EUが導入する国境調整措置(CBAM)は機能するか(その4)
手塚 宏之
国際環境経済研究所主席研究員、JFEスチール 専門主監(地球環境)
前回:EUが導入する国境調整措置(CBAM)は機能するか(その3)
7.CBAMははたして機能するか?
それでは結局このEUが導入するCBAMは、本当に機能するのだろうか?少なくとも対象品目で最も注目されている鉄鋼を見た場合、おおいに疑問がある、というのが結論なのだが、ここではいくつか考えられる論点を挙げてみよう。
先ず既述の通り、CBAMの調整対象になるEUへの鋼材輸出が多いのはロシア、トルコ、ウクライナであるが、ウクライナ侵攻以降、ロシア鋼材は経済制裁の結果、EUへの輸出はいずれにせよ止まっており、短期的にそれが解除される見通しは立っていない。一方でウクライナの場合、いつになるかは予断を許さないものの、停戦(終戦?)後の経済復興政策の中で、粗鋼生産能力の修復と、従前年間500万トンを超えていたEUへの鋼材輸出の再開は、重要な役割を果たすことになる。欧米西側諸国は停戦後ウクライナに対して、いわゆるマーシャルプランのような強力な経済復興支援策を打ち出すことになるのは必至だが、破壊されたアゾフスタンをはじめとする製鉄所の再建と操業再開、国内外への鋼材出荷の復活を支援する中で、EU向け鋼材についてCBAMを課して抑制するなどという矛盾した政策がとれるのだろうか?一方、ロシアからの輸入が途絶する中、EU市場の鋼材不足を埋められるのは、生産能力を拡大している中国とインドが中心となると思われるが、これらの国々は既にEUのCBAMについて、WTO違反であるとして、報復も辞さない強い反対の立場を表明している。仮に中国がEUのCBAMに対する報復として、EUが中国からの輸入に依存している太陽光パネルやEV向けバッテリーの輸出を規制したり、EUから輸出されるEU製の高級車や航空機などの輸入制限で報復する場合、EUはどう対処することになるのだろうか?
しかしここでEUにとってより深刻な課題は、前回示したEUからの鋼材輸出相手国トップであるアメリカとの関係である。バイデン政権のアメリカは、パリ協定から離脱したトランプ政権時代と打って変わって、気候変動対策に前向きに取り組み始めており、2050年カーボンニュートラル、2030年半減注15) といった、EUと遜色のない削減目標も共有している。従って一見、EUと米国の間では気候変動政策をめぐる貿易摩擦は起きないように思われるのだが、実際にはそうなっていないのである。
バイデン政権が昨年夏に気候変動対策の本命政策として打ち出した「インフレ抑制法(IRA)」では、むこう10年間で3690億ドル(50兆円)もの巨額の資金を投じて、再エネ含む脱炭素電源の普及、EVの普及促進、工業プロセスの脱炭素化などを進める計画になっているのだが、この潤沢な資金は事業者に対する税額控除や補助金としてばらまかれるものであり、炭素価格や排出規制のような抑制的、規制的措置はほとんど想定されていない注16) 。しかもこの巨額の資金の財源は、カーボンプライスによる政府収入に頼るのではなく、富裕層課税強化や最低法人税導入、薬価基準改定による健康保険国庫負担削減といった、温室効果ガス排出とは無関係な分野から調達することになっている。つまりIRA法に基づくバイデン政権の気候変動対策は、カーボンプライスに依拠しない「ポジティブインセンティブ中心の政策」によって実行されようとしているのである注17) 。しかも米国は今や世界最大の天然ガス産出国であり、米国の産業は、国内に張り巡らされたパイプラインを通じて、安価な天然ガスを潤沢に賄うことが出来る。ロシア産天然ガスのパイプライン供給が途絶したEUが、コストが数倍に上る液化天然ガス調達に切り替えることで、長期的なエネルギーコスト上昇が不可避なのと対象的である注18) 。その結果10年後の米国社会は、IRA法で排出削減を進める中で、産業用電気料金もエネルギー価格も、気候変動対策のために大きく上昇することはなく、その結果、鉄鋼やアルミ製品などの生産コストも上昇することは想定されていない。こうなると、長大な国境を接する隣国カナダやメキシコも、一方的に国内のカーボンプライスを高く設定することは不可能となるので、結局北中米地域には、カーボンプライスが実質ゼロないしは低カーボンプライスの経済圏が続く可能性が高いのである。
