排出量取引制度(キャップ&トレード)とは?
松本 真由美
国際環境経済研究所理事、東京大学客員准教授
炭素の排出量に価格付けを行う「カーボンプライシング(Carbon Pricing)」の施策には、「排出量取引」と「炭素税」があります。「排出量取引」とは、個々の企業に排出枠(温室効果ガス排出量の限度:キャップ)が設定され、事業者は自らの排出量相当の排出枠を調達する義務を負います。キャップが未達の場合は罰則があるのが一般的です。事業者が排出枠を調達する方法としては、①オークションによる政府からの購入、②政府からの無償割り当て、③他の事業者からの購入などがあります。事業者は、排出枠の売り買い(トレード)を行うことが可能で、需要と供給により、温室効果ガス(GHG)の価格が形成されます。
排出量取引制度が世界で初めて大規模に導入されたのは、1990年に改正された「大気浄化法」による米国の石炭火力発電所からの硫黄酸化物(SOx)と窒素酸化物(NOx)を対象にしたものでした。この取引制度が成功したことから、欧州諸国もEU加盟国を中心に二酸化炭素を対象に導入を行いましたが、あまり機能していません。SOxとNOxの削減コストは割り当てを行う当局がある程度予測可能ですが、二酸化炭素の場合には、削減方法が多岐に亘り、また事業者の事情も異なるため適切な割り当てを行うことが難しいという問題が浮上しています。
メリットとデメリット
排出量取引制度では、規制対象事業者は義務を果たすために、①自分に適した削減手法を進んで自ら削減する方法、②排出枠の取引・購入により履行する方法を選択できることになっています。排出枠の取引により、景気の動向や事業活動量の変化にも対応できるようになっており、履行の手段には一定の柔軟性を持たせています。また、炭素への価格付けを通して、規制対象事業者が費用の少ない排出削減の取り組みを効率的に選択されると思われることから、社会全体として効率的な排出削減が行われるとみられます。より効率的な排出削減技術や低炭素方製品の需要が高まることから、低炭素型の技術や製品の開発が促進されることへの期待もあります。
全体の排出枠が設定されているため、規制対象事業者の排出量は、理論的にはその枠内に抑えられることになり、国全体として最も経済効率的な削減を図ることができるとされ、これらの点は、本制度を導入するメリットと考えられています。
一方、デメリットや課題もあります。まず、エネルギー多消費産業をはじめとした産業の国際競争力の低下や、生産拠点を排出規制が緩やかな海外へ移転することにより地球全体の排出量がむしろ増えてしまう「カーボン(炭素)リーケージ」の問題が懸念されています。その他、海外における本制度導入状況を踏まえ、①排出枠の設定の困難さ、②価格の低迷、③効率性などの課題が指摘されています。
- ①
- 排出枠の設定の困難さ:設定された排出枠に対して、景気変動や他の省エネや再生可能エネルギーの促進策などの効果で、需要が過小になったり過大になる可能性がある。
- ②
- 価格の低迷:低価格で排出枠の調達が可能である場合、短期的には排出枠の購入が削減目標達成のために合理的な対応策となりますが、排出枠購入により企業が保有する原資が奪われ、長期的な低炭素技術の導入やイノベーション(技術革新)に向けた投資を阻害する可能性がある。
- ③
- 効率性:理論的には効率的に排出削減がなされる前提ですが、すでに本制度が導入された海外事例において効率的な削減がなされているか疑問な点もある。
また、行政コストの問題が生じていることも言われています。排出枠の割り当てにあたり、規制対象分野の事業者など利害調整が行われますが、この利害調整に多大な行政コストが生じており、利害調整の結果、特例措置などが導入されるため、制度が複雑なものとなる可能性があります。
各国・地域での排出量取引制度(キャップ&トレード)導入状況
排出量取引制度(キャップ&トレード)を導入している国や検討状況を図2に示します。
(1)EU(欧州連合)
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- 制度名:EU-ETS(Emission Trading Systems EU域内排出量取引制度))*加盟28カ国を中心に31カ国が参加
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- 2005年より導入(対象部門:電力、産業、航空等/対象事業所数11500施設)
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- 排出枠(2015年)19.0億トン/GHG排出量カバー率:45%
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- 最近の価格(/t-CO2):1トンあたり4.78ユーロ(2016/7/1市場価格)=約545円
2005年の導入直後に制度の見通しが不透明なこともあり価格が暴騰した後、過剰割り当てで価格が暴落しました。その後価格をいったん取り戻しますが、リーマンショックや外部クレジットの流入によって排出枠(EUA)の余剰は大きくなり、再度価格が低迷し、今に至ります。スタート当初の炭素価格(カーボンプライス)は1トンあたり数千円だったのが、現在は数百円となっている状況です。排出量は結果的に削減されていますが、炭素価格は当初想定されていた価格よりもはるかに下回っています。EUでは、価格対策として一部の割当て量を将来に繰り越したり、2019年から余剰量をコントロールする対策を実施する予定です。
(2)米国
- ①
- 東部9州(制度名:RGGI)2009年より導入(対象部門:電力/対象事所数168施設)
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- 排出枠(2015年)0.8億トン相当/GHG排出量カバー率:20%
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- 最近の価格(/t-CO2):1トンあたり4.53米ドル(2016/6/1オークション価格)=約457円
- ②
