水素、アンモニアのリスクと管理
塩沢 文朗
国際環境経済研究所主席研究員、元内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「エネルギーキャリア」サブ・プログラムディレクター
新技術には、必ずその導入に伴って生じる可能性のある“影”の側面があります。脱炭素化のために水素、アンモニアを導入する際にも、そうした“影”の側面に対する配慮が必要です。
本稿では、水素、アンモニアの導入に係るリスクとその管理方策について解説しますが、その前に水素とアンモニアが日本の脱炭素化に果たす役割について確認しておきたいと思います。
脱炭素化に果たす水素、アンモニアの役割
エネルギー源の約80%を化石燃料に依存している日本が、カーボンニュートラル(CN)目標を達成するためには、エネルギー需給の両面での変革が必要です。
日本の化石燃料消費量の約4割が発電用燃料として使われていることから、電源の脱炭素化が重要なのですが、エネルギーの最終需要の姿から見ると、電力として利用されているのは全体の3割弱にすぎません。需要の7割強の大部分は、化石燃料をエネルギー源とする熱としての利用です。こうしたことから脱炭素化のためには、熱源となるエネルギーを非化石燃料や脱炭素化の可能な電力に置き換えていくことが必要となります。この結果、電力需要が増大するので、電源の脱炭素化は、一層重要で喫緊の課題となります。
加えて、電力に置き換えることが難しい燃料や、原料として使用される化石燃料(注-1)のCO2フリー化も進める必要があります。
つまり脱炭素化のために、以下のようなエネルギー需給の両面にわたる変革が必要となります:
・電源の脱炭素化と電力利用の効率化;
・熱源の脱炭素化のための電化の推進と非化石燃料への転換、加えて熱利用の効率化; そして、
・原料として用いられている化石燃料の脱炭素化のための生産プロセスの転換;
こうした電源、燃料及び原料の脱炭素化には、大量の CO2フリーエネルギーが必要となります。しかし、国内の再生可能エネルギー(再エネ)の利用可能量には限界があります。また、原子力やCCS(CO2の地下貯留)の利用拡大といったその他の脱炭素化手段の導入にも多くの課題と困難が存在しており、日本が、国内のCO2フリーエネルギーとCCSだけで脱炭素化を進めていくことは困難です。
このため日本が脱炭素化を進めるためには、海外に豊富に賦存する安価な再エネ資源の導入が必要となるのですが、米国や欧州諸国と異なり日本にはそうした地域との間に送電線やパイプラインといった再エネの長距離、大量輸送手段が存在していません。こういった理由で、海外の再エネ資源を長距離輸送可能な化学エネルギーの形、すなわち、水素やアンモニアとして大量に導入することが、特に日本にとっては重要となるのです。
加えて水素、アンモニアは、国内の再エネ資源の利用拡大にともなって重要性を増す電力系統の調整力、慣性力の確保のための火力発電用のCO2フリー燃料としても重要です。
水素、アンモニアのリスクについて考える
このように水素、アンモニアは、日本にとって脱炭素化を進めるための重要なものなのですが、その導入によってもたらされる可能性のあるリスクが、「水素は爆発する」、「アンモニアは毒」といった“ラベル貼り”のような形で人口に膾炙しているように感じます。こうした“ラベル貼り”のような問題設定は、合理的な技術の選択や対策の優先順位を誤らせ、導入の社会的コストを増大させるだけでなく、結果的に社会全体の便益を損なうことにもなりかねません。
本稿では、以下水素、アンモニアのリスクとその管理の方策について、どのように考えることが科学的に合理性のある考え方であるかを解説します。そこでは、単純なラベル貼りによって生ずる問題についても指摘したいと思います。加えて、事故等の際に必要となるリスクの低減・除去対策の現状と、その高度化に向けた検討事項についても触れたいと思います。
水素、アンモニアの導入にも何らかのリスクがともなう以上、科学的な説明と対策だけで人々の理解が得られるものではありません。それで最後に少しだけ、リスク管理対策に関する社会の合意形成のための方策についても触れたいと思います。
化学物質の有害性とは
すべての化学物質には多かれ少なかれ、必ず何らかの有害性があります。やや乱暴な例えになりますが、人間の体を含め、生物、無生物を問わず、世の中のものすべては化学物質から成り、異なる化学物質間では何らかの相互作用(化学反応)が起こり得るからです。特に燃料として利用されるような化学物質は、特定の条件の下で燃焼や爆発といった激しい化学反応を起こす物質ですから、そもそもかなり大きな有害性のポテンシャルをもつ物質と言えるでしょう。
