ロシアの戦争でこれまでの気候政策は終わる(1)

皮肉なことに、数十年にわたる懸命な気候政策よりも、地政学的な争いやエネルギー欠乏の方が気候変動に大きく影響するであろう


Founder and Executive Director of Breakthrough Institute/ キヤノングローバル戦略研究所 International Research Fellow

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監訳:キヤノングローバル戦略研究所 研究主幹 杉山大志  邦訳:木村史子

過去30年、世界諸国は気候変動問題に取り組んできたが、あまり成果は上がらなかった。そして今般の戦争で、これまでの気候変動対策は終わりを告げるだろう。しかし、安全保障の観点から各国が強力に、しかも現実的な政策を推進する結果、むしろこれまでよりも気候変動への対策は進むのではないか。内外で見直されている原子力発電はその筆頭だ。日本の高効率火力発電やハイブリッド自動車などもそうだろう。以下、Foreign Policy https://foreignpolicy.com/ より許可を得て全文を邦訳する。

 ロシアの戦車がウクライナに進入した4日後、国連の気候変動に関する政府間パネルは、地球温暖化の影響に関する最新の評価結果を発表した。主要なメディアは、この報告書から最も厳しいシナリオと調査結果を選び出すことに全力を尽くした。しかし、1945年以来初めて、ヨーロッパでの大規模な戦争が勃発したため、この報告書は一面を飾らずせいぜい小さく扱われるにとどまった。「気候変動は、われわれが適応できる速度を上回って地球に害を及ぼしている」という見出しは、「プーチンは核の選択肢を振りかざしている」という見出しに対抗できなかったことは象徴的だ。

 この間、西欧では、ロシアの石油、ガス、石炭を代替供給源に置き換えることに躍起になっており、侵略のわずか3カ月前にスコットランドのグラスゴーで開かれた国連気候サミットにおいてヨーロッパの主要国が表明したネットゼロエミッションの公約は、意味をなさないものになっている。むしろすでにエネルギー不足と価格高騰に悩まされていた国々が、東方の化石燃料大国の暴走に直面し、エネルギー安全保障の問題が再燃している状況なのだ。

 冷戦終結後の数十年間は、世界的な安定とエネルギーへの容易なアクセスにより、現代社会にとって豊富なエネルギーがいかに重要であるかを多くの人が忘れていた。また、気候変動への懸念や再生可能燃料の普及により、化石燃料に依存している社会の現状を過小評価する向きもある。しかし、石油、ガス、石炭へのアクセスは、依然として国家の運命を左右している。20年間、炭素を燃料とすることから起こる大災害を心配するとともに、再生可能エネルギーへの移行に何兆ドルもの資金を費やしたが、この基本的な事実は変わっていないのである。

 実際、一夜にして起きたウクライナでの戦争は、ポスト冷戦の時代に幕を下ろした。それはヨーロッパの長い平和な時代に終止符を打っただけでなく、エネルギー資源へのアクセスという根本的な問題を前面に押し出したのだ。地政学的な要因によるエネルギー危機とエネルギー資源競争を特徴とする新時代は、気候変動への懸念を優先リストの下位に押しやりつつある。このような状況の中に明るい兆しもあるとするならば、それは、エネルギー安全保障の必要性に焦点が戻ることは、気候変動にとって最悪の事態ではないかもしれない、ということである。過去30年間、国際的な気候変動対策が温室効果ガス排出量にほとんど効果をもたらさなかったことを考えれば、エネルギー現実政治(リアルポリティーク)に立ち返ることで、これまで世界中で行われてきた気候変動対策活動や政策立案に見られるような理想主義的な計画から脱却し、低炭素型の世界経済への移行を今後数十年で実際に加速させる可能性があるのだ。

 冷戦が終わりを迎えようとしていた頃、気候変動問題が世界的に議論されるようになった。ある現実的な脅威が後退したように見える一方で、別の脅威が見えてきたのだ。国際社会、特に国連とその諸機関にとっては、気候変動は単なる環境問題ではなく、冷戦後の秩序をより公平で、多国的で、政治的に統合されたものに再構築する機会を提供するものとなったのである。

