の原理や政策の実施手法に相違があるのは極く自然なことと言えよう。
 この違いを認識できないヨーロッパやアメリカの一部のマスコミは日本の新型コロナウイルス対策の意味がほとんど理解できず、批判の矢を浴びせたのである。ところがどうだろう、感染者率や致死率を見ても西欧社会のそれをはるかに下回っていて、日本の対策が万全とは言えないにしても、決して酷評の対象となるようなものではないことがわかる。もちろん、遺伝的特性や公衆衛生上の特性があるから、感染率や致死率の低さをのみをもって日本の対策の優越性を示すことにはならない。だが、日本の自粛を基底にもつ対策は日本社会では一定の効果を持つことは明らかなのではないか。実際、西欧の識者の中にも日本の対策を評価するものが出てきている注4)
 本項では以上のような問題意識のもとに、環境保全対策、とりわけ資源循環対策あるいは循環経済形成のための施策において、日本が固有の特性を発揮し、西欧社会にはない形で経済と環境のウインウインを実現できる可能性について2回にわたって述べることにする。

2.環境保全政策の思想の相違

 日本の資源循環政策の特徴を明確にするために、EUと日本を取り上げて説明する。EUは新型コロナウイルス対策と同様、環境問題でも極めてトップダウンの形で政策を形成し、加盟国を通して個人の行動を制限しようとする。まずEU理事会ないし委員会がEU指令を作り、それに従って加盟国は法制化を進めることが求められる。各国の法制化を通じて個人の行動が一定の方向に制約づけられるわけである。
 最近の廃プラスチックの対応を見てもそれは理解できる。EU理事会は「特定プラスチック製品の環境負荷低減に関わる指令」を採択し、2021年までに使い捨てプラスチック製品の流通を禁止することを決定した注5) 。加盟国はこれに従って国内法を整備し、この国内法によって関係主体の行動を制約することになる。もちろん根底には、EUの官僚主義があるのは事実だが、このような法的規制をしなければ「絶対的個人」の行動を変えられないという社会思想・哲学的背景が厳然としてあることを忘れてはならない。
 さて、ひるがえって日本を見ると、もちろん日本も法治国家である以上、当然法的規制によって個人の行動を制約するのは当たり前である。環境保全も同様で、極めて体系的に一貫した環境法体系があるからこそ環境が保全されるのである。しかし、EUと決定的に異なるのは、こうした法律と並行して自主的取り組みあるいは関係主体の協定などを通して環境保全を遂行しようという思想があり、実際それが機能しているということである。
 資源循環に関する日本の政策対応を見る前に、是非触れておかなければならないことがある。それは、公害対策で果たした自主協定や自主的取り組みなどの役割である。その典型例が、公害防止協定である。公害防止協定とは、潜在的に公害を発生する可能性のある企業あるいは既に公害を起こしてしまった企業が地元自治体と協定を結び、公害未然防止の実効性を高めようとするものである。場合によっては大気汚染防止法や水質汚濁防止法の基準よりも厳しい基準の達成が求められることもある。
 公害防止協定の嚆矢は、島根県と山陽パルプ江津工場と大和紡績益田工場との間で取り交わされた覚書で1952年のことであるという注6) 。本格的な公害防止協定の最初のものとして広く知られているのは、1964年に横浜市と電源開発との間で締結された協定で、石炭火力発電所の公害防止に関わるものである。そして、全国で結ばれた公害防止協定の数は3万件以上に及んでいる。大気汚染防止法や水質汚濁防止法などの法律以外に加えてこのような協定があるからこそ日本の環境保全が保たれていると言える。

