第4話「『核の番人』としてのIAEA」
加納 雄大
在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使
核の番人としてのIAEAのあゆみ
イランの核問題への対応に代表されるような、各国の原子力関連施設に対し査察(inspection)を行い、原子力の軍事転用を防止する、いわゆる「保障措置(Safeguards)」の実施はIAEAの中核的な役割として認識され、「核の番人」としてのIAEAのイメージは長く定着してきた。
第2話でも述べたとおり、「原子力の平和的利用」という言葉自体、軍事利用から始まった原子力の歴史の特殊性に由来する。原子力の平和的利用は自然に実現できる類いのものではなく、それを確保するための国際社会のたゆまぬ取り組みが欠かせない。この点については、原子力に関わる全ての関係者が十分に認識する必要があろう。
IAEAの核の番人としての役割は一朝一夕に出来上がったものではない。その時々の国際情勢の影響を受けながら、時代とともに変遷を遂げ、徐々に定着してきたものである。
IAEAの保障措置の権限は、IAEA憲章にその根拠をおく(憲章第3条A.5)。しかしながら、1957年の発足からしばらくの間は、IAEAの保障措置体制の立ち上げは必ずしも順調ではなかった。東西冷戦期における相互不信の中、両陣営とも、双方の関係者が同居する国際機関であるIAEAが、自国の原子力施設に査察を行うことには抵抗感があったためである。1958年の米国とユーラトムによる原子力協力合意では、IAEAではなく、ユーラトムによる自己査察で代替する形がとられた。これに反発したソ連も、東側陣営の国々の原子力施設に対するIAEAの査察を認めず、IAEAにおける保障措置部局の設置にも反対する有様であった。この結果、1959年にIAEAの保障措置をアドホックな形で最初に受け入れることになったのは、日本の原子力施設(カナダから提供されたウランによる研究炉)であった。その後しばらくの間は、日本や豪州、非ユーラトムの欧州諸国、一部途上国などにおける保障措置が細々と続けられ、1961年になってようやく、小規模の原子炉を対象とした保障措置システム(IAEAの関連文書(INFCIRC/26)番号をとって「26型」と呼ばれる)が導入された。
こうした状況は、1963年にソ連がIAEAによる保障措置の拡充に方針を転換することで変わることになる。ソ連の方針転換の背景には、前年のキューバ危機後のデタントの流れや、中ソ対立の後、1964年に中国の核実験を許した教訓、西ドイツ(当時)にIAEA保障措置を受け入れさせるための反転攻勢、などが指摘されている。いずれにせよ、その後、米ソとも原子力協力を行う自国陣営の国々にIAEA保障措置の受け入れを求める方向に舵を切ることになった。核兵器のこれ以上の拡散を防止するという一点において米ソの利害は一致しており、それがIAEAによる保障措置体制の強化する推進力になったといえる。
この流れの中で、1965年、これまでのシステムを拡充する新たな保障措置システム(IAEAの関連文書番号(INFCIRC/66)をとって「66型」と呼ばれる)が導入され、対象施設も、全ての規模の原子炉に加え、再処理施設、燃料製造施設に順次、拡充された。この方式においてIAEAと各国との間で結ぶ保障措置協定は、個別に査察対象施設を特定するため、「個別的保障措置協定(Item -specific Safeguards Agreements)」とよばれる。このタイプの協定は、現在も、NPT非締約国であるインド、パキスタン、イスラエルとの間で用いられている。