再び「安全神話」に陥る世論と悪循環に陥る原子力規制活動


国際環境経済研究所前所長

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 特に審査の「透明性」を、規制委員会はインタ―ネット中継をすることと同義と看做しているのではないかとの批判もある。透明性とは、どういうデータに基づき、どういう判断基準に照らして、どういう論理構成で決定を行ったかを対外的に説明することを意味しており、規制機関と事業者とのやり取りそのもの(何を話しているのか意味不分明なことも多い)を中継すれば済むといった説明責任の考え方は不適切である。また中継されていることを意識した「演技」を行っているのではないかという場面にも遭遇することもあり、後述するように「透明性」の担保については根本的に手法を考え直すべきだろう。

悪循環状態に陥っている原子力安全規制活動

 現場の状況に最も詳しい事業者との正常なコミュニケーションが取れないようでは、安全対策に関する十分条件を示すことはとうてい不可能である。また技術面での最新情報についても事業者やメーカーとの接触がなければ、アップデートすることはままならない。その結果、ある審査項目に関して事業者が提出してくるデータについてそれで十分かどうか自信を持って判断できないため、データの追加提出を命ずることになる。その際、どのようなデータがどの程度あれば判断できるようになるか自体を規制委員会自らがよく理解していないことが真の原因なのだが、事業者が不十分なデータを出したかのように主張され、事業者側が責を帰せられることになっている場合も多い。

 事業者としては、こうした規制委員会の対応を見ると、どの程度のデータがあればどの程度の判断を示してくれるのかについて疑心暗鬼となり、データや資料の提出が消極的となることが多い。また、後に掲げる事例のように、規制判断にブレがあったり、審査基準解釈に安定性が欠けていたりすれば、安全対策投資をどこまで行えばよいのか判断が困難になる結果コストの不確実性が生まれ、経営状態に大きなインパクトが生じる。一方、規制委員会は、それを事業者側の責任にし、そうしたいわゆる「小出しの対応」を批判し、審査が長期化しているのは自分たちのせいではないという組織防衛的な態度をとることになる。

 再稼働できなければ経営に重大な損害が発生する事業者としては、「経営問題には全く配慮する必要はなく、安全の確保だけが審査の目的だ」とする規制委員会には、最終的に従わざるをえない、つまり「恭順の意」を示すほかないという心理に陥り、規制委員会の審査を通ることのみが短期的な目的化してしまうのである。そうなると、いざ審査に合格すればそれで仕事は終わりだというマインドになりかねず、第一義的にサイトの安全性に責任をもち、自律的に不断の安全対策強化を追求するという本来の安全性向上の構造が崩れてしまいかねない懸念が生じている。