3.日本における最近の自主的取り組み

 協定という形とは異なるが、自主的取り組みという日本固有の環境保全対策が有効であることはよく指摘されるところである注7) 。例えば、経団連が実施している自主的取り組みがその例である注8) 。この取り組みは、地球温暖化防止対策と廃棄物・資源循環対策よりなるが、ここでは本稿の趣旨に従って後者を取り上げる。
 産業界全体で1990年には5,835万トンあった埋立処分量が2018年度には382万トンまでに下がっている。基準年の2000年度の埋立量は1,811万トンであったから、基準年の埋立量と比べて78.9%の削減を実現したことになる。これはリサイクルなどによる資源の循環利用が進んだためである注9) 。もちろんこうした自主的取り組みの背景には、3Rを促進するための法律があり、産業界としてもそうせざるを得ない状況にあったのだが、それにしても上に述べた埋立処分量の減少には目を見張るものがある。
 もう1つ例として挙げたいのが、自動車リサイクルのための自主的取り組み、すなわち「使用済自動車リサイクルイニシアティブ」(通商産業省平成9年5月23日)である。このイニシアティブは使用済自動車の健全で円滑なリサイクルを促進するために関係各主体の役割を明確にするとともに、関係主体に応分の負担を求めたものであり、その後の自動車リサイクル法の下敷きとなった。この取り組みと自動車リサイクル法との関係については次回に述べるが、同イニシアティブが一定の役割を果たしたことは明らかである。使用済自動車リサイクルをめぐる関係各主体の連携協力の基礎ができたからである。
 それでは、なぜこのような自主的取り組みが資源の循環利用で一定の役割を果たし得るのだろうか。ここに、先に述べた日本人の強い相互共存在的感覚が作用していると考えられる。より日常的な言葉で表現すると、業界という社会集団の意識、そしてそれを包含するより広い意味での社会に対する関わりに対する意識である。もちろん企業それ自体は個別に利潤を追求する主体として存在するのだが、しかし日本においては個人と同様企業の場合も相互共存在の感覚を持っていて、「個の企業」に対する感覚は西欧におけるそれとは異なる。企業も社会内存在という意識を強く抱いているのである。
 確かに1960年代の公害の時代のように、日本の企業が相互共存在あるいは社会との共存の意識から乖離した時代もあった。高度経済成長期は、日本では珍しく個の利益がむき出しになった時代なのである。これは企業だけでなく消費者とて同じことである。かつては「ごみは生活のバロメーター」と言って消費者は大量の廃棄物を出したのだ、
 しかし長い日本の歴史の中ではこのような事象はそれほど多くなかったのではないかと考えられる。例えば、近江商人の「三方よし」の思想も相互共存在の強い社会意識に基づいている。また、消費者についても、今では日本では、市町村ごとに決められた非常に繊細な分別排出をして資源の循環利用に貢献している。日本では、海外と比べて不法投棄が少ないのも特徴的なことである。これも強い相互共存在意識の表れであると思われる。

4.共有された規範

 本稿前編を閉じるにあたり、また後編につなげるために1つのキーワードを提示しておきたい。それは「共有された規範」という概念である。絶対的個人にではなく、相互共存在的意識に基づいて社会が構成される場合、そこには共有された規範があるはずである。そうしないと相互共存在は相互共存在たり得ない。意識的であろうが無意識的であろうが、明示的であろうがなかろうが、社会構成員が守るべき規範が共有されているはずである。
 もとより、こうした社会構成原理にはメリットもデメリットもある。福沢諭吉が喝破したように、一身の独立がない限り一国の独立もないが注10) 、今の日本ではまだそれができていない。その理由の一つは個人の社会依存性すなわち強すぎる相互共存在的意識にあると考えられる。
 しかし、他方メリットもある。個人を規制する法律によらずとも、共有された社会規範を基盤として、人々の行動がより良い方向に制御される可能性があるということである。今般の新型コロナウイルス対応でもそれが示されたし、環境保全対応、特に資源の循環利用においてはこの強みが大いに生かされると筆者は考えている。次回はこの点について詳しく述べる。

注1)
エマニュエル・トッド(1999)『経済幻想』(平野泰朗訳、藤原書店)2ページ.
注2)
フッサール(1980)『デカルト的考察』(船橋弘訳、中央公論社)247ページ.
注3)
ハイデッガー(1980)『存在と時間』(原佑・渡辺二郎訳、中央公論社).但し、ここでの「相互共存在」の概念はハイデッガーのそれとは異なる.
注4)
「コロナ成功国のジャパンで、なぜ安倍政権は支持率急落」(文春オンライン、2020年5月27日14:42アクセス)
注5)
“Directive (EU) 2019 of the European Parliament and of the Council of the reduction of the impact of certain plastic products on environment.
注6)
細田衛士・横山彰(2007)『環境経済学』(有斐閣)p.86.
注7)
例えば、経済産業省(2020)『循環経済ビジョン2020』参照.
注8)
『経団連の環境における自主的取り組み』経団連ホームページ.
注9)
細田衛士(2020)「廃棄物処理とリサイクルの過去・現在・未来」『三田学会雑誌』112巻3号、pp. 1-25参照.
注10)
福澤諭吉(1978)『学問のすすめ』(岩波文庫).