第4話「『核の番人』としてのIAEA」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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イランの核問題とIAEA

 ウィーンの旧市街にパレ・コーブルク(Palais Coburg)と呼ばれる、瀟洒な建物がある。旧市街の中心にある聖ステファン大聖堂や、モーツァルトが「フィガロの結婚」を作曲した頃に住んでいた「モーツァルトハウス」にほど近い。当時の所有者のオーストリア帝国軍人でドイツ系貴族の名を冠したこの建物は、ウィーンの旧市街を囲む城壁が取り壊される前の19世紀半ば、城壁の堡塁(Bastei)の上に建てられた。白い柱が林立する特徴的な様式から、「アスパラガス城(Spargelburg)」との異名も持つこの建物は、第2次世界大戦後、様々な変遷を経て、2003年から高級ホテルとして装いを新たにしている。
 7月14日、このパレ・コーブルクを舞台に、連日行われてきた国連安保理常任理事国5ヶ国(米、英、仏、露、中)とドイツ及びEUと、イランとの間の核問題を巡る協議が最終合意に達し、「包括的共同作業計画(JCPOA: Joint Comprehensive Plan of Action)」がとりまとめられた。6月末が期限とされた交渉は大幅にずれ込み、ケリー米国務長官のウィーン滞在は異例の18日間に及んだ(報道によれば、ケリー長官は当地滞在中、上述の聖ステファン大聖堂の日曜ミサやモーツァルトハウスにも足を運んだとされる。)。
 核兵器開発の疑惑がつきまとってきたイランに対しては、これまで国際社会による厳しい制裁が課されてきた。2013年11月から始まった交渉の集大成と言える今回の最終合意は、今後10数年以上にわたり、イランの原子力計画が厳に平和利用に限定されることを国際的な検証によって確保しつつ、イランに対する制裁を解除し、中東地域の安定を図ろうとするものである。7月20日には、この包括的共同作業計画を承認する国連安保理決議2231が採択された。
 今からちょうど200年前の夏は、「ウィーン会議」の最終合意が採択された時期である。前年から延々と続けられ「会議は踊る」とも揶揄されたウィーン会議は、ナポレオンの100日天下やワーテルローの戦いなどの紆余曲折を経ながらも、1815年6月、当時の欧州の国際秩序を形作る最終合意にようやくこぎつけた。今回のイラン核問題の最終合意は、その故事を彷彿とさせるものがあった。

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イラン核問題の協議の場となったパレ・コーブルクの外観。写真は筆者撮影。

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オーストリア国立公文書館所蔵のウィーン会議最終合意の原本。写真出典:©Roland Schlager/dpa

 この日、パレ・コーブルクでは、もう一つの重要な合意が、国際原子力機関(IAEA)とイランとの間で交わされている。これまでのIAEAによる査察で解明しきれなかった、過去のイランによる核兵器開発の可能性に関する問題を解決するため、今年末までの数ヶ月間において双方がとるべき行動を記載したロードマップ合意が、天野之弥IAEA事務局長とサーレヒ・イラン原子力庁長官との間で署名された。このロードマップ合意に基づくIAEAによるイランに対する査察の評価が、今後のイラン核問題の最終合意の実施の行方を左右すると言っても過言ではない。また、包括的共同作業計画において、IAEAは今後長期にわたり、イランの核関連活動に対する相当規模の査察を行うという、極めて重要な役割を担うことになる。
 8月25日に開催されたIAEA特別理事会では、包括的共同作業計画に基づきIAEAが一連の査察・検証活動を行っていくことについての新たなマンデートが承認された。
 このイランの核問題を巡る動きについては、今後の展開をみつつ、改めて紹介することとしたい。

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パレ・コーブルクで「ロードマップ合意」に署名する
天野事務局長(左)とサーレヒ原子力庁長官(右)。
写真出典:IAEA/Calma

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8月25日に開催されたIAEA特別理事会。写真出典:IAEA/Calma

