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科学的真実は本当に「ひとつ」なのだろうか


東京理科大学非常勤講師/メディアチェック集団「食品安全情報ネットワーク」共同代表


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 世の中の争いはなぜ、絶えないのだろうか。前回の記事で述べたように、福島第一原発の事故に伴う放射線影響をめぐっては、「健康被害はない」「いや大いにある」と常に言い争いが繰り広げられてきた。なぜ、こんな争いがいつまでも続くのか。
 それは「科学」がひとつではないからだ。このことは、私が過去40年以上にわたって、さまざまな問題を追いかけてきた記者経験から実感として間違いなく言える。学問の世界では幾多の査読を経れば、いずれ科学的真実はひとつに収れんされると考えられているようだが、現実の政治や世の中を見る限り、淡い期待でしかない。

市民の感情が科学を打ち負かした例

 具体例を挙げよう。世界中で使われている除草剤にグリホサートがある。いまはドイツのバイエル社に吸収された旧モンサント社(米国)が開発した農薬である。日本の食品安全委員会をはじめ、ドイツや米国など世界中の公的評価機関が「発がん性はない」と評価しているが、裏で政治的な駆け引きもあったせいか、世界がん研究機関(IARC)だけが2015年に発がん性分類で「2A」(おそらく発がん性あり)と分類したことで、メガトン級の争いが勃発した。
 この発がん性分類はハザード(危害要因のことでヒトへの実際のリスク評価ではない)に基づく分類なので、「2A」になったから危ないという意味ではない。なぜなら、同じ「2A」には、65度以上熱い湯、牛肉や豚肉などの赤い肉(レッドミート)、ポテトフライなど揚げ物に多く含まれるアクリルアミドなどがあるからだ。だれしも、牛肉を食べるときに「おおー、これが発がん性物質か」と想像して食べるような人はいない。
 牛肉や熱い湯と同じ仲間なら、特に問題視するような話ではなさそうだが、一部の科学者や弁護士が放っておくはずがなかった。この「2A」を武器に賠償金をがっぽりいただこうという魂胆である。案の定「私ががんになったのはグリホサートのせいだ」という訴訟が米国で頻発し、原告は10万人を超えた。
 科学者だけの閉じた論争なら、「発がん性なし」派が圧倒的な勝利を収めただろうと思うが、米国の訴訟は一般市民が陪審員として参加する感情渦巻く俗世界である。結局、どうなったか。最初のいくつかの判決で、立て続けに市民側(原告)が数十億円の賠償金を手にする勝利を収めた。予想通り弁護士に巨額の報酬が転がり込んだ。
 結局、科学が市民に負けたのである。この負け戦の行く末を案じたのだろうか、バイエル社は1兆円を払う和解に追い込まれた。まだ完全に決着がついたわけではないようだが、市民が科学の正統性を打ち負かした事件だと私は見る。さらに言えば、科学的な判断を求められるテーマでも、事の是非に関する最終的な決定権をもっているのは科学者ではなく、市民だという冷酷な事実を見せつけた事件だといえる。

国家の科学と市民の科学

 この種の争いの構図は、遺伝子組み換え作物のリスクでも、原発事故による放射線影響でも、ワクチンの副作用でも、気候変動の原因でも、米国産牛肉のホルモン剤使用のリスクでも見られた。つまり、どんな問題でもこの種の争いが生じている。
 では、こうした争い劇でだれとだれが戦っているのだろうか。表向きは市民と政府にみえるが、最終的には科学対科学の争いである。「グリホサートに発がん性はない」とする多数の科学者と「いや危ない」とする少数の科学者が争っているのである。市民運動を支える思考や思想の背後には必ず少数派の科学者が存在する。
 この状況を別の言葉で言えば、科学には2つの顔があるといえる。「国家の科学」(政府の審議会や各種学会の幹部のような科学者)と国家に対抗する「市民の科学」(反体制的科学)である。私の記者経験から、ほぼどんなテーマでも必ず「国家の科学」と「市民の科学」(反体制的科学)の対立、論争があった。
 双方が幾日にもわたる議論を重ねた結果、一方が負けを認めて、「分かった。今回の論争はお前の勝ちだ」と潔くひとつの結論にまとまった光景を見たことはない。どちらも「こちらの言っていることこそが科学だ」と譲らない。
 ここでは主に理系の科学にしぼっているが、この科学の範囲を経済学や歴史学などの社会科学も含めると、もはや百家争鳴の状態で一致点は全くなくなる。共産主義と資本主義の戦いはその最たるものである。

