エネルギーで苦闘、故カーター元大統領を振り返る


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ジミー・カーター大統領(1924〜2024)
(大統領公式肖像1978年、Wikipediaより)

エネルギーに強い関心示すトランプ大統領

 ドナルド・トランプ氏が2025年1月20日に米国大統領に就任した。就任演説ではエネルギー・環境問題への言及が、意外にも多かった。オバマ政権から続く「グリーン・ニューディール」を終わらせ、足元にある「黄金の液体」、つまり石油などの化石燃料を活用して、エネルギー価格を下げ、進行するインフレを終わらせるという。
 世界最強の軍事大国の指導者でも、国民の要求に行動は左右される。今の米国民の関心はインフレなのだろう。化石燃料の大量供給でエネルギー価格を下げることは、気候変動への悪影響を考えなければ合理的選択だ(もっとも米国だけの化石燃料の供給でエネルギー価格が下がるかは不透明だが)。

 トランプ政権の分析は多くの人が行うだろう。そのために1977年1月から1981年1月まで、同じようにインフレ、エネルギー問題に向き合い昨年12月に100歳で亡くなった、ジミー・カーター大統領の業績をまとめてみたい。実は、彼のエネルギー・原子力政策は、日本に今でも影響を与えている。
 カーター氏の国葬が1月9日に行われた。ワシントンで行われた国葬では多くの市民が集まり、メディアも彼を好意的に哀悼した。カーター氏は米民主党の中道派だ。評価が低迷したバイデン前政権を批判するため、国民の哀悼が強まったのかもしれない。
 1976年にウォーターゲート事件の余波が続くアメリカで、「国民に決してうそはつかない」と約束して当選。1977年に第39代大統領に就任した。

原子力事故に2回深く関わる

 カーター氏は1946年に海軍兵学校を卒業した後で、ニューヨーク州のユニオン大学大学院で原子力物理と原子炉工学を専攻した。その後に、原子力潜水艦の開発に従事した。1952年にカナダのチョークリバー原子力研究所で放射能漏れの重大事故が発生した際に、修理・解体作業に参加し、その活動で評価を得たという。その際に彼は高レベルの放射線を浴びた。(アトランティック・ジャーナル2025年1月2日記事「Jimmy Carter helped avert nuclear disaster as young naval officer」)
 カーター氏は1979年3月のスリーマイル島原子力発電所事故にも大統領として向き合った。福島原発事故の後に、この取材をした日本の記者の回顧を聞いたことがある。もちろん日本の記者ではアメリカでの取材に限界があり、当時の米国の報道の紹介だ。

 カーター大統領は、原子力の知識があるにもかかわらず、専門家に全権と対応を委ねた。そして自ら口を出さず、1日30分の報告、そして政府がやるべきことを聞き、その要請に応える、シンプルな管理を続けた。これが事故の拡大と速やかな収束をもたらしたと、この記者は評していた。アメリカの世論、専門家もそのような意見が大勢だったという。
 福島原発事故の際に菅直人首相(当時)は、福島第一原発に直接ヘリで行ったり、東京電力に無意味な干渉をしたり、「俺は原子力に詳しいんだ」と周囲に言って介入したりするなどして、事故への対応を混乱させた。この記者は、カーター大統領のシンプルな対応と菅首相の姿を比べ、「日米政治家の能力の差に悲しくなる。軍人出身だから指揮が二重になって現場が混乱することをカーター氏は警戒したのだろう」と述べていた。筆者も同感だ。

日本が核燃料サイクル政策を放棄した可能性

 またカーター政権は1953年にアイゼンハワー政権の打ち出した「平和のための原子力」(Atoms for Peace)という、西側諸国への民生向け原子力技術の解放という政策を見直した。そして核物質の厳格な管理を行ない、他国にも求めた。また米国で、核兵器の材料になりやすいプルトニウムを使う高速増殖炉の開発と、それを発電用に作る核燃料サイクル政策を1977年に取りやめた。米民主党政権の政策として、今も引き継がれている。
 これは米国の政府と世論が、インドが核不拡散条約(NPT、1970年発効)の枠組み外で核実験(1974年)を行ったことに衝撃を受けたことが影響したとされる。また原子力への知識が深かったカーター大統領が、1970年代の技術で高速炉の商業化は難しいと判断したようだ。
 そしてカーター大統領は同年から世界各国で核開発が進展しないように、IAEA(国際原子力機関)と共に国際核燃料サイクル評価を行なった。これは1977年から1980年にかけて行われた。
 これに日本は影響を受けた。日本は当時から核燃料サイクル政策を採用しており。日本の高速増殖炉の実験炉常陽が1977年から運用されていた。また国内に核燃料の再処理施設の建設を予定していた。

 米国は国として、日本の核燃料サイクル政策を転換させたがっていたようだ。しかし日本政府はそれを突っぱねた。無資源国であった日本の核燃料サイクルへの思い入れがあったためだろう。1970年代は二度のオイルショック、そして燃料禁輸を一因に戦争に突き進み、敗戦した第二次世界大戦の記憶が残り、原子力による自前のエネルギー源への期待があった。
 日米の交渉の結果、日本は米国に核燃料サイクルの実施と、協力を認めさせている。米国の中断した高速炉の研究が一部日本に提供されて、もんじゅにも活用された。
 日本のように核燃料サイクルを、1970年代に認められた自由陣営の国は例外的だ。英仏がその政策を行っているが、両国は1960年代からそれに着手している。韓国がこの実現を目指した。同国は1970年代に隠密に核兵器開発を模索したことがあったために米国は、それを認めなかった。またドイツにもあった核燃料サイクルの構想も消えてしまった。

カーター氏の足跡から見た、政治でのエネルギーの重要性

 1970年代には世界は1973年、1978年の2回のオイルショックに直面し、経済成長が止まり、インフレの時代となった。その対応策の一つとして、カーター政権も再エネ振興を行ったが、米国の石油の大量消費社会を転換はできなかった。およそ半世紀が経過した今でも、米国も世界も化石燃料から脱却できない。この際のカーター政権のテコ入れが、今の米民主党に続く再エネ重視の政策に繋がっている。再エネの賦課金の仕組み(FIT)も米国で当時考案されたが実現されず、欧州で具体的な政策になった。
 その後、カーター大統領は大統領選挙(1980年)に敗れた。イラン革命(1979年)のさなか、テヘランの米国大使館員52名が人質となり、その解放工作が不首尾に終わったため、カーター氏は「弱腰の大統領」として米国民の信頼と支持を失った。彼の真面目さも、政策での柔軟性を欠くことに影響したとの批判がある。ただし退任後の人権外交などで評価が高まり、2002年には一連の活動が世界平和に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞している。

エネルギーに関心がない日本の石破政権

 カーター大統領の政策が日本のエネルギーに与えた影響を振り返ってみた。米国のエネルギー問題、特に原子力での存在感の大きさがわかる。そして日本は米国に追随するだけではない選択をした。この交渉の結果、日本は得た核燃料サイクル政策の継続が可能になった。その国際的な地位も大切にしたい。

 そしてカーター大統領の冥福を祈り、その業績を讃えながら、エネルギーと国の在り方も考えてみたい。米大統領にとってエネルギー政策は重要な職務だ。トランプ新政権でも、大統領自らが、インフレの時代に熱く語っている。ところが日本では、少数与党で右往左往する石破茂首相から、エネルギー・気候変動政策をめぐる国民への提案が出てこない。少し不安を感じてしまう。