- カリフォルニア州2014年より導入(対象部門:電力、産業、運輸等/対象事業所数450事業所)
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- 排出枠(2015年)3.9億トン/GHG排出量カバー率:85%
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- 最近の価格(/t-CO2):1トンあたり12.71ユーロ(2016/7/13市場価格)=約1284円
東部9州が2009年より火力発電を対象とした制度を、カリフォルニア州が2014年から発電や産業を広く対象にした制度を実施しています。カリフォルニア州は、カナダのケベック州の制度と連携しており、最低価格を決めて下落しないように工夫しています。連邦レベルでは、2009年に法制化が提案されましたが、廃案になっています。
(3)韓国
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- 2015年より導入(対象部門:電力、産業、公共(水道、廃棄物)、業務(建物、通信)、運輸、航空/対象事業所数526企業)
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- 排出枠(2015年)5.7億トン/GHG排出量カバー率:68%
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- 最近の価格(/t-CO2):1トンあたり1万ウォン=約1000円
2015年に制度を導入しました。EUの経験を踏まえて初期割当てに慎重になった結果、排出枠が不足し、対象企業の46%にあたる276企業が政府に対して訴訟を提起しました。現在、取引はほとんど実施されていない模様です。
(4)中国
2014年以降、全国7都市でパイロット事業を実施中です。対象部門は省・市ごとに設定する予定ですが、電力、産業、建設、運輸、航空等が対象になる見通しです。2017年から全国に拡大する予定で、現在制度の策定中とされます。
(5)オーストラリア
2012年から排出量取引制度が開始されましたが、政権交代により、2014年に制度を中止しました。かわって、2014年に排出削減基金(Emission Reduction Fund)を開始し、排出削減プロジェクトに対して逆オークションで選定し、クレジットを買い取る仕組みをつくっています。2016年には、国内の大規模排出者に対する排出量の規制と、不達の場合のクレジット調達を求めるセーフガードメカニズム(実質的なキャップ化)を実施しています。
(6)東京
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- 2010年より導入(対象部門:産業、業務/対象事業所数1291事業所)
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- 排出枠(2015年)0.10億トン/GHG排出量カバー率:21%(2013年)
第1期(2010~2014年)が終わった段階で、枠(排出削減目標)を達成できていない事業者は超過削減量を調達する必要があり、現在が事後精算期間になっています。東日本大震災後の節電もあり、9割の事業者は自力で排出削減を達成しています。
日本の国内排出量取引制度の素案
日本では環境省が導入を検討中で、キャップ&トレード方式による「国内排出量取引制度(ETS)」の素案が2016年6月に出されました。エネルギー起源のCO2を年間1万トン以上排出する事業所を対象に、2020年以降に実施するとしています。日本の約束草案を基に削減水準を設定し、2030年に3100万トンのエネルギー起源のCO2排出を削減する目標です。国内排出量取引の対象は主要排出源の産業に限定されます。
事業所のカバー率は、「直接排出」で63%(1939事業所)、「間接排出」で39%(4324事業所)のカバー率になる見込みです。「直接排出」は発電に伴う排出を電力会社の排出として捉え、「間接排出」はその電力を使う事業者の排出として捉えられます。素案では、①「直接排出」、②電力の消費量に応じて割り当てカウントする「間接排出」と「直接排出」の組み合わせの2つのオプションを設定しています。オプション②では、電力小売り事業者については、総量目標ではなく、電力業界が目標として掲げている2030年までの排出係数「0.37kg/CO2kWh」を原単位目標とすることを想定しています。
排出枠の設定方法については、当初段階は無償割り当てを基本とし、ベンチマーク*による割り当ては、電力や素材系など一部業種に想定しています。外部のクレジットについては、二国間クレジット制度(JCM)とJ-クレジット制度のクレジットの利用を認めています。経済への影響を配慮し、順守期間を超えて自己の排出枠を順守できるように、余剰排出枠を次期順守期間または、対象期間以降に繰り越す「バンキング」を認めています。しかし、次期順守期間の排出枠を使用する「ボローイング」は原則認めていません。
*ベンチマーク(基準値):製品・行程に係る望ましい排出原単位(生産量当たりのCO2排出量)を設定し、これに生産量を乗じて排出枠を設定すること。[拡大画像表示]
排出量の算定検証は、ガイドラインを定め、第三者検証を義務付けています。排出枠の取引や価格の安定化については、京都クレジットに準じた排出枠・クレジットの管理を想定しており、価格安定化措置の導入も一案だとしています。また、罰則については、排出量の報告義務違反に対しては罰則を課し、排出枠の償却義務の未達に対しては課徴金を課すことにしています。
この素案については、大規模な排出限である工場やビルなどからのCO2排出を確実に抑えることで、日本の総排出量の削減に大きく寄与するとみられる一方、目標達成には、原単位の改善より国内生産の縮小の方が容易であることから、経済活動の縮小とカーボンリーケージを招く懸念があるとの指摘もあります。海外における排出量取引制度の動向やその効果、産業に対する負担やこれに伴う雇用への影響、国内で先行している地球温暖化対策(産業界の自主的な取組など)の運用評価などを見極め、国内排出量制度の導入については政府全体として慎重に検討が行われる見通しです。