この事実こそが、EUが今直面している大きな政策課題になってくる。EUのETSとCBAMの組み合わせは、域内にカーボンプライスが高い経済圏をいち早く創出し、域外からの輸入品にも同等のカーボンプライスを課すことでそれを維持していくというシナリオであった。その前提には、同様の政策を他の先進経済圏である北米や、日本を含む東アジアにも促し、EUがそれを率先垂範することでカーボンニュートラルに向けた世界的な市場転換をリードするという、いわば「グリーン成長シナリオ」があったはずであるが、その伴走者であるはずの米国が、IRA法で「高いカーボンプライス」に拠らない気候変動対策を打ち出してきたのである。こうなると欧州と北米という2大先進経済圏が、ハイカーボンプライス経済とローカーボンプライス経済に割れていってしまうことになる。同じ鉄鋼やアルミ製品でも、ETSとCBAMで囲われたEU経済圏の中で取引される鋼材は、必然的に高コストとなり、高価格で取引されることになるが、一方もともと先進国の中でも電気代とエネルギーコストが最も安い上に、IRA法下で企業が高いカーボンプライスを負担しない米国では、鋼材の低コストが維持されることになり、市場価格も低く抑えられることになる。つまり同じ鉄鋼製品が欧州と米州で1物2価の市場に分断されていくことになってしまうのである。これは例として取り上げてきた鉄鋼製品に限ったことではない。アルミやセメントといった他のCBAM対象品目も同様の1物2価になることは当然として、そうした素材を使って最終製品を作る自動車や機械類、あるいはEVに使われるバッテリーやモーターなども、使われる部材のコストが、ハイカーボンプライスのEUでは高くなり、米国に比べて相対的な価格競争力を失っていくことになる。
実際、昨年のIRA法施行以来、同法の、北米域内で生産された製品に限定的に補助金が付与されるという国内製造業促進ルールの後押しもあり、さらにエネルギー危機によるエネルギー価格の格差拡大があり、EUの製造業は雪崩を打って北米市場に生産移転を始めている。このままいけば結局、CBAMがあろうがなかろうが、EUのハイカーボンプライスによって人為的に形成される高価格市場は、世界の中で孤立を始めてしまうのではないだろうか。そうした中で、年間500万トン以上がEUから北中米に輸出されている鋼材の競争力を維持するような、有効に機能するCBAM政策を編み出すのは、EUにとって至難の業ではないのだろうか。
そう考えると結局、EUの政策当局者にとってこの構造的な問題に対処するには、米国に対して、米国内でもEUと同様の高いカーボンプライス政策の導入を求めていくか、あるいは逆にEUの方がハイカーボンプライス政策を軌道修正して、米国のようにカーボンプライスに頼らない補助金政策による気候変動対策に組み替えるか、いずれかのオプションしか残らないのではないだろうか。
しかし米国でトランプ政権と対照的に気候変動問題に前向きに取り組んでいるバイデン政権が、IRA法でカーボンプライシングに拠らない対策を打ち出しているのには、それなりの理由がある。図8は、今年の4月にシカゴ大学エネルギー政策研究所(EPIC)がAP通信と共同で行った世論調査の結果を示している注19) 。この調査によると、米国民のおよそ3分の2(62%)が気候変動対策で毎月1ドル(135円)以上の負担はしたくないとしている。しかもその比率は、2018年に過半数の人が負担を支持していたものから、一貫して低下してきているのである。月に100ドル以上の負担を受け入れるという米国人は5人に1人以下ということで、米国民の間で炭素価格の負担を支持する人は限られているというのである。しかもこの最近の炭素価格支持の低下傾向は、もともと負担に否定的な共和党支持者の比率が減っているのではなく、民主党支持者の間で顕著に減っているという分析が示されている。つまり米国の有権者の間に、高いカーボンプライスによる気候変動対策を受け入れるような政治的土壌は育っていないというのが実態なのである。そうした実態の中で、EU並みのハイカーボンプライス政策により、エネルギー多排出製品のコストを上げるような政策が米国で採用される可能性は当面ないと見るべきだろう。はたしてEUのCBAMとEU-ETSによるハイカーボンプライス政策の行方はどうなるのか?その道は今後も紆余曲折が予見されることから、引き続きフォローしていく必要があるだろう。
- 注15)
- 実際には米国は2030年に2005年比で温室効果ガス排出を50~52%削減するという目標を国連に提出している。
- 注16)
- 規制的な政策を行うには新たな法律の制定が必要となるが、昨年の中間選挙で議会下院の多数派を共和党に奪われ、上院も僅差で多数派を維持するものの、気候変動政策については共和党寄りのウェストバージニア州マンチン上院議員などの存在を考えると、当面新たな規制的法律が成立する見込みはない。
- 注17)
- 「米国で消えたカーボンプライシング」手塚宏之(アゴラ言論プラットフォーム 2022年9月24日)
https://agora-web.jp/archives/220922012408.html
- 注18)
- 皮肉なことに、そのEUが輸入することになる液化天然ガス(LNG)を輸出拡大して稼ぐのが米国ということになる。
- 注19)
- シカゴ大学エネルギー政策研究所(EPIC)が2023年4月に発表した世論調査の結果による:
https://epic.uchicago.edu/insights/americans-views-on-climate-change-and-policy-in-10-charts/