原発事故の健康影響(その2)
越智 小枝
相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師
(前回は、「原発事故の健康影響(その1)」をご覧ください)
1.避難区域設定による健康被害
原発事故の直後に、政府は様々な避難区域を設けました。代表的なものが、全住民が避難した半径20㎞圏内の警戒区域、住民に屋内退避指示が出た20‐30㎞圏の緊急時避難区域、そして30‐50㎞圏の計画的避難区域です。この中で、最も大きな健康被害を及ぼしたのは、おそらく緊急時避難区域に出された「屋内退避指示」ではないでしょうか。
屋内に避難することで放射線の外部被ばく線量は劇的に下がります。そのように考えれば、これは科学的には妥当な指示であったと言えるでしょう。
しかしこの指示に結果、緊急時避難区域の住民のうち、退去が可能であった人はほぼ全員が一斉に県外に避難しました。その一方で、外から物品を搬入する業者は全て、原発から半径50㎞圏内にスタッフが入ることを禁止しました。会社には社員の安全を守る義務があるので、これはやむを得ない判断であったかもしれません。しかしその結果起きたことは、いわゆる災害弱者、すなわち情報弱者である独居老人、車を持たない人々、および病院入院中の患者とその職員などが、食料もないままに放置されるという事態でした。
事故の後一か月間、南相馬の住民の検死にあたった医師によれば、家の中やすぐ外で、明らかに食べ物も水もないために無くなった、という方が居たとのことです。多くは独居老人や障害者などの弱者でした。
また、当時、スタッフに避難命令が出た、という状況は、本社が県外にある大手マスメディアでも同様でした。当時電気は通じていた原発周辺では、人々はテレビ中継をずっと見ていたそうです。自分たちの窮状がテレビや新聞に報道されない、ということに気づくにつれ、辛うじて地元に留まっていた住民の方も、「浜通りが見捨てられている」という不安感が募りました。
その結果、県外への避難は更に増長され、災害弱者の孤立を増悪させる結果となりました。
この社会的パニックの状況を、誰か個人のせいにすることはできません。ただ、そのようなことがあり得る、ということが広く認識されることは、とても重要なことだと思います。
「今後の原発事故では、避難区域を何㎞にした方がよいでしょうか」
今でも、そのようなご質問を受けることがあります。しかし、実際に福島で起きたことを考えれば、この「XXX㎞」と避難区域を区切ること自体にあまり意味がない、という事が認識できるのではないでしょうか。大切なことは、避難区域の隣接部の物流とインフラを保つことです。
しかし一方で「避難区域の近くで勤務しなさい」と職員に命令する権限のある会社は存在するでしょうか?例えば厨房や清掃、医療系業務は多くの若い女性に支えられています。その多くはご家庭を持っています。差別するわけではありませんが、やはりこの一点だけとっても、男性が圧倒的多数を占める原発作業員とは状況が全く異なるのではないでしょうか。このような方々の善意だけに頼って線量が高い時期の原発周辺に留まり続けることを期待することは、不可能だと思います。これについてはまた病院の被害の項で述べようと思います。
福島県では今、公園や学校などあちこちに放射線のモニタリングポストが設置されています。しかし、それにもかかわらず、
「何μSv/h以上になったら、誰がどの順番で避難すべきか」
という事に関しては何の指示もなされていないのです。この一事をとっても、わたしたちは「原発事故から学んだ」といえる段階にはまだまだ至っていないことが分かります。
目に見えない脅威の影響下でどのようにインフラを保ち、誰から順番に避難させるのか。そこに正解はありません。今後様々な脅威に対する避難計画を策定されている全ての方々に議論を尽くしていただきたい点です。
2.避難行動による健康被害
前項では、避難指示により災害弱者・情報弱者が取り残される結果になったことを示しました。
「では弱者から先に避難させればよいではないか」
そのような意見もあると思います。しかし実際のところ、高齢者などの災害弱者は、避難行動による健康被害に対しても弱者である、という事は認識されなくてはいけません。無計画な避難行動はより多くの死者をも出し得るのです。
例えば国会事故調報告書によれば、福島第一原発から20㎞圏内にあった7病院には850人あまりが入院しており、避難の途中で少なくとも48名が亡くなりました。介護施設入所者まで合わせれば、死者数は60人以上になるとのことです注1)。
また、避難による死亡は避難中に留まりません。2013年に野村らの発表したデータによれば、南相馬市から避難した7つの長期療養型施設では、避難後の患者死亡率が高いところでは3倍以上にも増加した、とのことです注2)。
施設にいるお年寄りは、介護者の手が変わっただけでご飯を食べなくなる方がたくさんいます。食べ物や食べさせ方も、施設のスタッフが長年工夫してきた環境があるのです。その環境が突然変わったら、健康を害するのは当然と言えるかもしれません。
では、このような環境変化に弱い、かつ放射能の影響を受けにくい方はその場に留まれるようにすればよいのでしょうか?逆説の逆説になってしまいますが、この場合は当然、では誰が彼らの介護をし、食事を届けるのか、医療を提供するのか、という問題が生じます。前稿でも述べたように、看護師、介護士は就労年齢の女性によって支えられています。ご家庭もお子さんもあるこれらの方々に強制的に留まるよう命令する権限は誰も持っていないのです。
- 注1)
- 国会事故調 報告書.p357-365
- 注2)
- Nomura S, Gilmour S, Tsubokura M, Yoneoka D, Sugimoto A, et al. (2013)
Mortality Risk amongst Nursing Home Residents Evacuated after the Fukushima
Nuclear Accident: A Retrospective Cohort Study. PLoS ONE 8(3): e60192. doi:
10.1371/journal.pone.0060192
http://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0060192