核の番人としてのIAEAのあゆみ

 イランの核問題への対応に代表されるような、各国の原子力関連施設に対し査察(inspection)を行い、原子力の軍事転用を防止する、いわゆる「保障措置(Safeguards)」の実施はIAEAの中核的な役割として認識され、「核の番人」としてのIAEAのイメージは長く定着してきた。
 第2話でも述べたとおり、「原子力の平和的利用」という言葉自体、軍事利用から始まった原子力の歴史の特殊性に由来する。原子力の平和的利用は自然に実現できる類いのものではなく、それを確保するための国際社会のたゆまぬ取り組みが欠かせない。この点については、原子力に関わる全ての関係者が十分に認識する必要があろう。
 IAEAの核の番人としての役割は一朝一夕に出来上がったものではない。その時々の国際情勢の影響を受けながら、時代とともに変遷を遂げ、徐々に定着してきたものである。
 IAEAの保障措置の権限は、IAEA憲章にその根拠をおく(憲章第3条A.5)。しかしながら、1957年の発足からしばらくの間は、IAEAの保障措置体制の立ち上げは必ずしも順調ではなかった。東西冷戦期における相互不信の中、両陣営とも、双方の関係者が同居する国際機関であるIAEAが、自国の原子力施設に査察を行うことには抵抗感があったためである。1958年の米国とユーラトムによる原子力協力合意では、IAEAではなく、ユーラトムによる自己査察で代替する形がとられた。これに反発したソ連も、東側陣営の国々の原子力施設に対するIAEAの査察を認めず、IAEAにおける保障措置部局の設置にも反対する有様であった。この結果、1959年にIAEAの保障措置をアドホックな形で最初に受け入れることになったのは、日本の原子力施設(カナダから提供されたウランによる研究炉)であった。その後しばらくの間は、日本や豪州、非ユーラトムの欧州諸国、一部途上国などにおける保障措置が細々と続けられ、1961年になってようやく、小規模の原子炉を対象とした保障措置システム(IAEAの関連文書(INFCIRC/26)番号をとって「26型」と呼ばれる)が導入された。
 こうした状況は、1963年にソ連がIAEAによる保障措置の拡充に方針を転換することで変わることになる。ソ連の方針転換の背景には、前年のキューバ危機後のデタントの流れや、中ソ対立の後、1964年に中国の核実験を許した教訓、西ドイツ(当時)にIAEA保障措置を受け入れさせるための反転攻勢、などが指摘されている。いずれにせよ、その後、米ソとも原子力協力を行う自国陣営の国々にIAEA保障措置の受け入れを求める方向に舵を切ることになった。核兵器のこれ以上の拡散を防止するという一点において米ソの利害は一致しており、それがIAEAによる保障措置体制の強化する推進力になったといえる。
 この流れの中で、1965年、これまでのシステムを拡充する新たな保障措置システム(IAEAの関連文書番号(INFCIRC/66)をとって「66型」と呼ばれる)が導入され、対象施設も、全ての規模の原子炉に加え、再処理施設、燃料製造施設に順次、拡充された。この方式においてIAEAと各国との間で結ぶ保障措置協定は、個別に査察対象施設を特定するため、「個別的保障措置協定(Item -specific Safeguards Agreements)」とよばれる。このタイプの協定は、現在も、NPT非締約国であるインド、パキスタン、イスラエルとの間で用いられている。

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NPTとIAEA

 こうしたIAEAによる保障措置体制の充実の流れは、核兵器不拡散条約(NPT)の採択、発効により一層強化されることになる。
 1970年に発効したNPTは、全ての非核兵器国のNPT締約国に対し、IAEAとの間で保障措置協定を結ぶことを義務づけている(第3条)。これにより、IAEAの保障措置の役割には、一層の国際的普遍性が与えられることになった。翌1971年には、NPTを踏まえて改訂された、新たな保障措置システム(IAEAの関連文書番号(INFCIRC/153)をとって、「153型」とよばれる)が導入された。これは、当該国における「全ての」平和利用の核関連施設における、「全ての」核物質が対象とされることから、「包括的保障措置協定(Comprehensive Safeguards Agreements)」とよばれる。現在、日本を含む174ヶ国が、この包括的保障措置協定をIAEAと結んでいる。
 このほか、NPTにおける核兵器国5ヶ国(米、英、仏、露、中)は、一部の民生原子力施設を対象にした「自発的協定(Voluntary Offer Agreements)」をIAEAと結んでいる。したがって、前述の「個別的保障措置協定」、「包括的保障措置協定」とあわせ、現在あわせて182ヶ国による、3つのタイプの保障措置協定が並存している状況にある。

