第10話「オーストリア・ハンガリー原子力事情」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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1.オーストリアとハンガリー:美しく青きドナウでつながる二重帝国の末裔

 ウィーンはかつてオーストリア・ハンガリー帝国の首都であった。帝国の都としての遺産は街のあちこちに残っている。ウィーンで上演されるオペレッタにも「チャールダーシュの女王」、「伯爵夫人マリッツァ」などウィーンとブダペストの両都市を舞台にした作品がいくつかある。

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20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国(写真は筆者撮影)

 このオーストリア・ハンガリー二重帝国(Die Doppelmonarchie Österreich-Ungarn)という一風変わった政体が出来たのは、今から150年前に遡る。1866年の普墺戦争、第3次イタリア独立戦争に敗北したオーストリア帝国は、ドイツ統一の主導権をプロイセンに奪われ、イタリア内の領土の大半を失ったのに加え、多民族を抱える国内の不安にも直面した。安定を取り戻す為に編み出されたのが、翌1867年に結ばれたアウスグライヒ (Ausgleich:「和解」、「妥協」を意味する)といわれるオーストリアとハンガリーの間の協定である。(ちなみに、敗戦で失意の底にあるウィーン市民を慰めるため、ヨハン・シュトラウス2世が作曲したとされる名曲「美しく青きドナウ(An der schönen blauen Donau)」が生まれたのもこの年である。)これにより、オーストリアとハンガリーは共通の君主の下、軍事、外交、財政の分野を除き、それぞれ独自の政府を持つこととなった。この政体は第一次世界大戦での敗戦後の帝国解体まで続くこととなる。今年没後100年を迎えるハプスブルク家の実質的な最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア皇帝(Kaiser von Österreich)であると同時にハンガリー国王(König von Ungarn)でもあった。
 帝国解体後、オーストリアとハンガリーは異なる道を歩むこととなる。第二次世界大戦後の東西冷戦下ではオーストリアは永世中立国、ハンガリーは共産主義国となった。1989年秋のベルリンの壁の崩壊に先立ち、真っ先に鉄のカーテンが崩れたのはオーストリア・ハンガリー国境であった。冷戦終結から約四半世紀が経った今、両国とも欧州連合(EU)の一員として再び同じ道を歩んでいる。
 しかしながら、美しく青きドナウでつながるオーストリアとハンガリーの間には様々な違いがある。とりわけ原子力政策は極めて対照的である。今回は、この両国の原子力事情を中心に紹介することとしたい。

2.オーストリア:原子力外交の都を擁する脱原発の国

 国際原子力機関(IAEA)を擁するウィーンは言わずと知れた原子力外交の都である。しかしながら、逆説的ではあるが、オーストリアは脱原発の国である。同国の電源構成は、水力発電、石炭ガス火力発電、風力発電、バイオマス発電などが占めているが、原子力発電はゼロである。
 オーストリアにもかつて原子力発電計画は存在した。ウィーンの北西約50kmのドナウ河沿いにあるツヴェンテンドルフ原子力発電所(Atomkraftwerk Zwentendorf)である。4月末に筆者は同発電所跡を訪れる機会を得たが、オーストリアの原子力政策がたどった特異な歴史を伝える大変ユニークな施設である。

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ツヴェンテンドルフ原子力発電所跡(写真出典:左は同発電所ホームページ、右は筆者撮影)

 オーストリアは1970年代まで原発推進の立場をとってきた。ツヴェンテンドルフ原子力発電所も1972年に建設が開始され、発電能力約730メガワットの独シーメンス社製の沸騰水型(BWR)原子炉1基が1976年にほぼ完成し、隣接地には増設計画もあった。今でも現地に残る原発施設内に足を踏み入れると、アナログ式の計器に囲まれた中央制御室など、1970年代にタイムスリップしたような感覚におそわれる。

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ツヴェンテンドルフ原子力発電所の中央制御室(写真は筆者撮影)

 しかしながら、反原発運動の高まりを受け、ときのブルーノ・クライスキー(Bruno Kreisky)首相・社民党党首は同発電所の操業の是非を国民投票にかけることを決定する。当時、左右を問わず全ての政党、産業界、労働組合が原発推進の立場であり、クライスキー首相も原発操業が支持されることを見込んでいた。一方、反原発運動は個人の活動が中心であったとされる。
 この国民投票の実施に際し、クライスキー首相は、原発操業が認められなかった場合には政界を引退するとして投票結果と自らの進退を結びつけるアプローチをとった。このため、この国民投票は原発政策の是非のみならず、社民党出身の同首相の信任を問う性格を帯びるものとなり、賛否の論争は熾烈を極め、オーストリアの国、地域、家族をも分断するものとなった。例えば、原発政策を支持する保守層が、クライスキー首相不支持であるが故に反対票を投ずる一方、逆に原発反対の左派層が、同首相支持のため、賛成票を投ずるといったこともあったようである。