転石苔生さず:努力が生み得る安全性の低下


相馬中央病院 非常勤医師/東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師

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 原子力発電所事故から10年あまりが過ぎた今、改めて福島第一原発事故の振り返りや原子力の安全性についての見直しが進められています。2021年3月に原子力安全推進委員会から「福島第一事故の教訓集」注1)、同年11月には原子力規制員会の継続的な安全性向上に関する検討チームから「振り返り」と題した報告書注2)が出され、内閣府原子力政策担当室においても「原子力利用にする基本的考え方」の改訂へ向け、検討が進められています。
 これらの報告の中で繰り返される文言に
「安全神話からの脱却」
「ゼロリスクはないという認識」
というものがあります。では私たちは、「ゼロリスクはない」という認識によって、本当に安全神話から脱却しつつあるのでしょうか。

 私が危機感を覚える言葉の一つに、
「安全性向上への不断の努力を」
という呼びかけがあります。
 もちろんこの言葉自体が悪いのではありません。私たちはこれまで災害から学び続けることで、より安全で平和な社会を構築してきました。その歴史を振り返れば、安全の維持・向上のために努力を忘れてはいけないことは論を待ちません。しかしこの短い言葉が行間に含む微妙なニュアンスが無視され
「不断の努力なくして安全は得られない」
という思い込みが生まれれば、私たちは容易に新しい神話に陥ってしまうでしょう。

リスク受容を阻む「努力神話」

 ゼロリスクはないけれどもそれに向かって努力し続けて何が悪いのだ。恐らくそう考える方もいるのではないでしょうか。もちろんゼロリスクがないと知ることと、より低いリスクを目指して努力することは別物です。しかし努力を尊重しすぎることの一番の問題は、努力が必ず安全性向上につながる、という錯覚を起こすことにあるのです。
 安全とは「許容不可能なリスクがないこと」注3)と定義されます。つまり安全を得るためには、リスクを低減するだけでなくリスクが許容される必要があります。
しかし
「社会は努力によって限りなく安全に近づくはずだ」
という信念がある限り、リスクは忌避されるべき悪であり続け、その結果リスクへの不寛容はむしろ増すでしょう。このような不寛容はコロナ禍でもくりかえし見られてきました注4)
 現行の安全対策の多くはリスクの低減に注力しすぎた結果、微塵のリスクも許容しない文化を作り上げてしまっている側面もあるように見えます。そしてリスクの定義から見れば、それは安全性を著しく損ねていることになるのです。
 防波堤をどんなに高く、建造物をどんなに堅牢にしようと、その分リスク の許容力が低下すれば「安全」は向上したことにならない。それを理解し、かつ許容するために、努力神話は障壁となり得るのではないでしょうか。
 どんなに科学が発達しようと、どんなに世界中が努力をしようと、世界はパンデミックの拡大も戦争の勃発も止めることはできなかった。ここ数年で私たちが経験したこの事実は、リスクには人の力の及ばない「祟り」の側面が存在することを私たちに教えてくれます。しかしパンデミックの拡大を政府の対策不備に帰し、戦争の勃発を外交の失敗とみなす意見は世間で多く聞かれます。災害の拡大 は努力不足のためである、と思い込むことにより、私たちはこの祟りへの畏怖、すなわち
「何も悪いことをしなくても悪いことは起こり得る」
という基本的な現実を忘れてはいないでしょうか。

強迫観念が生むミス・コミュニケーション

 努力によって人は限りなく安全に近づける、という信念は、一方で
「リスク許容は努力の放棄だ」
という思い込みにも容易に結びつきます。ゼロリスクは理解しても、人から努力不足を指摘されることには屈辱を感じる。努力神話はそのような人々を多く生み出してきました。その結果「まだ石橋の叩き方が不十分」といつまでも橋を渡らない。そんな防災は住民とのリスクコミュニケーションにおいても大きな障壁となり得ます。
 たとえば
「原発事故を想定した訓練や対策について住民と話し合おうとすると、『やっぱり事故は起きるんじゃないか』と言う人が出てくるので難しい」
という意見をしばしば耳にします。現実問題として、そういう方々が一定数いることは確かです。しかし住民の方々が
「原発のリスクが下がらないのは納得がいくだけの対策を取れない 政府と事業者の努力不足だ」
とリスク低減の努力責任がすべて他人にあるかのように「リスクを他人事」にしてしまえば、むしろ社会のレジリエンスが低下します。リスクがゼロにならないのと同様、政府や事業者の対策だけで個人が安全になることはあり得ないからです。
 つまり、政府や事業者が本当に明らかにすべきは、目に見えるリスクではなく「どんなに努力しても政府や事業者の対策だけでは不十分であり、そのリスクを住民に受け入れていただく必要がある」という事実 なのではないでしょうか。全てを自分たちの「努力」で達成するのではなく
「安全達成のために自分たちの力では達成できないことがある。それ を補うために住民の方々の協力を請う必要があるのだ」
という発想転換がない限り、政府や事業者内に限定した努力は体制側の自分本位な努力、という限界を超えることはできないでしょう。
 そもそもリスクは自分でコントロール困難であるほど受容されにくいと言われますから、自分たちがリスク対策に関ることでリスクを選択する、という裁量権 が増した方が住民のリスク受容度は高くなるはずです。そう考えれば、もし一時の困難があったとしても、長い目での地域の安全のために、あえて為政者や事業者たちが努力不足の謗りを受ける覚悟も必要なのではないでしょうか。

