風評対策の機能不全、発信を弱体化するレトリック(後編)
林 智裕
福島県出身・在住 フリーランスジャーナリスト/ライター
前回:風評対策の機能不全、発信を弱体化するレトリック(前編)
誰が科学と社会の橋渡しを担うのか
さらに、科学と社会の橋渡しをするべき科学コミュニケーションの専門家も、処理水風評問題に消極的であったと言わざるを得ない。先月、サイエンスコミュニケーターとして知られる東京大学の内田麻理香特任准教授に『東電原発事故関連の「風評加害」に対峙して問題解決してくれる専門家として、誰をどのように頼れば良いのか』『科学コミュニケーションの専門家達が何をしているのか、正直あまり見えない』とSNS上で問いかけた注1)ところ、『以前、処理水について書いたものがこちらになります』と同氏の記事注2)を紹介された。
記事では処理水に関する復興庁の情報発信を『人びとが科学を受容しなかったり、科学について不信を抱いたりするのは、人びとの科学的知識の欠如が原因だから、人びとの科学的知識を増やせば問題は解消するはずだという想定(欠如モデル)』であるとした上で、『科学への不信ではなく、政治や企業への不信だ。(中略)安易な欠如モデル的押しつけで解決しようとするケースには、科学とは関係なく政治で解決すべき問題を抱えているパターンが多い』『科学の範疇ではない問題を、「わかりやすく科学的に説明」したところで、何も解消されるものではない』と批判する。
一方で、欠如モデル批判の先に当然あるべき「ならば具体的にどのように対応すべきか」への言及は見られなかった。内田氏に直接伺ったところ、
『処理水の放射線量を、信頼のできる複数の機関にも測定してもらうなど透明性を高めること』注3)
『煽り系のコミュニケーションをとる人に何かアクションをして黙らせることは無理で、飽きさせる方向を考えます。私だったら、実践としては「耐えて何もしない」という方法をとります。表からは何もしていないように見えるでしょうが、これも実践のひとつだと考えます』注4)
との回答があった。
内田氏の論理には、主に3つの大きな問題がある。
1つは、風評の原因を「人々の不信」であるかのように見做している前提だ。
風評問題が長引く主因が『科学の範疇ではない』のは確かであり、「人々の不信」も当然絡む。しかし、その本質は前稿(6/23)で明らかにしたように「政治闘争」「悪徳商法」「承認欲求」などを動機とした利害関係にこそある。不信の解消など全く望まない「風評加害者」の存在は明白であり、加害者への強力な反撃対抗無くして当事者を被害から護ることなどできない。あるべき態度は、すでに韓国の専門家が示した通りだ。
2つ目は、専門家でありながら被害当事者を救済する具体的提案が無いことだ。内田氏は復興庁の情報発信には批判を加えた一方、その代替案として「処理水の放射線量を第三者に測定してもらう」「煽り系のコミュニケーションに対しては耐えて何もしない」と掲げる。内田氏はこの問題の実態と推移、現状、被害者救済にあまりにも関心が薄いのではないか。
知っての通り、第三者機関による測定などすでに何度も繰り返されてきた。最近ではG7からの支持も得た上、IAEAが持つ複数の研究所のほか、フランス、韓国、スイス、米国の独立した研究施設それぞれでのサンプル分析注5)まで行っている。
その上で、「汚染」呼ばわりを繰り返す勢力を何ら抑止できていない現実がある。
「加害者が飽きるまで耐えて何もしない」に至っては被害者に泣き寝入りを強いて見棄てるだけで、何一つ救いが無い。東電原発事故からすでに12年以上経つにもかかわらず、当事者は未だに一方的かつ理不尽な悪意、風評、偏見差別をぶつけられ続けている。
環境省では先日、2021年と22年に続き3回目となる「被曝した人の子孫に遺伝的な影響が起こる可能性について」質問する全国調査注6)が行われた。その結果、影響が起こる可能性が「非常に高い」「高い」と誤解した回答が全体の46.8%となり、21年の41.2%、22年の40.4%と比較して過去ワーストを記録している。
これが一つひとつの偏見差別を「飽きるまで耐えて放置」し続けた12年後の現実である。「風評加害」の暴力と偏見差別に耐えているのは内田氏ではない。
3つ目は、内田氏らが主張する「欠如モデル批判」理論について、この風評問題の本質を「人々の不信」であるかのように見做す前提での妥当性が疑われることだ。イギリスの科学技術社会論の専門家ブライアン・ウィンらが提唱した「欠如モデル批判」は、しばしばSTS(科学や技術の社会とのかかわりに焦点をあてる学際的な学問分野)・リスクコミュニケーションの専門家達の間で好んで使われてきた注7)。
先述した内田氏の復興庁批判のみならず、たとえば早稲田大学の田中幹人准教授も
『福島の失敗は、混乱する現地の人たちが、科学的な知識が足りないから混乱するのだろう、というある種の決め付けのもとに知識を注ぎ込んだ点』注8)
と主張する。しかし、この問題における妥当性や正当性はどこまで客観的に検証されているのか。
「欠如モデル批判」という反動のレトリック
実際には、内田氏や田中氏の主張を否定し得るデータ注9)も出ている。
昨年末、政府がALPS処理水についてCMなどを用いて重点的な広報を行ったところ、「一般人に一方的に知識を注ぎ込んだ」発信にもかかわらず、9月から12月の僅か3カ月で有意な効果が確認された。当然、大々的な広報が無ければ得られなかった成果だ。
