利害関係と「立場」が交錯する風評問題
林 智裕
福島県出身・在住 フリーランスジャーナリスト/ライター
前回までの記事『風評対策の機能不全、発信を弱体化するレトリック』前後編で指摘したように、日本の各専門家らは「風評加害」に対する公的なコミットメントが弱すぎた。
そればかりか、貴重な情報発信や伝達をむしろ弱体化させ、問題の温存・長期化を助長した可能性さえ示唆されている。
科学に背を向けた専門家
しかし、事態はそれだけに留まらない。専門家や学識者の一部には正確な情報発信や伝達を露骨に妨害したり、科学的に明らかな誤りを平然と発信・擁護する動きまでも相次いだ。
今年の4月6日、夏から本格化予定のALPS処理水(以下処理水)の海洋放出に対し《世界平和アピール七人委員会》が大石芳野、小沼通二 池内了、池辺晋一郎、髙村薫、島薗進、酒井啓子諸氏という権威ある学識者たちの連名で『汚染水の海洋放出を強行してはならない』との声明(日本語版と英語版)を発信した注1)。
世界平和アピール七人委員会とは1955年に平凡社社長・下中弥三郎の提唱によって結成された組織で、結成時の委員には下中弥三郎・植村環・茅誠司・上代たの・平塚らいてう・前田多門・湯川秀樹など錚々たる人物が並んでいる。
ただし、この声明には重大な懸念がある。主な理由は以下3点が挙げられる。
- 1.
- 民意と科学を蔑ろにし、当事者が懸念する風評・偏見差別を助長させる
- 2.
- 当事者の健康悪化リスクを実際の放射線被曝以上に高める
- 3.
- 《世界平和》に資する妥当性に欠ける
まず1点目。処理水と「汚染水」は明確に別のものであり、定義も異なる。これを混同させ「汚染水の海洋放出」などと喧伝するのは事実に反した嘘と言える。
処理水海洋放出については科学的安全性と妥当性はすでにIAEAが認め、主要先進国(G7)も支持を表明した。社会にも理解が浸透し、民意は各世論調査では朝日新聞から産経新聞までいずれも賛成が多数を占める注2)。その上でなお、当事者は「汚染」ではなく風評と偏見差別を懸念している状況だ。
ところが、声明は「水とともに体内に入ったトリチウムからのベータ線はDNAを破損させる以上のエネルギーを持っているので、内部被ばくの被害を引き起こす可能性がある」「原発周辺地域で子どもの白血病の発生率が高いとの疫学調査結果もある」と主張する。
もっとも、これは「何度も否定された流言と怪談の蒸し返し」に過ぎない。いずれも量の概念や学術的・科学的検証に堪え得る有意な根拠が無く、陰謀論の類に等しい。同声明にも論拠の具体的出典すら無く、何ら有効な学術的反論の体を成していない注3)。
声明は一方的に『科学的決着がついていない』と強弁し、『私たちが採るべき方策は、科学以外の判断原則に準拠して当面の行動を決めることである』などと非科学を正当化する。『事故炉の剝き出しの核燃料に触れた処理水と通常運転時の排水を、同様に考えることはできない』と宣言し、処理水を『汚染水』と呼ぶ。
以前も指摘したように、「汚染水は何をしようが汚染水」に類した「既知の科学的知見を一方的に拒否し正当に評価しない」態度及び「水源に毒」の喧伝は、それぞれ「特定の性別、人種、国籍、出身地、病歴を理由に正当な評価をしない」差別、関東大震災時の「外国人が井戸に毒を入れた」流言飛語を彷彿とさせる。歴史を顧みれば、類似の構図はハンセン病、公害病など無数に前例があるはずだ。
事実、すでに深刻な「福島差別」は社会に根付いている。環境省の全国調査(2023年)によると、被曝した人の子孫に遺伝的な影響が起こる可能性について質問した場合、可能性が「非常に高い」「高い」と誤解した回答が全体の46.8%にも上った注4)。
東電原発事故直後の2011年4月、宮本勝彬水俣市長(当時)は緊急メッセージを発信した。