命題:「不断の努力なくして安全は得られない」

 ここまで、努力という言葉のみについて述べてきました。このような努力神話だけでなく、
「不断の努力なくして安全は得られない」
という言葉は、額面通り受け止められることで「裏返しの安全神話」を生み得ます。
 これを分かりやすくするために、これを一つの「命題」とした場合の逆・裏・対偶を図示してみます。
 一般的にある命題(AならばB)が真であれば、その対偶(BでないならAでない)も真となります。そこで最初の命題である「不断の努力がなければ安全は得られない」の「対偶」を見てみると、それは
「安全が得られているなら不断の努力が行われている」
になります。これはまさに、原発事故より前の安全神話そのものです。つまり
「不断の努力なくして安全は得られない」
という一見真に見える命題も、その行間を慎重に吟味しなければ、過去の安全神話の単なる裏返しになってしまう、ということです。

逆:「安全を得られていないなら不断の努力が行われていない」
 この命題の「逆」は、
「安全を得られていないなら努力が足りていない」
という努力神話です。
 努力神話の弊害は前述したとおりですが、たとえば前述の「福島第一事故の教訓集」では、過去の反省に基づき、1000頁あまりに及ぶ詳細な教訓と今後の対策が記されています。この膨大な教訓を見れば、2011年の災害は事業者がしかるべき想定を行っていなかった、つまり努力不足によって起きたのだ、と結論付けることは簡単でしょう。しかしそれにより、私たちはすべての災害に「努力不足」という原因が存在する、という快適な思考停止に陥りがちです。
 過去の災害対策の瑕疵を見つけて新たな努力目標を構築する。その作業は、私たちにとってとても心地よいものです。なぜならその行為を行っている間、私たちは全てに原因があり、リスクはコントロール可能であるかのような錯覚に陥ることができるからです。しかし気づかないうちに浸透しているその安心感は、私たちが真の意味でリスクと対面するための心の力を低下させてしまっているのではないでしょうか。

裏:「不断の努力が行われていれば安全が得られる」
 リスクにおける「祟り」の側面から目を背けた結果生まれるのが、元々の命題の裏にあたる、
「不断の努力を行えば安全が得られる」
という努力神話です。つまり、「完璧な対策はない」と認識しながらも「それでも努力をすればより安全に近づく」と信じることにより、「安全向上」の名目の下、際限のない投資が行われてしまう。医療においても原子力利用においても、そんな現場を目にすることは多いのではないでしょうか。
 繰り返しになりますが、努力は必ずしも安全を保障しません。どんな努力も、全く無駄になるかもしれない、というジレンマを抱え、それでもその投資を続けるのか、とくり返し問い続けて始めて、私たちは「ゼロリスクはない」という事実に本当の意味で向き合っていると言えるのではないでしょうか。
 陳腐な言い方になりますが、努力や投資は、それが報われなかった時に初めて投資者の真価が問われるのだと思います。

苔むす石となるために
 天災・人災を問わず、私たちは種々の災害リスクに晒されています。その逃れようのないリスクにきちんと向き合うこと。それは必ずしもリスクと戦い続けることを意味しません。むしろ、「見える敵」と戦い続けることにより次々と生まれる「神話」が 、リスクという不可知と向き合う寛容さを私たちから奪っている、と感じます。
 どんなに努力しても災害や紛争という泥沼から抜け出せない。世界中がそんな限界を感じている今だからこそ、私たちは一旦走り続けることをやめ、「不断の努力」でも逃れ得ない社会の脆さ・危うさを許容する必要があるのではないでしょうか。

注1)
https://www.genanshin.jp/archive/fukushima_lessonslearned/
注2)
https://www.nra.go.jp/disclosure/committee/yuushikisya/AnzenKojo/index.html
注3)
ISO/IEC Guide 51:2014
注4)
https://ieei.or.jp/2020/04/expl200428/