そうした「有害性」には、さまざまな側面があります。それらは大きく分けて
①可燃性、引火性、爆発性等の物理化学的有害性
②人の健康に対する有害性
(i)皮膚腐食性、窒息性等の急性毒性
(ii)発がん性、生殖毒性等の慢性毒性
③生態系への有害性等の環境有害性
等に分類できます。
現代社会で日常的に使用されている化学物質の数は約10万物質(注-2)と言われていますが、このうち、物質の物性や、これまでに起きた中毒や事故、その他の問題事例から、人や環境に対する有害性を有することが懸念される化学物質については、詳細な物性データ、燃焼・爆発実験や毒性試験データ、そして疫学データの収集等、有害性に係る科学的なデータの収集と、分析評価(注-3)行われています。そして、その結果に基づいて、より細分化された有害性の側面(注-4)から有害性の程度が評価・分類されます。その評価と分類は、これらの化学物質を安全に取り扱うための規制や基準のベースとされます。
このように化学物質の有害性の評価は、多岐にわたる有害性の側面を視野に入れつつ、総合的に行われるものです。
化学物質のリスクの管理
化学物質の有害性は化学物質固有の性質ですが、化学物質に有害性があるということと、それが人の健康や環境にリスクをもたらすこととは、別の問題です。どんなに強い有害性をもつ化学物質であっても、その有害性を発現させないように取り扱えば、人の健康や環境へのリスクを許容できるレベル以下で管理することができます。つまり、化学物質の有害性は、適切なリスク管理対策を講ずることによって管理、低減することが可能です。実際、私たちの周囲には、有用でありながら、強い有害性をもつ化学物質が数多くありますが、私たちは、そうした二面性を有する化学物質の有害性をうまく管理しながら、化学物質の効用からもたらされる恩恵を享受してきました。
そうしたリスク管理の対策として代表的なものは、暴露管理対策です。暴露管理対策とは、有害な化学物質との摂取や接触の度合いを管理するための対策のことで、有害性からもたらされるリスクの性質と大きさとの関係で、必要となる暴露管理対策の内容と強度が決まります。
つまり、化学物質のリスクは、化学物質の有害性評価 (Hazard assessment) と、当該化学物質への暴露の可能性に係る暴露評価 (Exposure assessment) の結果に基づいて、当該化学物質によってもたらされるリスクの評価 (Risk assessment) を行い、その評価結果に基づいて、必要な暴露管理対策等のリスク管理(Risk management)対策を講ずることによって管理するのです【図1】。
このようにリスク管理の要諦は、化学物質を取扱うすべての局面において、その有害性を許容可能なリスク以下のレベルとするためのリスク管理対策を講じることにあります。したがって、新たな技術の導入、取り扱いの可否は、実効性あるリスク管理対策が技術的に存在し、そうした対策が、実際的にも適用可能かどうかいうことで判断されることになります。
水素、アンモニア等の有害性とリスク
【図2】は、EU加盟国で化学物質に関する規制を実施する専門機関、欧州化学品庁(ECHA)が行った、化学物質の有害性の各側面に係る評価・分類結果のうち、水素、アンモニア、そして炭化水素系の燃料等、類似用途に用いられる化学物質の評価・分類結果を示したものです。
EU域内では、化学物質の適切な管理を確保するために、有害性分類毎に要求される取扱い基準にしたがって、化学物質や混合物の分類、表示、包装を行うことが規制により要求されています(注-5)。なお、当然のことながら有害性の科学的評価の結果は、国際間でほとんど大きな差はありませんが、分類の区分等、具体的な規制内容に係る措置は、国内環境や事情により、各国間で一部に差異が見られます。しかし、化学物質は国際間で広く流通するものであることから、規制措置内容についても可能な限り貿易の障害とならないよう、国際間での整合化努力が続けられています。
水素、アンモニアの有害性とリスクの管理対策
さてここからは、【図2】をもとに、これらの化学物質の有害性の評価結果を具体的に見ていきましょう。【図2】からは、
①液化水素には激しい可燃性があり、アンモニアにはかなり強い急性の毒性がある、
②他方、水素、アンモニアは、ガソリンやトルエン(注-6)と異なり、発がん性や生殖毒性といった慢性毒性を有する疑いがあるとは評価されていない、
