第10話「オーストリア・ハンガリー原子力事情」


在ウィーン国際機関日本政府代表部 公使

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 1978年11月5日夕刻に発表された国民投票の結果は、賛成49.53%(1,576,839票)、反対50.47%(1,606,308票)。ツヴェンテンドルフ原子力発電所の操業は30,000票足らずの僅差で否決された。同年12月にはオーストリア国民議会が「原子力禁止法(Atomsperrgesetz)」を可決、これによりオーストリアではエネルギー供給を目的とする原子力利用及び原子力発電所建設が禁止された。

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1978年当時のオーストリアの反原発運動と国民投票の結果(写真出典:左は同発電所ホームページ、右は筆者撮影)

 国民投票後しばらくは、施設を所有するトゥルンフィールド共同原子力発電所(国有電力会社とオーストリア各州が出資する有限会社)は政策転換の可能性に期待を寄せたものの、翌1979年の米国スリーマイル島原発事故により原子力発電に対する信頼が揺らぐ中、結局1985年に廃炉を決定した。1986年のチェルノブイリ原発事故は原発への信頼を更に傷つけ、オーストリアにおける反原発の流れをより強固にする影響を及ぼした。(これと対照的なのがハンガリーである。当時共産主義体制下にあった同国では、チェルノブイリ事故関連の情報が広く知らされることがなかったこともあり、後述するように1980年代に原発が次々に操業を開始している。)ツヴェンテンドルフ原子力発電所の廃炉に伴い、そこで働いていた多くの技術者はドイツの原子力発電所や他の電力会社に移籍することとなった。なお、同原発に代わる電源として、石炭ガス火力発電所が近隣に建設された。
 更に、1997年に実施された国民請願「原子力のないオーストリア」には約25万人が署名し、1999年に国民議会が憲法律「原子力のないオーストリア」を議決した。これにより、一部研究用等を例外として、文字通り原子力のないオーストリアが確立されるに至った。以来、オーストリアは脱原発、再生可能エネルギー推進の立場を明確に打ち出し、EU内でも原子力発電所に対する補助金禁止などを加盟各国に働きかけている。
 廃炉後のツヴェンテンドルフ原子力発電所はその後、数奇な運命をたどることになる。同施設の活用策として、ハリウッド・アクション映画のロケ地、ディズニーランドのような遊園地など様々なアイデアが出された。オーストリア出身の芸術家フンデルトヴァッサーはこの施設を博物館(“The Misguided Technology Museum”)にしてはどうかと提案したそうである。一時はオーストリア警察学校の研修施設として使用されたこともある。また、同型の原子炉を運用するドイツ等他国の原子力技術者にとって、原子炉内部の構造を実際に見ることのできるツヴェンテンドルフは絶好の研修施設となった。福島第一原発事故後にドイツが脱原発の方針を決定する2011年までは、ツヴェンテンドルフの施設はドイツの原発技術者によってフルに活用されていたそうである。

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ツヴェンテンドルフ原子力発電所内の原子炉(写真は筆者撮影)

 2005年に現在の所有者である地元ニーダーエスターライヒ州のエネルギー会社(EVN)が施設を取得、原子力技術者の研修のほか、外部見学者向けのガイドツアーや、太陽光パネル設置、各種イベントの開催など、様々な活用がなされている。ただし、施設跡地の最終用途については、石炭ガス火力発電所やバイオマス発電所の建設が念頭におかれているものの、温暖化対策面の考慮もあり、方針は未定のようである。(ちなみにオーストリアは京都議定書第一約束期間で基準年比-13%の排出削減義務を負っていたが(EU全体の目標は-8%)、実際の排出は+6%となり排出量取引等で補った。)

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ツヴェンテンドルフ原子力発電所よりドナウ河を望む。遠景に見えるのは同原発廃炉後に建設された石炭ガス火力発電所(左)。原発増設予定地だった隣接地に設置された太陽光パネル(右)(写真は筆者撮影)

 このツヴェンテンドルフ原子力発電所を巡る歴史は、原子力発電のような国内での合意形成の難しい政策の実施において、国民に関連情報を提供し、意思を問うプロセスを巡る様々な教訓を示している。それは現在の課題でもある。
 仮に、1978年当時の政権が国民投票という手法をとらなかったとしたら、または政権信任とは切り離した形で行っていたら、もしくは、その後クローズアップされる地球温暖化問題における原子力発電のゼロ排出電源としての意義についての理解が進んでいたら、オーストリアの原子力政策は変わっていたかも知れない。逆に、後述するハンガリーにおいて、1986年のチェルノブイリ原発事故の関連情報が当時広く知られていたら、同国の原発操業を巡る動きも変わっていたかも知れない。「歴史にifはない」とは言うものの、両国のたどったあまりに異なる道のりを知るにつけ、そうした想像にかられざるを得ない。