メディアも2つの科学の構図に加担

 やっかいなのは、この争いの構図にメディアと政治家が介在することである。一般にメディアは多数派と少数派を表向きは公平に扱っているように見えるが、実際に複数のメディアを比べると、その差は歴然としている。
 たとえば、福島原発事故と子供の甲状腺がんについて言えば、東京新聞、朝日新聞、毎日新聞は少数派の科学者(市民派科学)を重視し、読売新聞と産経新聞は多数派の科学者(国側の科学者)を多用していることが分かる。前回の記事で述べたように、国連科学委員会は「福島原発事故に伴う放射線による健康被害はない」と科学界のおおよその合意としての結論を報告しているのに、東京、朝日、毎日新聞はこの報告に冷淡であり、総じて政府に批判的な少数派科学者のコメントを載せながら、国連科学委員会に批判的なスタンスで報じている。
 放射線と甲状腺がんのケースを見ても分かるように、科学は常に政治性を帯びている。科学は信念の体系でもある。同じ科学的データを見ても、信念や価値観の差から、異なった結論や判断が導き出されるのが科学の世界である。
 となれば、結局、メディアもどちらかの科学につく。科学の世界でさえも、産経新聞が朝日新聞のような媒体(論調)になることは絶対にないだろう。

少数派科学はメディアの力を得て互角

 少数派の科学は、メディアや市民が味方になってくれるおかげで、科学者だけの世界(学会など)では劣勢でも、市民の判断や感情が幅をきかせる俗世間では大きな勢力になりうる。今は亡き医師の近藤誠氏が「がんの放置療法」を吹聴して大きな影響力を与えたのはメディアがバックにいたからだ。私が6年前にインタビューしたときも「科学や医学の世界ではもはやだれも相手にしてくれませんが、メディアや市民は聞いてくれる」と語っていた。
 記者たちは一般的に言って、国家に批判的な科学者に共感を示す。いくら少数派の科学者でも、メディアから全く無視されたら、勝ち目はない。言い換えると、少数派の科学者はメディアや市民の力を借りて、多数派の科学者と互角に戦っているといえる。
 なんといっても、少数派の科学者はメディアにアクセスする行動力に長けている。そのアクション力と影響力は、子宮頸がんを予防するHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンの健康被害を訴える報道で如実に見られた。HPVワクチンの接種率が1%以下に激減したのは、少数派の科学者と主要メディアがスクラムを組んだからだ。一方、メディアを上手に取り込めなかった多数派は完敗した。

科学への批判は政府への批判

 これまで述べた構図は政治との関係にもあてはまる。
 政治家も記者と似ていて、総じて政権を握る自民党は、国家の科学を支持し、立憲民主党や社会民主党、共産党などは少数派の科学者と手を組み、多数派の科学(つまり国家)を批判する立場をとる。遺伝子組み換え作物やワクチンの危険性、原発事故の放射線影響などの問題を見ても分かるように、野党は国会の質問でも常に少数派の科学者の意見を代弁してきた。
 これを科学者の側から見ると、遺伝子組み換え作物や原発の危険性を訴えている科学者が自民党(国家)を支持する光景はほとんど見かけないということになる。
 よって、政治やマスコミの世界では、政府を批判することが、多数派の科学を批判することと同根になっていく。東京、朝日、毎日新聞が少数派の科学者を多用するのは、政府や自民党を批判したいからである。特にこの3紙は安倍晋三元首相への敵意は強く、安倍氏が凶弾に倒れて暗殺されたにもかかわらず、ここぞとばかり「国葬反対」を繰り広げる。昭恵夫人から見れば、「夫は殺されたというのに、なぜ、悪者呼ばわりされるのでしょうか。かたや犯人の減刑嘆願運動まで起きています。悲し過ぎて、心が張り裂けそうです」といった心境だろうが、メディアの世界は「科学は科学、政治は政治」ではないのである。
 奇妙と言うか当然と言うか、安倍元首相の国葬に反対している政治家たち(立憲民主党や社会民主党、共産党など)の顔ぶれを見ると、遺伝子組み換え作物を危険視し、原発事故の放射線影響を過大視し、ワクチンの副作用を叫んでいた人たちである。
 本来、科学的な思考と政治的な思想は別のはずだが、現実を見れば、科学と政治はどう見ても一体である。「科学はひとつ」といったお題目は空想の世界でしか通用しない。

突如出現した「ねじれ」

 メディアや政治がうごめく俗世間では、どちらの科学が正しいかを最終的に決めるのは市民(国民)である。政治的な立場や思想観、価値観が科学の在り方を決めているのだから、 「国家の科学」と「市民の科学」は永遠に平行線をたどるだろう。
 ところが、である、ここへきて、この構図に特異的なねじれ現象が生じてきた。気候変動問題である。次回でそのねじれ現象を解説したい。