③水素、アンモニア、炭化水素系の燃料等として用いられるこれらの化学物質には、爆発性、可燃性、毒性の面で、かなり強い何らかの有害性がある、
と評価されていることが分かります。
異なる有害性の側面の間の重篤さの比較は簡単にできるものではありませんし、どの有害性の側面についても、その有害性からもたらされる可能性のあるリスクはきちんと管理されなければなりません。ですから、「〇〇は△△より危険だとか、安全だ」と、単純なラベル貼りのようなことをすることは妥当とは言えないのです。
これらの物質は、いずれもその有害性からもたらされるリスクを管理することが必要な物質であり、使用の各段階で所要の暴露管理対策をとりつつ使用される必要がある物質ということです。私たちが日ごろ燃料として使っているガソリン、メタン、プロパンにも有害性があり、私たちはそうした物質を適切に管理しながら使ってきました。
水素、アンモニアは、ともに製油所や鉄鋼業、化学工業等の工場、事業場では、以前から燃料や原料として使われていた物質です。水素は、その大部分が工場内で自家消費されていますが、アンモニアは、19世紀初頭から長きにわたり、冷媒や肥料原料として大量に使用されてきました。特にアンモニアは、現在、世界全体で年間約2億トンが製造され、約2,000万トンが日常的にタンカー等による海上輸送により、国際間で流通しています。このように、水素、アンモニアはこれまでにも大量に使用されてきた実績のある物質であり、液化水素の大量輸送、貯蔵技術など一部には、引き続き開発、改良の必要な技術があるものの、基本的には水素、アンモニアには実績のある暴露管理手段が存在しています。
したがって、水素、アンモニアからもたらされるリスクは、所要のリスク管理対策を講ずることによって十分に管理することが可能と言えるでしょう。
リスクの低減・除去対策
十分なリスク管理対策がとられていても、しかし、不測の事故は起こり得ます。その際に重要となるのは、顕在化したリスクを低減・除去するための対策の有無です。この場合も、実効性あるリスク低減・除去対策が技術的に存在し、実際にも適用可能であることが重要です。上述したように水素、アンモニアは特に産業分野では大量に使用されてきた実績のある物質なので、さまざまなリスク低減・除去技術や対策が存在しています。
事故時の対策として、ハード面のリスク低減・除去対策とともに忘れられてはならないのは、ソフト面の対策です。
事故はいろいろな状況や環境下で起こり得るので、事故リスクが高いと考えられる輸送・貯蔵、使用の局面については事故時のシミュレーション等を行い、これまで蓄積されてきた知識と経験の蓄積をもとに、ソフト面の対策を含めた所要のリスク低減・除去対策を講じておくことが必要です。加えて、実際にリスクの低減・除去対策に当たる関係者が、そうした蓄積を活用できるよう、関係者の教育、訓練を行うことが必要です。
万一事故が起きた場合、事故収束活動の最前線に立つ消防士や地方自治体の職員が、素早くかつ正しい対応をとれるようにすることも重要です。これについては、全米防火協会(NFPA:National Fire Protection Association)が実施している“ファイア・ダイアモンド(Fire Diamond)”と呼ばれる表示制度が参考になります。これは、有害物質の漏洩や火災事故によってもたらされるリスクとその重篤さの度合いを評価し、その結果を専門家以外の関係者にも分かりやすい形で物質の貯蔵庫やプラントに掲示しておくものです。こうした情報共有・伝達手段を整えておくことによって、事故発災の際、これらの関係者が、短時間で、かつ、的確に危険性の度合いを判断し、事故収束のために必要となる適切な専用器具・対応手順・防護措置等を選択することが可能となります。【図3】に水素、アンモニア、炭化水素系の燃料に係るファイア・ダイアモンドの例を示しておきます。
このほか、地方自治体の職員が周辺住民の避難誘導等の予防的被害拡大防止対策に当たる際に必要となる情報を記した、マニュアルのようなものも必要となるでしょう。
今後のリスク低減・除去対策の高度化に向けて
水素、アンモニアのリスク低減・除去対策の状況と、対策の充実・強化に向けた当面の取組み課題は上述のとおりですが、今後、水素、アンモニアの導入の進展に伴って、取扱量、取扱作業者数が増えるだけでなく、水素、アンモニアの取扱いに不慣れな新規参入者も出てくることから、ハード、ソフトの両面にわたって、状況に応じた対策内容の改良と高度化を図っていくことが必要です。
欧米諸国で整備されつつあるリスク低減・除去対策は、先のNFPAの取組み例から分かるように、火災や漏洩実験を実際に行ってデータを収集し、対策の充実・強化の根拠として用いています。実際にそうした実験を実施してみないと分からない対策の問題点や要改良点もあるでしょう。
