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私的京都議定書始末記(その1)

-プロローグ-


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院 教授


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 2013年1月、日本は京都議定書第1約束期間を終え、京都議定書上の削減約束を持たない状態に入った。この時を迎えて個人的にいささか感慨を覚える。私は2000年~2002年、2008年~現在まで気候変動交渉に参加し、これまで19回のCOP(気候変動枠組み条約締約国会合)のほぼ半分の9回に交渉官として参加してきた(昨年12月に開催されたのがCOP18なのに、19回というのは、2001年にCOP6再開会合が開催されたからだ)。冒頭述べたような感慨を覚えた理由は、その間の「戦い」の大部分が京都議定書をめぐるものであったからだ。そこで、これから複数回にわたって、その顛末を綴ってみたいと思う。これは厳密、正確なクロノロジーを意図したものではない。特にCOP15(2009)以降の流れについては、畏友、加納雄大氏が書かれた大作がある。これから書こうと思っていることは、むしろ、2000年初頭以降の地球温暖化交渉の大きな流れの中で、その時々に自分が何を感じ、何を目指してきたか、という私的回想である。「私的京都議定書始末記」という、いささか品のない名前をつけたのはそれが理由である。

 私が地球温暖化問題に初めて触れたのは1989-1992年に在ケニア日本国大使館に勤務しているときだった。当時、私は援助、経済担当であり、環境問題は環境庁(当時)から出向しているアタッシェが担当していた。ケニアにはUNEP(国連環境計画)本部があり、環境庁が歴代アタッシェを派遣していた。したがって地球温暖化問題は担当外であったが、スタッフミーティング等で、気候変動枠組み条約という新たな条約が作られようとしているという話は聞いていた。ナイロビで交渉が行われることもあったが、私が参加することはなく、地球温暖化問題はまだまだ「遠い国の戦争」であった。

 地球温暖化問題への関与が強まったのは、ケニアから帰国後、資源エネルギー庁国際資源課の補佐になった頃からである。1992年には気候変動枠組み条約ができあがり、地球温暖化問題は国際的アジェンダとして確固たる地位を占めるに至った。地球温暖化問題とエネルギー問題がコインの裏表であり、資源エネルギー庁もこの問題に腰をすえて取り組むことが必要であった。OECD環境政策委員会等で、経済的手法としての炭素税、環境税が頻繁に取り上げられるようになり、その度に、関係省庁間で激しい論争が起きたものである。

 1995年頃だったろうか、通産省(当時)の政策決定の中核を担っていた法令審査委員会のメンバーだった時、第3回気候変動枠組み条約締約国会合(COP3)を日本に招致するという話が議題に上がった。当時の環境立地局の説明では「COP3では法的拘束力のある枠組みを作ることになる。地球環境問題ではドイツを初めとする欧州諸国が主導権を握ろうとしており、このままでは日本が蚊帳の外で物事が決まってしまう。日本は議長国として意思決定プロセスに深く関与する必要がある」というものだった。今、私がこの説明を聞けば、即座に反論したであろう。しかし当時は地球温暖化交渉の力学について全く知見がなく、「そんなものかな」と思う程度だった。

 1996年から3年間、OECD代表部に勤務した。既に1995年のベルリン・マンデートで「先進国だけが義務を負う法的枠組みを作る」という路線がしかれており、COP3に向けて外交戦が激しさを増していた。当然ながら、OECD環境政策委員会ではこの問題が頻繁に議論された。私はIEA担当であったが、IEAでも「気候変動のエネルギー的側面(Energy Dimension of Climate Change)」が議論されていた。稲川環境立地局長(当時)が欧州に出張に来て、主要国を回り、「90年基準はEUに一方的に有利。EUだけがバブルを組むのは不公平」といった主張を展開していたのもこの頃だ。1997年半ばになると、鷲見国際資源課長(当時)を始め、IEA関連で仕事上の付き合いのあった通産本省の人々が次々に京都議定書交渉に徴用されていった。OECD代表部の古屋公使(当時:後、地球環境担当大使)や環境庁アタッシェも「応召」された。京都議定書交渉そのものには参戦していなくても、関係者から話を聞くにつけ、容易ならざる事態になっていることは十分看取された。

 COP3が終わり、大木環境庁長官が「It’s so decided」と木槌をたたく映像をニュースで見た。日本6%、米国7%、EU8%という差別化された目標値は合意されたものの、日本にとって非常に不利な結果に終わったということは、それまでの議論から容易に想像できた。その頃、通産省事務方ヘッドとして交渉に参加していた中川通産審議官(当時)がパリに出張に来た際、「議長国というのは、会議をきちんとホストすれば責任を果たしたことになる。それなのに議長国だからという理由で、日本にとって死活問題となる主張を取り下げるべきだ、という議論が横行していた」と悔しそうに語っていたことを思い出す。

 1999年にOECD代表部から帰国し、資源エネルギー庁で省エネ担当企画官、新エネ担当企画官、エネルギー環境対策室長の3つのポストを兼務することを命じられ、工場における省エネ対策や、新エネ推進策に取り組むこととなった。欧米に出張し、固定価格全量購入制度、RPS等の政策手法の比較検討を行っていたのもこの頃である。2000年の年が明けた頃、資源エネルギー庁総務課長から、「地球温暖化交渉を手伝うように」との指示が来た。環境立地局の谷みどり地球環境対策室長(当時)は、資源エネルギー庁国際資源課補佐の前任であり、OECD代表部勤務時代は、IEA国別審査課長として仕事上の関係が深かった。おそらく谷室長から「温暖化問題はエネルギー問題の裏返し。京都議定書の細目を決める交渉は資源エネルギー庁にとっても死活問題であり、国際経験のある管理職をサポートで出してほしい」との働きかけがあったのであろう。

 指示を受けて谷室長のところに行くと、「まず手始めに2000年4月に気候変動枠組み条約事務局主催で政策措置のグッド・プラクティスに関するワークショップがある。それに出席してほしい」ということだった。併せて分厚い交渉テキストを渡され、温暖化交渉の現状について早口で説明を受けたが、頭に入るはずもない。「とにかく日本のエネルギー政策の現状を英語でプレゼンしてくればいいんですね」と言って、コペンハーゲンに旅立った。

 このワークショップは補助機関会合(SBSTA)のサイドイベントとして行われたものであり、私は2000年3月から総合エネルギー調査会で検討が開始された「エネルギー政策の総点検」の方向性をプレゼンした。当時のSBSTA議長はハロルド・ドブランド氏(ノルウェー)であり、人格・識見共に優れた賢人(ワイズマン)として、後述するAWG-KP議長、AWG-DP共同議長を歴任する同氏と初めて会ったのがこの時であった。イベント後のディナーはコペンハーゲン市の水族館で開催され、その時、ドブランド議長は、画面に映し出された大きな満月の中に立って挨拶をした。詳細は覚えていないが、「A man on the moon として挨拶をしたい。これから秋のCOP6に向けて京都議定書の細目を決めなければならない。これは月に着陸するのと同じくらい大変な作業だ。しかし地球を温暖化から救うため、我々は作業を完了しなければならない」というような趣旨だったと記憶している。

 各国のベストプラクティスの情報交換を目的としたサイドイベントであったこともあり、雰囲気も穏やかで友好的な会合であった。この時点では、私は「プレゼンター」であって、未だ「ネゴシエーター」にはなっていなかった。

ハラルド・ドブランドSBSTA議長

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