COP25雑感


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 経団連21世紀政策研究所の仕事でCOP25に参加してきた。これでCOP参加は15回目になる。しかし違和感というかある種の居心地の悪さは相変わらずで、しかもその度合いが年々増しているというのが率直な感想だ。以下、雑感風にその理由を述べる。


出典:IISD/ENB

1.5℃目標、2050年カーボンニュートラルがデファクトスタンダード化

 思い起こせば2015年にパリ協定が採択された際、現実的なプレッジ&レビューに基づく全員参加の枠組みができたと喜んだものだったが、これは早計であった。我々がボトムアップの枠組みの誕生を寿いでいる一方で環境NGOや島嶼国は2度目標に加え、1.5度目標がパリ協定に書き込まれたことに快哉を叫んでいた。今、COPで起きていることは、この温度目標を絶対視し、現実を無理やりそちらに合わせようという動きである。パリ協定はトップダウンの温度目標とボトムアップのプレッジ&レビューのハイブリッドであるが、ボトムアップのプレッジがトップダウンの温度目標への適合を強いられるようになれば、ボトムアップの根幹であるプラグマティズムが失われることになる。
 更に違和感を感ずるのは現実から乖離したスローガンである。パリ協定の規定は産業革命以後の温度上昇を1.5〜2度に抑え、このため今世紀後半のできるだけ早い時期にカーボンニュートラルを目指そうというものである。パリ協定に先立つG7エルマウサミットでは欧州諸国の強い主張により、2度目標を念頭に2050年に世界全体の排出量の40ー70%削減を目指すとの文言が盛り込まれていた。欧州諸国はこれをテコにパリ協定交渉でも同様の数値目標を協定に書き込むことを主張したが、途上国の猛反発を受けて現在の表現に落ち着いた経緯がある。そのわずか4年後、しかもパリ協定締結後も温室効果ガス排出は増え続けているにもかかわらず、COPの場では1.5度、2050年カーボンニュートラルがデファクトスタンダードになりつつある。前に設定した目標(2度)の達成が全くおぼつかない状況なのに、それよりも厳しい目標(1.5度)を設定するというのはどう考えても現実的ではない。
 こうした動きを主導しているのは前々から高い野心を求める島嶼国と環境政党が政治的影響力を強めている欧州であるが、それに呼応してグテーレス国連事務総長自身が旗を振っているのもいかがなものか。彼は開会式の場で1.5度目標の追求、2050年カーボンニュートラル、NDCの引き上げを締約国に強く呼びかけた。3年以上に及ぶ交渉を経てまとまったパリ協定の文言を書き換えるような発言を国連事務総長が行うことがはたして適切なのか。更に彼は多くの途上国で基幹電源となっている石炭を「石炭中毒」という表現で切り捨てた。石炭切捨ての発想は温暖化防止という一つの価値観に立脚するものであり、安価なエネルギーへのアクセス、エネルギー安全保障と言う発想が皆無である。17分野のSDGsに象徴されるように途上国のかかえる課題は温暖化だけではない。グテーレス事務総長の発言を聞いて、事務総長失格ではないかと思った。事実、グテーレス事務総長のステートメントに対する途上国サイドからの痛烈な批判もある注1)

