PM2.5連載企画 スペシャルインタビュー
東京女子医科大学 名誉教授 香川 順氏
「PM2.5問題の今」を聞く
大気汚染と健康影響:PM2.5による健康影響は全身に及び死亡率を高める
松本 真由美
国際環境経済研究所理事、東京大学客員准教授
PM2.5は私たちの体にどのような影響を与えるのだろうか。健康影響の問題が、私たちにとって一番気になることです。これまでの大気汚染と健康影響の歴史をたどりながら、海外でのPM2.5の疫学調査事情など、東京女子医科大学名誉教授・香川 順氏に伺いました。
大気汚染と健康影響の歴史は、工場が立ち並ぶ田舎町で始まった。
――大気汚染の歴史についてまず伺えますか?
香川 順(かがわ・じゅん)氏プロフィール 1962年4月~74年3月慶応義塾大学医学部助手。67年9月~69年9月米国メリーランド州立大学医学部内科学教室肺疾患研究部研究員。73年4月~74年3月北里研究所副部長兼病院呼吸器内科医長。74年4月~84年8月東海大学医学部助教授。75年4月~84年8月東海大学医学部付属病院内科医師兼務。84年9月~2002年3月東京女子医科大学教授。86年5月~93年11月中央公害対策審議会委員。93年11月~2001年2月中央環境審議会特別委員。94年4月~02年3月東京女子医科大学附属第ニ病院在宅医療部教授および内科Ⅰぜんそく外来担当。98年4月~02年3月東京女子医科大学看護学部教授。01年6月~11年6月中央環境審議会専門委員。また1994年にはWHOのディーゼル排出物質および窒素酸化物の各々のHealth CriteriaのTask Groupのメンバーも務めた。02年5月東京女子医科大学名誉教授、現在に至る。 |
香川 順氏(以下敬称略):「大気汚染」とは人為活動によって大気を汚染することで、火山の爆発のような自然発生で起きた場合は、通常は大気汚染とは言いません。発生源は、「固定発生源」と「移動発生源」とに大きく分かれます。固定発生源は発電所や工場などから、移動発生源は自動車などで、大都市の大気汚染は、移動発生源が6~7割を占めます。固定発生源、移動発生源とも燃料や燃焼方法によって汚染の性質が変わります。
歴史的には、9世紀の初め、英国でsea-coals(粉状の瀝青炭)が発掘され、木材に替わって石炭が使われ始めました。1760年代頃から英国で産業革命が起こり、小さな手工業的な作業から機械設備による大工場に集約して、効率よく生産することが主流になり、現在の近代資本主義制度が始まります。これにともないエネルギー源として石炭の消費量は爆発的に増えていきましたが、石炭を燃やすと、煤煙・煤塵、つまり黒い煙や粉塵が、また石炭に含まれる硫黄から硫黄酸化物(SOX)が排出され、建物を汚したり腐食し、また衣服が汚れるといった生活公害が問題になりました。当時は、この煤煙・煤塵とSOXが主な汚染物質として注目されましたが、当然、窒素酸化物(NOX)も排出されています。
――世界で大気汚染による健康影響問題が注目されたのはいつだったのでしょうか?
香川: 1930(昭和5)年12月1日の月曜日から、ベルギーのミューズ渓谷でミューズ川に沿って製鉄工場などが立ち並ぶ田舎町で、「気温逆転」が発生しました。これは、気温は地上から高度が高くなると下がるのが一般ですが、気温逆転が発生すると100mくらいまでは気温が上昇し、それ以上になると気温が低下し始める現象で、これを「気温逆転」といいます。気温逆転が発生すると、逆転層が地域にフタをしたような状態になり、工場などからの排出物質が拡散されず逆転層の下では汚染濃度が上昇していきます。気温逆転は、数日から長い場合は1週間ほど続きます。この田舎町では気温逆転の発生後三日目から多数の人々が呼吸器疾患に罹り、その週があける前に地域住民60人が死亡し、家畜も多数死亡するという事件がありました。
1930年のミューズ渓谷事件で大気汚染が60人の命をうばったにもかかわらず、この殺人スモッグが第二次世界大戦後の1948(昭和23)年にアメリカ・ペンシルバニア州のドノラを襲うまでは、世界の人々は大気汚染が健康に重大な影響を及ぼすことを十分認識していなかったといえます。モノンガヘラ川沿いの盆地のなかに製鉄工場や硫酸製造工場などが林立したドノラの町で、10月26日から月末にかけて気温逆転が発生し、工場から排出される汚染物質濃度が上昇し出しました。当時、この町には約1万4千人住んでいたが、住民の43%が呼吸器症状を訴え、18人が死亡しました。このドノラ事件は、徹底的に調査され、その報告書はスモッグ事件の健康影響に関する古典となっています。この事件では高濃度の大気汚染に曝露された人々の追跡調査をしています。1952年と57年の追跡調査では、曝露を受けた人は受けなかった人に比べて死亡率が高いことがわかりました。しかし、汚染物質濃度が測定されていなかったため、研究としては致命的な欠陥があり、また田舎で発生したためほとんど注目されませんでした。
ロンドンのスモッグ諸事件で大気汚染による健康影響問題が世界的に注目された。
――都市での大気汚染による健康影響は、どこで最初に問題になったのでしょうか?