他方、日本では、このような実地試験を行なえる場所や施設はほとんどありません。冒頭に述べたように、脱炭素化にあたって水素、アンモニアが担うことが期待されている役割は、特に日本において大きいのですから、日本でも、このようなリスク低減・除去対策に係る研究施設を整備し、率先してこうした情報収集に取組み、対策の高度化に反映していくことが必要でしょう。
「安心」に係る対策 -パブリック・アクセプタンス (Public Acceptance)-
水素、アンモニアをエネルギーとして導入するケースのように、新技術を新たに導入する際には、所要のリスク管理対策を講じることに加えて、導入に対する周辺の住民の理解(パブリック・アクセプタンス)を得るための取り組みが必要となります。
そういった取り組みが必要となるのは、住民の有する価値観や知識、関心が個々人で異なることに加え、リスクに関する認知(受け止め方、理解のされ方)が個々人によって異なるからです。また、リスクに関する認知の差は、特に導入推進側の関係者と周辺の住民との間では大きく異なります。これは両者の間に、リスク情報や知識に情報の非対称性が存在するからです。加えて、推進側と受入れ側という立場の違いもあります。
米国では、民主主義社会においてリスク管理対策に係る社会合意を構築するための重要な方策はリスクコミュニケーションであるとの認識の下で、1980年代からNRC(全米研究評議会)を中心にリスクコミュニケーションについての研究が精力的に行われてきました。その成果は1989年に”Improving Risk Communication”と題する報告書としてとりまとめられ、その後のリスクコミュニケーション研究の基礎が築かれました。
その後、日本でもリスクコミュニケーションに係る多くの研究が行われていますが、ここでは文部科学省科学技術・学術審議会が2014年にとりまとめた「リスクコミュニケーションの推進方策」をもとに、リスクコミュニケーションの定義: “リスクコミュニケーションとは、リスクのより適切な管理のために、社会の各層が対話・共考・協働を通じて多様な情報及び見方の共有を図る活動” と、その報告書の概要を紹介しておきましょう【図4】。ここで注意すべきことは、リスクコミュニケーションは、「多様な情報及び見方の共有を図る活動」であり、特定の合意の形成を目指すものではないということです。
リスクコミュニケーションの進め方について本稿で詳しく記述することはできませんが、「多様な情報及び見方の共有を図る」ための活動を支援、促進するうえで重要なこととして、①発信側の話題設定と受け手側の関心事項の間のズレを極力減らしつつ、対話・共考・協働するために必要となるリスク情報をタイムリーかつ誠実に提供すること、並びに②対話・共考・協働の支援にあたる、中立性と独立性のある専門家の存在を確保すること、という指摘は重要なポイントです。
- 注-1)
- 鉄鋼生産用の原料炭、石油化学原料用のナフサ等。
- 注-2)
- Chemical Abstract Service のデータベースに登録されている化学物質数は約3億、日常的に使われているのは約10万物質あると見積もられている。
- 注-3)
- 有害性の各側面を評価するために行われる個々の試験や調査内容全般について本稿で説明することはできないが、非常にざっくり言うと、化学物質の有害性の評価は、当該化学物質の量(濃度や摂取量)とそれによって生じる影響の程度(用量反応関係)を実際の試験や既存データの調査によって求めることによって行われる。一例として用量反応関係に基づく毒性に関する有害性評価の方法を、別稿(「よりよいリスク管理を実現していくために-安全、安心な社会づくりに必要な自然科学と社会科学―」 塩沢文朗、“L&T (Low and Technology)” No.36, 2017.7, 民事法研究会)で記している。
- 注-4)
- 有害性の各側面の例を【図1】中に記したが、これらは、これまでの知見から特定されたものであって、これに尽きるものではない。
- 注-5)
- CLP (Classification, Labelling, and Packaging of substances and mixtures) 基準
- 注-6)
- 水素のキャリアとしてMCH(メチルシクロヘキサン)を用いる場合には、トルエンの利用も不可欠。これは、MCHとトルエンの間での水添反応と脱水素反応を利用して水素を運ぶため。