 もっとも、1990 年代初頭に気候変動対策の枠組みができたとき、それは冷戦時代の経験に基づくものであった。米ソの軍備管理協定は、気候変動に関する国際協力のモデルとされることになった。超大国同士が核兵器の保有量を徐々に削減する条約を結んだように、各国も温室効果ガスの排出量を削減することを約束することになったのである。しかし、法的拘束力のある排出量制限を提案する最初の主要な協定である1997年京都議定書は、交渉がまとまる以前に、米国上院がその条件を全会一致で拒否した瞬間から破綻していたのだ。米国の反対に加えて、中国やインドのようなエネルギーに飢えた急成長国が排出量の制限を検討することさえ嫌がるのは当然であり、国際的な気候変動対策が役に立たないことは目に見えていた。

 国際的な気候変動対策は、意欲的な目標と拘束力のない公約が交渉の通貨となり、実質的な実施能力を欠いていた。持続可能な開発目標や生物多様性条約など、1990年代から2000年代初頭にかけて登場した他の国連機関の構想と同様、その目的は主に、人々を説得し、奮起させることにあった。毎年開催される国連の気候変動会議は、世界中のメディアを通じて、産業革命以前の水準から1.5度上昇までに温暖化を抑える、再生可能エネルギーで世界をまかなう、有機農業へと転換する、緩和策と適応策のために富裕国から貧困国へ何千億ドルも移転する、といった地球環境運動の理想郷をあたかも現実のものとして語ることができる舞台となったのである。

 しかし、実際には違うことが起きている。世界のエネルギーシステムにおける炭素集約度は、エネルギー効率の向上、原子力の普及、世界経済構造の変化により、初めての国連気候会議までの30年間の方が、締結後よりも早く低下していた。じつは、京都議定書が採択された1997年以降には、総排出量も一人当たりの排出量もそれ以前より早く増加したのである。

 気象関連の死亡者数が減少を続けていることからも明らかな通り、気温の上昇や異常気象に対する適応能力も大幅に向上した。しかし、このことは国連が主導する気候変動への適応策に資金を提供する取り組みによるものではない。むしろその取り組みでは実現できなかったことである。世界中の人々が気候変動に対して頑強になったのは、安価な化石燃料を動力とする経済成長のおかげで、より良いインフラとより安全な住宅を手に入れることができたからである。

 冷戦時代の地政学的、技術的、経済的競争は、その後の気候変動対策よりも、世界経済の炭素集約度を下げることに成功した。温室効果ガスの排出のない原子力発電は、軍拡競争から派生したものだ。それは卓越した技術力、そして原子力の平和利用が可能であることを示すものであった。 イスラエルとアラブ世界の代理戦争から生まれた1973年のアラブ石油禁輸は、20年にわたるエネルギー効率の目覚しい改善、発電と暖房の石油からの移行、そして原子力の急速な増強のきっかけとなった。原子力発電の先駆者であるフランスは、現在もG7先進国の中で最も環境にやさしい経済になっている。太陽光発電パネルは、大国の宇宙開発競争のために開発されたものだが、カーター政権のエネルギー自立化政策の一環として実用化された。また、自動車の燃費効率が飛躍的に向上したのもこの時代である。

 世界的に見ると、原子力、水力、再生可能エネルギーといったクリーンなエネルギーによる電力の割合は、冷戦終結直後の1993年にピークに達している。世界が温室効果ガス削減という共通の目標に向かって、瀬戸際政策から協調政策に転じるという期待は裏切られた。むしろ、冷戦後の平和と繁栄、そして豊富で安価なエネルギーへの依存が、エネルギー安全保障に大規模な投資を行う国家のインセンティブを劇的に低下させたのである。大きな紛争のない統合された世界経済では、世界はロシアのガスや中東の石油、そして最近では中国のソーラーパネルでまかなうことができた。

 そんな世界が2月24日に終わりを迎えた。

次回:「ロシアの戦争でこれまでの気候政策は終わる(2)」へ続く