「安全」と「安心」は別物


環太平洋大学客員教授、元中日・東京新聞記者、経済広報センター常務理事・国内広報部長(産業教育で文部科学大臣賞を受賞)

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昔の記憶が消えない

 世の中には、当事者が「安全」だと主張していても、社会になかなか「安心」だと受け入れてもらえないものがある。これは何も原子力発電所のトリチウムの海洋放出だけでない。このように正しい理解が進まない時、経営トップは、得てして「広報が足りない。正しい理解促進を」と命じがちなのだが、ここで強調しておきたいのは、安全=安心ではないということだ。一度信頼を失ってしまうと、それを取り戻すのには時間が掛かる。私も昔、ニューヨークは危険だと報道などで思っていた。ところが、実際に五番街など大きな通りを歩いていると、そうでもないと思うようになった。このように認識を改める、新たな経験、経験の上書きを重ねていくことが必要だ。

安全だけど不安

 何年か前、一般の人たちを案内して、石油工場を見学したことがある。その時、参加者から「タンクの外壁がさびているけど、石油が漏れたりしないか」との質問が出た。近くを通るたびに、不安だったというのである。これに対し、石油会社の担当者は、「何の問題もありません」と、そっけない回答だった。安全に全く問題がなくても、近隣住民は視覚的にずうっと不安だったわけだ。

印象から受ける不安

 それから飛行機。もちろん安全な乗り物である。一年間に航空事故で亡くなる方は、自動車事故で犠牲になる人数に比べ遥かに少ない。客観的にはそうなのであるが、航空機は一度事故が起こると、一度に多くの犠牲者が出て、大きく報道され、怖い印象が残る。
 安心とは言うまでもなく受け手の気持ち・感情。ハラスメントと同様、発信者=当事者が何と思い、発言しようとそれは関係ない。受け手が嫌だ、ダメだと思えばダメなのである。
 飛行機の翼がしなっているのを見るだけで不安に思う人もいる。乗り物、食べ物、住宅、原子力発電所など特に命に関わるものは、当事者が想定していないところで不安要因がある。

何か隠しているのではないか、専門的すぎてよくわからない

 当事者が信用されていないと尚更だ。当事者が客観的に数字などを用い冷静に説明しても、そんなはずがない、何か隠しているのではないか、と、これまでの態度、発言から思われてしまうケース。また、専門的すぎて実際のところがよく分からないケースなどがある。トリチウムも、当事者が言っていることが信用されていない面もあろう。

報道で煽られる

 報道で、例えば、台風の被害状況を見ていると、最も被害が激しい場所がクローズアップされて映し出されている。ところが、実際に出かけてみると、被害が大きい場所はごく一部で、報道ほどではないこともある。また、かつて異物混入の報道が続いた時期がある。食べ物を口にするのも怖くなるくらい、連日、いろいろな食品の異物混入が報道されたが、これもマスコミ各社が競って報道したためで、関係者によると、その時期だけ異物混入がとりたてて多かったわけではないという。電力会社や原子力も、たしかに不祥事を起こす当事者はよくないのは当然だが、マスコミ各社は競って電力会社の不祥事を大きく扱っている。マスコミの電力叩きのキャンペーンで大きく報道されている面もある。

表現で怖くなる

 言い方の問題もある。何か冷たい表現に聞こえる。電力会社が3.11以降に言い出した「リスクのないものはない」。これは飛行機を例にすると、飛行機が気流の影響で揺れ始めた時に、客室乗務員が「どんなに揺れましても飛行には問題がありませんので、ご安心ください」とアナウンスする。そして、実際に目的地に無事に着陸する。こうした経験が積み重なり、このアナウンスは信頼されていく。これが、もし、揺れる機内でCAが「飛行機は安全な乗り物ですが、リスクのないものはありません」とアナウンスしたらどうだろう。表現ひとつで急に怖くなってしまう。医者の一言で患者は不安になったり安心したりするのと同じだろう。理屈だけでなく、どう表現するかで、安心は生まれる。

原子力発電

 そして、原子力発電所。3.11前にも原子力発電所での事故はあった。その会社は「原子力発電所での事故であるが、原子力発電事故でない」と説明した。「原子力発電そのものにかかわる一次系系統の事故でない。二次系統の事故だ」との説明だった。だから安全=安心というのはあくまで業界人の発想だ。しかし、これは飛行機の例で言えば、「離陸の際に機内が水蒸気で真っ白になりますが、これは空調設備が壊れているためで飛行には問題ありません。また、座席のねじが緩く、トイレが故障し、席上の画面が故障して視聴できませんが、飛行には問題ございません」といっているようなもの。このような二次系統の整備ができてなくて、本当に一次系統は大丈夫なものなのか」と不安になるだろう。

「安全・安心」はワンパッケージではない

 世の中では、しばしば「安心・安全な街づくり」「安心・安全な食品づくり」と、安心と安全が、ひとくくりにされる。しかし、本当は決してワンパッケージではないのである。「安全なのだから、安心と思われて当たり前」ではない。「安全」に加え、社会へのさらなる配慮がないと「安心」してもらえないのである。