再び「安全神話」に陥る世論と悪循環に陥る原子力規制活動


国際環境経済研究所前所長

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(「WEDGE Infinity」からの転載)

【要旨】

関西電力大飯発電所の運転差止請求を認めた福井地裁の判決は、ゼロリスク論の立場を取ってしまっている。
頑固な姿勢を示すことが独立性を示しているのだといった変な誤解が規制委員会内部に生じてしまっているのはないか。
規制活動は悪循環に陥っており、規制委と事業者との間の特別権力関係的な関係を断ち切って、正常なコミュニケーションを回復すべき。

安全規制の本質を理解しない大飯原発差止訴訟判決の影響

 先日福井地裁において、関西電力大飯発電所の運転差止請求が認められた。その判旨を見ると「かような(福島第一原発事故のような)事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかどうかが判断の対象」だとして、そうした危険が「万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然」としている。つまり、リスクはゼロでなければいけないというゼロリスク論の立場を取っているのである。

 規制委員会はこの判決に対して特別の反応を示したわけではないが、規制委員会も行政機関である限り、下級審とはいえ司法の判断には注意を払わねばならず、また原発反対派からの行政訴訟も覚悟しなければならないという状況が現実味を帯びてきている。さらに差し止め訴訟等が各地で増加していることから、民事訴訟法第42条に基づく補助参加の可能性も検討する必要がある。

 そうなると、規制委員会としては、安全規制の本質論が相対的な概念であることを世の中(や裁判所)に説明していかなければならなくなるが、その場合必要条件だけを説明して世論を説得できるだろうか、十分条件的なものまで求められるのではないだろうかという心理に陥ってしまうことは想像に難くない。これまでゼロリスクはありえないと主張してきた原発反対派は、今や逆にゼロリスクでなければ再稼働すべきでないと主張し始めた(=これ自体が自ら矛盾しているのだが)。

 こうしたなか、規制委員会は事業者の主張に対して少しでも理解を示すようなことをすれば、激しい批判を受けるのではないか、審査プロセスを合理的に進めるために事前審査を充実させようとすれば、それを「秘密主義」だと指摘されるのではないかなどの心配が募ってくる結果、審査プロセスにおける事業者への対応がぎこちなくなり、頑固な姿勢を示すことが独立性を示しているのだといった変な誤解が規制委員会内部に生じてしまっているのはないかと疑われるような状況になっている。

 特に審査の「透明性」を、規制委員会はインタ―ネット中継をすることと同義と看做しているのではないかとの批判もある。透明性とは、どういうデータに基づき、どういう判断基準に照らして、どういう論理構成で決定を行ったかを対外的に説明することを意味しており、規制機関と事業者とのやり取りそのもの(何を話しているのか意味不分明なことも多い)を中継すれば済むといった説明責任の考え方は不適切である。また中継されていることを意識した「演技」を行っているのではないかという場面にも遭遇することもあり、後述するように「透明性」の担保については根本的に手法を考え直すべきだろう。

悪循環状態に陥っている原子力安全規制活動

 現場の状況に最も詳しい事業者との正常なコミュニケーションが取れないようでは、安全対策に関する十分条件を示すことはとうてい不可能である。また技術面での最新情報についても事業者やメーカーとの接触がなければ、アップデートすることはままならない。その結果、ある審査項目に関して事業者が提出してくるデータについてそれで十分かどうか自信を持って判断できないため、データの追加提出を命ずることになる。その際、どのようなデータがどの程度あれば判断できるようになるか自体を規制委員会自らがよく理解していないことが真の原因なのだが、事業者が不十分なデータを出したかのように主張され、事業者側が責を帰せられることになっている場合も多い。

 事業者としては、こうした規制委員会の対応を見ると、どの程度のデータがあればどの程度の判断を示してくれるのかについて疑心暗鬼となり、データや資料の提出が消極的となることが多い。また、後に掲げる事例のように、規制判断にブレがあったり、審査基準解釈に安定性が欠けていたりすれば、安全対策投資をどこまで行えばよいのか判断が困難になる結果コストの不確実性が生まれ、経営状態に大きなインパクトが生じる。一方、規制委員会は、それを事業者側の責任にし、そうしたいわゆる「小出しの対応」を批判し、審査が長期化しているのは自分たちのせいではないという組織防衛的な態度をとることになる。

 再稼働できなければ経営に重大な損害が発生する事業者としては、「経営問題には全く配慮する必要はなく、安全の確保だけが審査の目的だ」とする規制委員会には、最終的に従わざるをえない、つまり「恭順の意」を示すほかないという心理に陥り、規制委員会の審査を通ることのみが短期的な目的化してしまうのである。そうなると、いざ審査に合格すればそれで仕事は終わりだというマインドになりかねず、第一義的にサイトの安全性に責任をもち、自律的に不断の安全対策強化を追求するという本来の安全性向上の構造が崩れてしまいかねない懸念が生じている。

 規制委員会側も、規制委員会の役割は原発を「止める」ことにあるのではなく、「安全に動かす」ことにあるということを再認識しなければならない。国民の負担によって投資されてきた経済的資産を安全に有効活用するには、どのような規制基準を策定し、その基準を満たすための事業者の行動をどのように検認していけばよいのかを考えて組織運営することが本務であり、原発を止めるあるいは止めたままにすることについて、自分たちが「最後の砦」にならなければならないとの意識でいるのであれば、それは当該組織の任務についての根本的理解の欠如でしかない。

 現在の炉規制法は民主党政権時代に制定されたものであり、当時は再稼働を含めて将来原子力をどの程度維持して行くのかに関して、政府・与党内部でもコンセンサスが取れない状態の下で、安全規制の役割やあり方について十分な議論を経たものとは言いがたい。現政権の下でようやく「エネルギー基本計画」という閣議決定の中で再稼働方針を決め、さらに今後原子力をどの程度維持していくのかという定量的な議論がなされる見込みが確実になってきた現在、「安全に動かすこと」が炉規制法の法目的であることをより明確にしていく必要がある。

 これまで述べてきたことを整理すると、規制活動は図のような悪循環に陥っているといえよう。こうした悪循環や規制委員会と事業者との間の特別権力関係的な関係を断ち切って、規制委員会と事業者が正常なコミュニケーションを取り戻し、本来の安全規制のあり方に立ち戻って、関係者各々が安全性向上への取り組みに専心できる制度的環境を確立する必要がある。次回、そのための方策について検討してみたい。

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