『特に懸念しておりますのが、風評被害からの偏見や差別の問題です。水俣病の被害は命や健康を奪われることに止まらず、被害者を含め市民すべてが偏見や差別を受け、物が売れない、人が来ないなどの影響を受けたり、就職を断られる、婚約が解消されるなどの影響を受けたこともあります。言いようのない辛さであります。(中略)放射線は確かに怖いものです。しかし、事実に基づかない偏見差別、非難中傷は、人としてもっと怖く悲しい行動です。(中略)国外からの偏見や差別も一部あるようです。水俣市で起こった悲劇を日本全体が受けかねない状況でもありますので、国外へも正しい情報の提供と国際的な理解を求めていく必要があると思います。水俣病のような悲しい経験を繰り返してはなりません。』注5)
《世界平和七人委員会》は、水俣市からの緊急メッセージをどう受け止めるのか。
深刻な犠牲は、不安と恐怖の煽動こそがもたらした
《世界平和アピール》が科学や民意を一方的に踏み躙り、当事者が最も懸念する被害を助長させるのは何故か。その目的を「住民の健康被害を防ぐための善意」と仮定しても全く言い訳にならない。何故ならば、2つ目の問題点として指摘したように「同委員会の主張こそが放射線以上に当事者の健康リスクを高める」からだ。
声明は「安全性優先原則(予防原則)」を掲げて非科学的主張を正当化するが、実際にはこのような「ゼロリスク志向」こそが健康被害を拡大させてきた現実がある。
東電原発事故における住民の被曝量は、幸いにも極めて低いレベルに抑えられた。国連科学委員会(UNSCEAR)報告書は公衆の健康影響について
『心理的・精神的な影響が最も重要だと考えられる。甲状腺がん、白血病ならびに乳がん発生率が、自然発生率と識別可能なレベルで今後増加することは予想されない。また、がん以外の健康影響(妊娠中の被ばくによる流産、周産期死亡率、先天的な影響、又は認知障害)についても、今後検出可能なレベルで増加することは予想されない。』注6)
としている。
つまり「福島では事故由来の被曝を原因とする健康被害は無かった一方、心理的・精神的な影響に最大の懸念がある」ということだ。実際に、一般的に高い健康不安は心疾患リスクを1.7倍高め注7)、悲観的になると心疾患での死亡リスクが2.2倍になるとの研究もある注8)。
最も参考になるのは同じ大規模原発事故の前例、1986年にチョルノービリ(チェルノブイリ)で発生した原発事故の総括として公表された世界保健機関(WHO)の報告書(2006年)だ。
福島と異なり、チョルノービリでは多くの住民に特異な放射線被曝が発生した。その上でも尚、WHOは同事故について【被災者の集団ストレス関連疾患として、うつ状態、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を含む不安、医学的に説明されない身体症状が、対照群に比較して増えている】【メンタルヘルスへの衝撃は、チョルノービリ原発事故で引き起こされた、最も大きな地域保健の問題である】と結論付けた。
当然、不用意な恐怖と不安の煽動は当事者のメンタルヘルスに深刻なダメージを与える。人々の判断を歪め、人生を左右する重要な選択に干渉することさえある。たとえば文科省に残る事故直後にとられたアンケート資料を見ると、それらが必要以上の避難を促し多くの家族の離別をもたらした生々しい実態が判る注9)。
また、避難や離別の葛藤や選択自体も当事者のメンタルヘルスに更なるダメージをもたらしたことは言うまでもない注10)。
避難先でのトラブル注11)や、子どもがいじめられたケース注12)も相次いだ。
一方で、客観的な事実や科学を用いてこれら煽動や流言に反論すると、特に事故から間もない時期ほど激しい攻撃にさらされた。著者自身も福島で被災した一人でありながら「人殺し」呼ばわりされたり、反社会的勢力の幹部から名指しで「潰す」と脅迫されたことさえある。当時はインターネット上に「御用学者Wiki」などという攻撃対象を共有・拡散させるリストまで出回り、多くの専門家は理不尽な暴力の前に口を噤んだ。一部の学識者や専門家には、むしろ攻撃に加担する者まで現れた。
すでに「御用学者Wiki」は消されているが、数学者の黒木玄氏は「御用学者Wiki」に批判的な立場から当時の記録の一部を自身のHPに残している注13)。