冷戦後の保障措置:イラク、北朝鮮の教訓と追加議定書の策定

 冷戦後に発覚したイラクと北朝鮮の核開発疑惑は、IAEAの保障措置システムに重大な課題を突きつけることとなった。
 イラクは、IAEAとの間で包括的保障措置協定を結び、IAEAの査察を受けていた。しかしながら、1991年の湾岸戦争後の国連安保理決議687に基づく現地査察の結果、未申告施設において大規模な核開発計画が進んでいたことが発覚し、同年7月のIAEA理事会では、イラクによる保障措置協定違反が認定された。IAEA理事会において保障措置協定の違反が認定されたのは、1959年に保障措置が開始されて以来、初めてのことである。
 北朝鮮は、1985年のNPT加入後、1992年にIAEAと包括的保障措置協定を結んだものの、未申告の2つの施設に対するIAEAの特別査察を拒否、1993年3月にNPTからの脱退表明の通告を行った。同年4月のIAEA理事会で、北朝鮮も保障措置協定違反が認定されることとなる。米国の説得で北朝鮮のNPT脱退発効は中断されるものの、IAEAの査察に対する妨害は続き、1994年6月にはIAEAからの脱退通告を行った。緊張が高まる中、カーター元大統領の平壌訪問を契機とする1994年8月の「合意された枠組み(Agreed Framework)」により、朝鮮半島情勢を巡る危機は、一旦回避されることとなる(その後、2000年代に入って以降、北朝鮮が3回にわたる核実験を行い、また2009年にIAEAの査察官を退去させて現在に至っていることは周知のとおりであるが、本稿では立ち入らない。)。
 一方で、かつて核兵器開発を進めていたものの方針を転換し、1991年にNPTに加入、IAEAと包括的保障措置協定を結んで、査察を受け入れた南アフリカのような成功事例もあった。
 こうした経験をもとに、ハンス・ブリクス(Hans Blix)第3代IAEA事務局長の下、IAEAの保障措置システムの更なる強化の検討が1993年より始められ、この見直し作業は、1997年の「追加議定書(Additional Protocol)」雛形の採択に結実した。この追加議定書は、核物質を伴わない原子力関連施設など、保障措置の対象を大幅に拡充し、また短時間の事前通告による査察(補完的アクセス)を導入することで、IAEAによる保障措置をより効率的、効果的に行うことを可能にするものである。現在、IAEAと126ヶ国及び1国際機関(ユーラトム)との間で追加議定書が締結されており、ほか20ヶ国が署名(ただし未締結)の段階である。
 冒頭のイラン核問題の関連では、イランは追加議定書の署名・未締結20ヶ国に含まれており、包括的共同作業計画でも、イランによる追加議定書の実施が重要な柱とされている。

近年の保障措置の課題:効率化の取り組み

 原子力発電の普及をはじめとする、原子力の平和利用国の増大に伴い、IAEAの保障措置業務も拡大し、限られた人的、資金的リソースの中で、如何に効率的、効果的に保障措置を行うかが大きな課題となっている。
 2004年から導入された、「統合保障措置アプローチ(Integrated Safeguards Approach)」と呼ばれる手法は、上述の包括的保障措置協定及び追加議定書をIAEAと結んでいる国の中で、一定の条件を満たした国に対する査察を軽減するアプローチである。すなわち、「申告された核物質の転用が無く」、かつ「未申告の核物質及び原子力活動がない」との結論(「拡大結論(Broader Conclusion)」と呼ばれる)が導かれた国に対しては、通常査察の負担を軽減するというものである。いわば、運転免許証において無事故・無違反の優良ドライバーに有効期限の延長などの優遇措置を与えることで、交通安全行政コストを軽減するやり方に似ているといえる。
 毎年6月のIAEA定例理事会では、過去1年間のIAEAの保障措置の実施報告(SIR: Safeguards Implementation Report)が事務局から提出され、そこで各国に対する査察結果を踏まえた評価が示される。これは毎年更新される。本年6月の報告では、日本を含む65ヶ国がこの「拡大結論」が得られたことが報告された。
 この他にも、個別施設よりも対象国全体をとらえて効率的な保障措置を考えていく、「国レベル概念(SLC: State Level Concept)」という新たなアプローチの導入や、ITインフラ投資による業務の一層の効率化など、様々な取り組みがなされている。