「セシウムさん騒動」注10)の顛末も参考になる。
2011年8月、愛知県東海テレビのローカルワイド番組「ぴーかんテレビ」が岩手県産のお米プレゼント当選者用のテロップに「怪しいお米セシウムさん」「汚染されたお米セシウムさん」などと表記して放送した。
これに対し、岩手県の達増拓也知事は関東大震災を例に出して「大震災や非常事態発生時にはとんでもないデマが飛び交う」と指摘したうえで「マスメディアはデマを沈静化し、(誤った情報による国民の混乱を)防ぐ使命があるはずだ」と矢面に立って猛抗議を行った。抗議の動きは地元JA、岩手県や東北を中心とした多くの住民などにも波及し、東海テレビ社長の謝罪、スポンサー降板、番組の打ち切り、対策本部・検証委員会・再生委員会の設置から検証番組の放送にまで発展した。震災からほどなく日本全国が混乱の中にあった時期、当事者らの猛抗議という形で「一方的かつ迅速に知識を注ぎ込んだ」ことが、誤解の払拭と更なる風評の抑止をもたらしたと言えるだろう。
これらの事例は、『福島の失敗は、「欠如モデルを避けるべき」というある種の決め付けのもとに知識を注ぎ込むことを鈍化・抑制した動きこそ、風評の拡散と温存を助長・泥沼化させてきた』当然の可能性を示唆している。
STSやリスクコミュニケーションの専門家に対しては、東電原発事故において社会から求められた役割を果たさなかったとの批判が少なくない。
『(2014年ごろ)当時の会長さんだった中島秀人さんが自ら、STSは原発事故の時に役に立たなかった、と言っておられました』注11)
『「ろくに行動してなかった」だけではなく、ニセ科学の流布や放射能デマを正当に批判している人達を不当に攻撃したり、自分はそうしなくても不当な攻撃をやめさせようとはしなかった』注12)
などの声まで見られている。
STSへの批判に対し、田中氏は先月
『「批判は良いことだけんど、もうジャパニーズTw(※ツイッターのこと)でのSTS批判は、「チワワに向かって『ぬこ死すべし!』と叫ぶ」ってくらい、わけわからんことになってる。ので皆さんぜひ教科書でも読んで批判してみましょう」と企画してから6年も経つ』注13)
と発信していた。
著者は内田氏に加え田中氏にも『国連科学委員会(UNSCEAR)報告書が「被曝による健康被害は考えられない」とした見解に執拗に異を唱える言説』の実例を提示した上で、解決に繋がる知見と直接的な対応を求めた注14)。
田中氏は、
『「私の」端的な答えとしては、STSも学術としての科学コミュ研究も、一気に問題を解決する「魔法の杖」にはなりえないと考えます』注15)
『前提条件等と絡み合っているのでケースバイケースとしか言いようがなく、ある程度参考にはなれど、まだまだ一般化は困難』注16)
『「どのような立場の相違があり、どのように問題が絡み合っているか」「ある科学的論争はどのような道筋を辿ったのか」等を把握し、眼前の問題対処への参考にできる事例や分析は割とあると思います。』注17)
として、欠如モデル議論の基となったブライアン・ウィン「誤解された誤解」『思想』を提示された注18)。
これらには残念ながら内田氏と同様、当事者を救済するための具体的な提案が無い。そればかりか、提示して対応を求めた実例への言及さえ一切無い。指摘や批判から巧妙に論点を逸らし、「教科書でも読んで」「ウィンを読め」と一方的な理解を求めるこのような対応こそ、田中氏らが批判してきた「欠如モデル」そのものではないのか。
そもそもこちらが対応を求めた実例とは、他ならぬSTS関係者の一人である富山大学の林衛准教授による発信だ注19)。同氏は東電原発事故直後から低線量被曝の危険性を強調する言説を繰り返してきた。本来であれば私のような東電原発事故における一般人被災者に押し付けず、STS内外の専門家から広く批判や検証などがあって然るべきだろう。何故こんなにも沈黙し、他人事なのか。当事者を毅然と護ろうとする韓国の専門家対応と比べ、あまりにも対照的だ。
ドイツ出身の政治経済学者、アルバート・O・ハーシュマン(Albert. O. Hirschman)は、不正・抑圧に対して、それを改革・解消しようとする動きを妨害し、現状維持を促そうとする反動勢力=「反動のレトリック」を以下3つの基本的なテーゼに分けた上で、その詭弁性を明らかにしている(『反動のレトリック』法政大学出版局・1997年)注20)。
- 「逆転テーゼ」(意図に反した結果がもたらされるとの主張)
- 「無益テーゼ」(結局何も変わらず無駄だとの主張)
- 「危険性テーゼ」(得られる成果以上に副作用が大きいので実行するべきではないとの主張)
過度な「欠如モデル批判」による情報発信への抑圧は、副次的、相対的でしかない反動を恐れるあまりに問題の本質や被害者救済から目を逸らし、結果として風評払拭や理解促進に水を差し、当事者を助けるはずの情報発信を妨害・弱体化させる「反動のレトリック」に過ぎなかったのではないか。
「反動のレトリック」が一見正当性があるかのように広まり、対策を見誤らせて解決を遅らせた。本人が自覚的であるか、あるいは善意か否かを問わず、結果として「風評拡大・温存」の口実に利用されて復興を妨害し、現場を苦しめてきた。このような構図もまた、東電原発事故に関連する風評問題が長期化した一因を担ってきたと言えよう。
その背景にある要因は未だほとんど、不自然と言えるほどに言語化されていない。今後さらに、このテーマを深く掘り下げていきたいと思う。