香川:1952(昭和27)年にロンドン・スモッグ事件が起きました。この年の12月5日から9日まで約1週間、気温逆転が起こり、例年の同じ時期に比べ約4千人も多く死亡(過剰死亡)者が増えました。今まで大気汚染は生活公害でしか認識されていませんでしたが、ロンドン・スモッグ事件で都市でも健康被害が引き起こされることが初めて認識されたのです。過去の記録を遡って調べてみると、1952年ほどではないが過去にもスモッグに関連した過剰死亡がみられ、1952年後にも過剰死亡が発生しています。ロンドンでは過去にコレラやインフルエンザなどの流行で多くの人が死亡していますが、これらの伝染病による死亡者数に匹敵する死亡者数を大気の汚れが引き起こしていることが分かったのです。具体的に述べると、人口百万対の過剰死亡数は、1866年のコレラで426、1918年のインフルエンザで785、1952年のスモッグで445です。 健康な人でも急性気管支炎にかかり、乳幼児や高齢者が急性の呼吸器疾患にかかりました。慢性の心肺疾患患者は病状が悪化し、70歳以上の高齢者や呼吸器や心臓の病気を患う人の死亡率が高くなりました。しかも、先のミューズ渓谷やドノラ事件の主因は工場からの排出物質でしたが、ロンドン事件では大気汚染の約60%が家庭の暖房で使用している石炭燃焼によるもので、かつ大都市で発生し、我々の生活により密接した事件でありました。また、ロンドン市役所の屋上で、浮遊粉塵や二酸化硫黄(SO2)が測定されていたため、これらの大気汚染物質濃度への曝露と死亡率や罹患率などの健康影響との曝露-反応(影響)関係を評価することができたため大気汚染の医学研究を飛躍的に推進させることになったのです。
――ロンドン・スモッグ事件が、大気汚染問題に取り組む大きな契機になったのでしょうか。
香川:そうです。この事件をきっかけに大気汚染による健康影響の研究が世界的に進んでいきました。イギリスではロンドン・スモッグ事件が起こった翌年に「大気清浄法」が発令されて、様々な対策が行われるようになりました。
――その頃、日本はどのような状況でしたか?
香川:1945(昭和20)年に終戦を迎え6~7年後には、日本経済は戦前のレベルに回復しました。しかし、大量の石炭消費により、煤煙・煤塵、SOXの汚染が問題になっていました。ロンドン・スモッグ事件が起きた1952(昭和27)年の数年後から、日本は前例のない高度経済成長の時期を迎え、汚染が深刻化しました。エネルギー源が石炭から石油に移り変わり、四日市地区に一大石油コンビナートが建設され、1958(昭和33)年頃から本格操業が始まり、名古屋の南部地域でも臨界工業地帯が形成されました。このような状況の下で石油消費量が増大し、従来の石炭使用による煤煙・煤塵とSOXに、石油消費に伴うSOXが加わり、SOXによる大気汚染が広域化し、日本各地の大規模工業地帯で大気汚染による健康影響が顕著な問題となってきました。
四日市地域では1961(昭和36)年頃から喘息様症状のいわゆる「四日市喘息」の症状を訴える住民が増えだし、後に日本の大気汚染問題の原点となった四日市公害問題へと進展していきました。1967(昭和42)年には、四大公害訴訟(熊本県の水俣病、富山県のイタイイタイ病、三重県の四日市喘息、新潟県の第二水俣病)の一つである四日市公害に関する訴訟が起きました。5年後の判決で、企業活動によるSOXを含む汚染物質の排出によるものであるとして、企業の責任が明らかにされました。この判決は、当時の三重県立医科大学の吉田克己教授による疫学調査結果に基づいてなされ、疫学的因果関係という言葉が、裁判用語として使用されるようになりました。