首相秘書官の“オフレコ破り”報道に見る「言論空間の排他性」
小島 正美
科学ジャーナリスト/メディアチェック集団「食品安全情報ネットワーク」共同代表
首相秘書官の「同性婚」発言をめぐって、メディアが熱く沸騰したが、この問題の根っこに潜む「言論空間の排他性」に危うさを感じるのは私だけだろうか。この問題は、一見、気候変動やエネルギー問題とは無関係に見えるが、実は大いに関係がある。多様性を声高に主張する正義感あふれる言論が、逆に多様性を喪失させるという「多様性のパラドクス」が見られるからだ。
「内面の心」だけで断罪してよいのか
これまでに新聞で報道されているように、2月3日深夜、荒井首相秘書官は記者約10人の取材に応じ、オフレコ(記事にしない)を前提に「隣に住んでいるとちょっと嫌だ。同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」などとしゃべった。正直な気持ち(内面的な思想)を吐露してしまったのだろう。しかし、同時に「人権はもちろん尊重する」とも述べている。
ほとんどの報道は「差別的な考えをもった人が政権の中枢にいることは問題だ」と批判的に報じた。この種のオフレコ前提の取材はほぼ日常化しており、取材相手が記者と一対一で向き合って本音を吐くのとは違い、今回は緩いオフレコであり、オフレコ破りとは言えないという見方もあるようだが、私は「人を裁くことができるのは、どういう場合か」という視点に立って考えたい。
どんな人でも、他人とは異なる偏見や価値観、世界観をわずかながらも持っているはずだ。しかし、そうした偏見を心の中で持っているという理由だけで、その人を断罪したとすれば、それは人の心まで監視する秘密警察に通じる恐るべき社会である。
つまり、人を断罪するかどうかは、その人が他人とは異なる思想、価値観をもっているかどうかではなく、その思想を実際に実行して、差別的な行為を働いたのであれば、世論から断罪されてもやむを得ない。しかし、どんな人でも、心の中は自由のはずだ。私自身は同性婚に賛成だし、私の隣に同性婚の人が住んでいても何の抵抗感もないが、伝統的なジェンダー観をもっている人の心の中まで踏み込む気にはなれない。どの人もみな心の中の自由は保障されているのが自由民主主義社会だからだ。
言論空間は劇的に変わる
10年前にニュージーランド議会が同性婚を認める法律案を可決したとき、国会議員のモーリス・ウイリアムン氏は「同性婚を認めても、そのほかの人には何の影響もないし、社会も以前と同様に続きます」と述べ、当事者以外は何も変わらないことを強調し、喝采を受けたことが今回も日本の新聞やテレビで報道されていた。
確かに、同性婚が私の身の回りに何組かあったところで、私の生活が変わることはない。同性婚が成立すれば、同性婚の人たちの幸せだけが高まり、そのほか全員は何の犠牲も被っていないという状態はまさに経済学でいうところの「パレートの改善」である。
しかし、今回の報道を見ていて気付いたのだが、言論空間は劇的に変わる。「同性婚を認めることが正義であり、人の倫理として正しい」という物言いがメディアを支配し、異なる見方が排除される世界が出現するのだ。言い換えると、伝統的な家族観やジェンダー意識を持った人たちは、自由にモノが言えなくなる社会に変わる。それどころか、うっかり友達同士で「私は同性婚が嫌だな」と言おうものなら、SNSなどでたたかれる事態が予想される。
考え過ぎと言われるかもしれないが、自分の気持ちを正直に言えなくなる社会がいかに恐ろしいかは、社会主義革命を達成した旧ソ連で政府の悪口(気持ち)を仲間に吐露しただけで仲間から密告され、粛清されていった人たちの悲惨さを連想させる。
おそらく首相秘書官はオフレコ(記事にしない)だから大丈夫と考えて、正直に自分の気持ちを吐露してしまったのだろうと思う。オフレコ内容を記事(毎日新聞が報じた)にすることは、記者と取材相手の信頼関係を断つもので私は賛成できないが、ここではオフレコ報道の是非には触れない。首相秘書官は「人権はもちろん尊重する」とあえて話したことから考えて、心の中では嫌な気持ちはあっても、実際の行動の世界では「人権は尊重する」という行動原理をもっていたと推測できるが、メディアは容赦なく心の中まで踏み込んだ。
多様性が多様性を排除するパラドクス
今後、同性婚に抵抗感のある人達の心の内面は閉ざされるだろう。不思議なのは、もともと、性的マイノリティを守ろうとする進歩的な人たちは「多様性が大事です」と主張してきたはずなので、伝統的な家族観やジェンダー観をもった人たちに対しても、多様な寛容さを示してもよいはずだが、現実には排他的である。多様性を尊重すると言いながら、実際には多様性が失われていく。これが私の言うパラドクスだ。
おそらく私がいま書いているこの原稿を新聞社に投稿しても採用されることはまずないだろう。伝統的なジェンダー観を受け入れる多様な物差しをもっていないからだ。
気候変動問題でも多様性の排除か
なぜ、あえてこんな「多様性が多様性を排除するパラドクス」に触れるのかと言えば、この多様性のパラドクスは政治的な差別や人権のテーマに限らないからだ。
似たような問題は、気候変動問題や脱CO2(二酸化炭素)をめぐる世界にもみられる。気候変動対策で外交交渉まで経験した有馬純氏(東京大学東京大学公共政策大学院特任教授)は、地球温暖化論争の主流派に反論したら、次のような反論が返ってきたとして、国際環境経済研究所のサイト(2020年4月1日)に書いている。
「科学の要請に背を向ける」「懐疑的である」と批判を受け、化石賞も何度と無く受賞した。こうした経験から科学の名の下に絶対的正義をふりかざして反論を封ずる類の議論に強い疑問を持つようになった。
有馬氏は、英国の国会議員がテレビで懐疑的な意見を述べると、環境団体から「科学者でもない者を番組に出演させるな」との抗議が殺到したという話も載せている。
これは、ある特定の考え方だけが絶対的に正しいという空気が支配すると、どういう言論空間が成立するのかを物語っている。有馬氏の言葉を借りれば、「中世の異端審問さながらに、異なる見解を断固、排除する動き」である。
心の中の理想が良い結果をもたらすとは限らない
日頃、多様性を尊重する派の人たちはおそらく、心の中は理想に燃え、地球環境を守りたいという美しい意識にあふれているのだろう。しかし、内面的な思想が崇高だからといって、その実際の行動が崇高とは限らないし、共感を呼ぶとも限らない。
英国やドイツなどで見られる過激な環境活動家たちは、地球を守りたい一心で名画にスープをぶちまけたり、交差点に寝転がって大渋滞を引き起こしたりしている。こうした過激なアクションも、西欧では意外と大目に見られているようだが、私から見れば「自分たちこそが正義だ」という独善性にしか見えない。
1970年代にカンボジアで共産党政権を築き、100万人を超える国民を虐殺したとされるポルポト氏(本名はサロト・サル)。裕福な農家の子として生まれ、政府の奨学金でフランスまで留学し、帰国後は学校の教師になった。やがて、あらゆる生産手段を共有し、生産物は平等に分配されるべきだという高き理想を掲げ、国を率いた。心の中は理想に燃えていただろうが、実際の行動は惨憺たる結果をもたらした。
メディアが政府や政治家に問うべきは、何をやったかであり、揺れ動く心の世界ではないはずだ。気候変動問題でも、どちらかに絶対的な正義があるわけではない。「批判されるのが怖いから、何も言わないでおこう」という意識があちこちで蔓延し始めたら、そのときこそが言論空間の危機だと心得たい。