COP18で考えたこと


国際環境経済研究所主席研究員、東京大学公共政策大学院特任教授

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 12月1日~9日にかけてドーハのCOP18に参加してきた。私はジェトロロンドン事務所長とは別に、経産省地球温暖化問題特別調査員という、もう一つの肩書きを持っている。2008年から11年まで3年近くにわたって地球温暖化交渉に首席交渉官の一人として参加してきた経験・人脈を踏まえ、引き続き、交渉を手伝えということである。COP18の結果については外務省、経産省、環境省がそれぞれ対外向け資料を作成しているので、ここでは個人的な感想を綴ってみたい。

 第1の感想は「デジャヴ(既視感)」である。全体会合における途上国のインターベンションを聞いていると、自分が首席交渉官であった2008-11年とほとんど何も変わっていない。曰く、先進国は温暖化に歴史的責任を負っているのだから、「共通だが差異のある責任」に応じて率先して厳しい削減義務を負うべき、曰く、途上国の温室効果ガス削減努力はあくまで自主的なもの、曰く、先進国は途上国に対する資金・技術援助の義務を負っているにもかかわらず、その義務を果たしていない等々。メモをとるまでもなく、最初から相手の言うことが予想できてしまう。多年にわたり、膨大なリソースを使い、世界中から締約国が集まってくる国際交渉なのだから、中身において進化があってしかるべきなのだが、温暖化交渉については、同じレコードを擦り切れるまで何度も聴かされているような気がする。

 第2の感想は、「南北対立」である。これは温暖化交渉に特有のものではなく、WTO等でも見られることだが、温暖化交渉の場合、そこに「歴史的責任」とか「公平性」という倫理的、あるいは宗教的価値観が介在するため、より指弾的な主張が幅を利かせることになる。OECD、IEA、APEC、東アジアサミット等で国際交渉に参加した経験があるが、国連温暖化交渉ほど対立的な雰囲気の交渉を見たことがない。国際交渉経験豊富な外務省の方に聞いても、「こんなひどい国際交渉はない」とのことなので、自分の印象もまんざら的外れではないのだろう。考えてみると気候変動枠組み条約や京都議定書ができた1992年、1997年頃は、世界の温室効果ガスの大部分は米国を含む先進国由来のものであり、日、米、EUで相当部分実質的な交渉を行うことができた。換言すれば、中国、インドを含む新興国の温室効果ガス削減努力をどう国際レジームで確保するのか、という問題に直面せずにすんだ。しかし2020年以降の新たな枠組みについては、1992年や1997年で時計の針を止めるのではなく、途上国の排出量が先進国を上回り、中国が世界最大の排出国になったという現実を踏まえたものにせねばならない。まして2050年の長期の議論をする際、1990年代初めに定義された先進国、途上国の二分法で議論するのは愚かとしか言いようがない。しかし、途上国の排出削減が大きな課題になったことが、皮肉なことに、出口のない南北対立を激化させることにもなった。「途上国の排出量は急増しているが、累積排出量で見れば先進国の排出量が大きい」という「歴史的責任」の議論も、そういうコンテクストの中から出てきたものである。