「核不拡散はNPTの要」、そして「核の番人IAEAは核不拡散の要」

 「核軍縮(nuclear disarmament)」、「核不拡散(nuclear non-proliferation)」、「原子力の平和的利用(peaceful uses of nuclear energy)」は、NPTの3本柱と言われる。
 本年4~5月にニューヨークで開催されたNPT運用検討会議でも、おおむねこの3つの分野に即した形で、3つの主要委員会が組織され、最終成果文書の作成に向けた交渉が行われた(今回のNPT運用検討会議が、中東非大量破壊兵器地帯設置のための国際会議を巡る対立により、最終成果文書の不採択という結果に終わったことは周知の通りである。)。
 この中で、日本で最も注目されるのは「核軍縮」であろう。これは、広島・長崎における戦争被爆の惨禍という歴史に鑑みれば当然のことである。
 もっとも、NPTは、あくまで「核兵器の不拡散に関する条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)」であって、「核軍縮に関する条約」でも、「原子力の平和的利用に関する条約」でもない。その名が示す通り、NPTは本来、核兵器の不拡散を目的とするものである。NPT策定の推進力となったのは、米ソを中心とした核兵器国における、これ以上の核兵器の拡散を防止するとの共通利害である。「核軍縮」に関する核兵器国を含む全ての締約国による交渉義務(第6条)と「原子力の平和的利用」に関する全ての国の奪い得ない権利としての認知(第4条)という2つの要素は、世界の国々を核兵器国と非核兵器国に区分し、後者に非核兵器国としての法的義務を課すという、特殊な構造をもつNPTを各国に受け入れさせる交渉過程において、いわば「グランド・バーゲン」として盛り込まれたものである。
 したがって、「核不拡散」こそは、NPTの要であり、その強化なしに「核軍縮」や「原子力の平和的利用」を前進させることは難しい。(こうしたNPTの構造については、特に「核軍縮」を重視する立場からみれば、NPTの限界と映るかも知れない。現にそうした議論もあるが、本稿では立ち入らない。)
 また、前述の通り、NPTの核不拡散に関する規定では、NPT以前から保障措置を行ってきたIAEAの役割が明示的に位置づけられた。IAEAの保障措置が冷戦期の時々の国際政治力学に翻弄されつつも、核不拡散に関する米ソの共通利害のもとで体制が整備されてきた経緯については既に触れた通りである。核不拡散においては、各国の輸出管理レジームや法執行面での国際協力の強化など、様々なアプローチがあるが、IAEAによる保障措置はその要といえよう。
 こうした経緯からすれば、国際社会における目下の核不拡散の最重要課題であるイランの核問題に関する合意が、NPT上の核兵器国でもある国連安保理常任理事国の関与によって成立したこと、その合意の中でIAEAが中心的役割を果たすことになっているのは、いわば自然な流れといえる。
 このような核不拡散を中核としたNPTの構造と、その中でIAEAが中心的役割を果たしていることについてどう考えるべきか。現在のNPTの構造について如何なる評価に立つにせよ、核不拡散の強化と、そのためのIAEAの役割の強化は、「核兵器の無い世界」を目指す上で、十分条件とは言えないにせよ、必要条件とは言えるのではないか。かつての南アフリカの核兵器放棄に至るプロセスはその成功例である。
 また、核不拡散体制の強化は、それ自体、日本の安全保障に直結する課題である。今回のイランの核問題に関する合意は、日本が安全保障上の利害を有する中東地域の安定に深く関わるものである。また、北朝鮮の核問題が日本を含む北東アジアの安全保障環境を左右する問題であることは言うまでもない。
 「核の番人」IAEAは、国際的な核不拡散体制においてのみならず、日本の安全保障にとっても不可欠な役割を果たしているといえるのである。

(*本文中意見にかかる部分は執筆者の個人的見解である。)

【参考資料】

“History of the International Atomic Energy Agency: the First Forty Years” (1997 David Fischer) 保障措置関連部分
http://www-pub.iaea.org/MTCD/publications/PDF/Pub1032_web.pdf
IAEA ウェブサイト(保障措置関連部分)
https://www.iaea.org/safeguards
「NPT 核のグローバル・ガバナンス」(2015 秋山信将編 岩波書店)

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