悪影響は事故から12年以上が経過した今も続く。2023年7月、福井新聞や沖縄タイムス、京都新聞などで配偶者を福島に残し子どもと共に大阪へ自主避難した女性の現在を伝える報道があった注14)。
避難後、女性は福島への帰還を望む夫と意見が合わずに離婚。その後に適応障害を発症して住居がゴミ屋敷化し、生活保護に陥ったという。
東電原発事故では、不安煽動によって家庭が破綻した例も珍しくない。著者の友人夫妻にも、パニックに陥った妻が子どもを連れて自主避難を強行した実例がある。後日、避難先へと帰還の説得に向かった友人を待ち受けていたのは「人殺し」呼ばわりの罵声だった。こちらも結局、その後に離婚した。
断言しよう。科学に背を向け「汚染」を喧伝するような無責任な「風評加害」こそが、偏見差別のみならず、無数の当事者を傷付けおびただしい実害を引き起こしてきた最大のリスクファクターだ。事実、福島の震災関連死は2337人(令和5年3月)と、宮城県の931人、岩手県の470人に比べ突出している。さらに、この人数は地震や津波などによる直接死(1607人)を大きく上回っている。当然、死因は被曝が原因ではない。
死者のみならず、避難がもたらした甚大な健康影響も無視できない。福島の地元紙福島民友は2016年時点で『放射線よりも糖尿病 事故後に割合高く』と既に警鐘を鳴らしていた注15)。
日英の研究チームが同年2月に南相馬と相馬両市民を調べた結果、糖尿病や高脂血症を発症する割合が原発事故前より高くなっていた。糖尿病は避難者で約1.6倍に増え、避難していない人でも約1.3倍になったという。さらに、放射線不安から外遊びを制限された子どもの体力・運動能力の低下が指摘されるなど、別の健康問題も浮上している。
福島では地震や津波などの直接的な災害に匹敵するもう一つの災害、「情報災害」が長期にわたり起こり続けていると言える。その被害を誘発する「風評加害」、すなわち流言や煽動にかかわり、社会不安を抑止するどころか拡大させた専門家らには、特にその社会的立場に見合った責任が問われなければならない。
敢えて中国、ロシア、北朝鮮とだけ足並みを揃えるのが《世界平和アピール》か?
3点目、同声明は《世界平和アピール》活動としての妥当性・正当性があまりにも不透明だ。そもそも処理水海洋放出を多くの国は全く問題にしていない。この期に及んで処理水を「汚染」呼ばわりして強硬に反対するのは「中国」「ロシア」「北朝鮮」など特定の国とその影響下にある勢力だけである。
中国は7月に出されたIAEA報告書に猛反発し、日本から輸入する食品に対する極端な検査強化など事実上の禁輸措置に乗り出した。ところが、EUは逆にこのタイミングで日本産食品の原発事故に伴う輸入規制の撤廃を公表している注16)。
中国はASEAN地域フォーラムでも参加国に処理水に対する懸念の共有を呼びかけたものの、中国の強い要求にもかかわらず議長声明に全く盛り込まれなかった注17)。
理由は明確だ。以前の記事で示したように、今や東電原発事故に関連する風評問題の本質は「情報発信の不足」どころか、そもそも事実関係の正誤ですらない。生々しい「利害関係」にある。
つまり、「汚染」の喧伝や科学を無視した反対は情報戦におけるプロパガンダ、あるいは駆け引きでしかない。警察白書にも
『北朝鮮、中国及びロシアは、様々な形で対日有害活動を行っており、警察では、平素からその動向を注視し、情報収集・分析等を行っている』注18)
と記される。
今年の3月には、北朝鮮が韓国国内で福島や処理水へのデマを広める情報工作活動を行っていた実態も韓国公安当局の調査で明らかにされている注19)。
たとえいかなる意図や動機があろうと、同声明は事実上「世界各国が科学的に問題としていないテーマにおいて、現在進行形で侵略戦争やミサイル発射を繰り返す特定勢力の非科学的プロパガンダや情報工作と敢えて足並みを揃えた」状況にある。これが《世界平和》に資する妥当なアピールと言えるだろうか。