私的京都議定書始末記(その6)

-COP6再開会合-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 2001年7月16-27日にボンで開催されたCOP6再開会合は色々な面で日本にとって分かれ道となる会議であった。日本はCOP6再開会合までの間、京都議定書不支持を表明した米国とあくまで京都議定書の早期発効を主張するEUの間の架け橋になろうとしていたが、米国から具体的な代案もなく、この日を迎えることとなった。「米国のいない京都議定書体制は無意味」として、あくまで米国の参加するレジームの再構築を目指すのか、米抜き批准を主張する欧州、途上国と行動を共にするのか、選択を迫られることは確実であった。ちなみに、澤国際環境経済研究所長が環境政策課長に着任されたのもボン会合直前であった。

 COP6再開会合の開会プレナリーで今でも鮮明に覚えているのは米代表団に対する会場の反応である。ブッシュ政権誕生後、非公式会合は2度ほど開かれていたが、NGOやマスメディアも入る公開の会議はこれが初めてである。米代表のドブリアンスキー国務次官は、その発言中、初日から環境NGOの大ブーイングを浴びていた。責任を持った他国の代表団の発言に対して、その主張の当否は別として、ブーイングで応ずるような態度は傲慢であり、野蛮だと思う。私がこの交渉プロセスについて大きな疑問を持つ理由の一つは、こういった指弾的(judgmental)な雰囲気である。初日、米国は「今日の化石賞」(fossil of the day)ならぬ「今世紀の化石賞」(fossil of the century)を受賞した。

 冒頭4日間は、事務レベル交渉であり、従来の主張の繰り返しで何ら進展がないことはこれまで通りだ。私も、COP二度目になり、COPにおける前半の事務レベル交渉は閣僚レベル会合の「前座」にすぎず、実質的な意味などないことがわかっていた。それでもメカニズム戦線を守る身としては、戦わねばならなかった。ハーグにおいては、原子力プロジェクトからのCDMクレジット取得を「差し控える」との文言を「パッケージ」の一環として受け入れざるを得なかったが、「パッケージ」自体が崩壊した以上、この点についても仕切り直しとするのが本来である。しかし、EUは、この点についての議論を決して受け入れなかった。独、仏二大国における緑の党の影響力はかくも大きかったということだろう。

事務レベル交渉合間で鳩首協議(背中を向けているのが筆者)