スローガン先行の環境原理主義と化石賞

 しかしCOPでは威勢の良いスローガン(1.5度、2050年カーボンニュートラル、NDC引き上げ、脱石炭等)がもてはやされる。現実的視点からそれに疑問を呈しようものなら、「異端者」として白眼視される「空気」が蔓延している。COPには国際枠組構築のための政府間交渉の側面と、温暖化防止という「教義」を信奉する人々の宗教祭典的な側面がある。筆者がポスト京都の枠組交渉に参加しているときは前者の側面が色濃かったし、それはパリ協定の策定交渉、それに伴う詳細ルール交渉についても同様である。しかしパリ協定の詳細ルール交渉が市場メカニズムをのぞいてほぼ終了したことから、今後のCOPは温暖化防止教の一大祭典の色彩を強め、各国が「野心的な目標」を競う美人コンテスト化するだろう。折しもグレタ・トウーンベリという「巫女」も登場している。こうしたCOPで「宗教警察」的役割を果たすのが環境NGOであり、彼らの目から見て「異端」と思われる国々を「公開処刑」する場が化石賞である。日本のCOP25期間中に二度受賞し、メディアがそれを大仰に書きたてた。
 化石賞については、アゴラGEPRに小文を載せたのでそちらご覧いただきたいが、国際環境NGOが単一の価値観(温暖化防止)のみに立脚した選考基準と、ダブルスタンダード(最大石炭消費国、石炭火力輸出国の中国は受賞せず)で選ぶものなので、筆者は何ら重きを置いていない。COP16で京都議定書第2約束期間に決して参加しないと表明したときは1位から3位までぶち抜きで化石賞を受賞したが、全く気にならなかった。グーグルトレンドでFossil of the Day Award という言葉と化石賞という言葉を比較すると後者のチェック回数が圧倒的に高いことがわかる。要するに化石賞を有難がっているのは日本のメディアくらいであり、だからこそ国際環境NGOも日本を狙い撃ちにするのである。


出典:IISD/ENB

COPの世界と現実世界は違う

 今年の議長国の英国は「COP26を野心COPにする」と述べている。原発の再稼動が足踏みをしている状況で26%目標を2020年時点で引き上げることが非現実的なことは明らかだが、COP25での受けを狙ってメディアやNGOから「高効率石炭火力技術の輸出をやめよう」とか「欧州にならって2050年ゼロエミッションを表明しよう」といった議論が出てくるだろう。そして決まり文句は「世界の潮流に乗り遅れるな」である。しかし彼らの語る「世界」は「COPの世界」に過ぎない。現実世界は温暖化防止だけでは動かない。COP25期間中に会ったインド産業連盟(CII)の専門家は「インドには絶対貧困線以下で暮らしている人が数億人おり、生活レベルが上がれば石炭、石油、ガスの消費は増大する。再エネを大量に導入しているが、エネルギー需要全体が急増しているため、石炭消費の絶対量は減少しない。石油、ガスの輸入増大はセキュリティ上の懸念があり、再エネ100%はあり得ない。発電部門の少なくとも30~40%は石炭であり続ける。石炭火力の多くは老朽化しており、これを高効率のものにリプレースしなければふるい石炭火力が使われ続けるだけだ」と述べていた。昨年末に来日したインドネシアのエネルギー鉱物資源大臣は「石炭火力は価格競争力があり、エネルギー源が思っているよりも早く(再生可能エネルギーなどへ)移行することはない。今後も国内でも石炭を利用する。どの国も産業育成のためあらゆる資源を利用して発展を遂げた。インドネシアにもそれを認めてほしい」と明言している注2)
 日本はこうしたエネルギーの現実を見据え、技術を主軸としたプラグティックな対応を内外で貫くべきである。COPの宗教祭典化、美人コンテスト化は数値目標を金科玉条とする京都議定書型マインドセットへの先祖返りを意味するものであり、プラグマティズムは退嬰的と批判されがちである。しかしCOPの場でいかに善男善女が念仏をとなえてもエネルギーの現実が変わるわけではない。スローガン頼み、お題目頼みの温暖化政策はいずれ現実に裏切られることとなる。京都会議のときに日本が唱えたプレッジ&レビューが京都議定書という大きな回り道を経てようやくパリ協定として結実したように、いずれは目標数値よりも技術を重視する日本のアプローチが王道であることが理解されるときがくる。そのときの受けを狙って背伸びした数値目標をかかげ、その実現のために国富、国力を毀損するような愚を繰り返すことだけはしないでほしいものだ。

注1)
https://twnetwork.org/climate-change/carbon-neutral-target-all-2050-disregards-equity-and-climate-justice
注2)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53570250Z11C19A2FF2000/